あの親子はいま 映像がつなぐ阪神・淡路大震災の記憶

あの親子はいま 映像がつなぐ阪神・淡路大震災の記憶
「息子が額を12針縫いましたー」

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。
当日の夜、避難所の様子を取材したNHKのニュース映像には、額をけがした2歳の男の子とインタビューを受ける母親の姿がありました。

あの日から29年。

震災の記憶が薄れていくなか、経験をどう伝え、これからに生かしていくのか。
NHKでは、当時撮影された膨大な量の「アーカイブス映像」を検証し、その一部を公開。
映像を通して記憶を共有する取り組みを進めています。

1つの映像をきっかけに、これまで語られることのなかった記憶を共有した家族の震災29年です。

(神戸放送局 記者 西川龍朗)

残された7000本余りのアーカイブス映像

「震度7」の揺れが襲った阪神・淡路大震災。

犠牲者は災害関連死も含め6434人、住宅被害はおよそ64万棟にのぼり、大災害にぜい弱な都市の現実を突きつけました。

NHKには地震の発生直後から被災地の様子を記録してきた7000本余りのアーカイブス映像が保管されています。
横倒しになった高速道路。
倒壊したアパートに取り残された人の救出作業にあたる地域の人たち。
避難所で協力し合う人々。

どれも当時の被害の実態を伝える上で貴重な映像です。

この大地震に直面した人たちの姿は、過去を知るだけでなく、次に起こるかもしれない災害に備える上でも大切なものとなるはず。

NHKではアーカイブス映像を検証し、その一部を公開する取り組みを進めています。

額をけがした男の子

検証を行うなか、1つの映像に目がとまりました。

震災からおよそ14時間後の1月17日午後8時ごろ、兵庫県宝塚市にある避難所の様子を取材したときの映像です。

額をけがした男の子とインタビューを受ける母親の姿がありました。
NHK:お子さんのお名前は?
女性:「ユウスケです。1月5日に2歳になったばかりです」

NHK:けがの程度はどうなんですか?
女性:「タンスの上の物が落ちてきまして。木材の物だったので、12針ほど額を縫いまして」

NHK:お子さんのことが一番心配ですね?
女性:「はい」
この2歳の男の子はいまどうしているのだろうか?

映像の資料を頼りに探してみることにしました。

あの親子を追って…

手がかりはインタビューで母親が語った親子の名前とおおまかな住所、そして生年月日のみ。

住所の周辺で当時の状況を知る人を探すなどおよそ2週間。

映像の母親に話を聞くことができました。
木原嘉子さん(59)と夫の一雄さん(60)です。
嘉子さんは、当時、息子の雄介さんが通っていた保育所の連絡帳を見せてくれました。

そこには幼いながらに感じていた震災の恐怖がつづられていました。
「まっくらやった。ドーンってして血が出てきた。エーンていうた」
嘉子さんは、雄介さんが震災で負った“傷”は精神的な面にも影響していたのではないかと当時を振り返ります。
母 嘉子さん
「保育園では、寝ている途中に『痛い』って言って起きてきたことがあるということが連絡帳に何回か書かれているので、やはり寝ていても当時の恐怖感や痛みが頭の中でフラッシュバックしていたのかなと思います」
一雄さんも、「震災の日のことは今も鮮明に覚えています」と切り出し、当時の状況を詳細に語ってくれました。
父 一雄さん
「地震による大きな揺れでタンスの上の物が落ちて雄介に当たったんです。直後は電気がつかず部屋は真っ暗でしたが、泣いている雄介のおでこのあたりを触ったら冷たくて滑る感じがしました。確認すると出血していました。すぐに頭をタオルで巻いて抱きかかえ、不安な気持ちで病院まで走りました。あの額を触ったときの右手の感覚は29年がたっても残っています。どうして守ってあげられなかったのか、というトラウマのようなものでしょうかね」
周りには命を落とした人がたくさんいるなか、自らを被災者だと思うこともできず、家族で震災について話すことはありませんでした。
母 嘉子さん
「亡くなったり大けがをされたりした人がたくさんいらっしゃるなか、自分たちを被災者として考えたことはなかったと思います。自分たち親の不注意で子どもにけがをさせてしまったという負い目もずっとあって、無意識に震災の記憶にふたをしていたのだと思います」

映像の男の子はいま

当時、2歳だった息子の雄介さん(31)です。
今は1人暮らしをしながら、コンビのお笑い芸人として活動しています。
額には被災したときに負った傷痕がいまも残っていました。

しかし、「震災当時の記憶は全くない」と語る雄介さん。

当時、何があったのか知りたいと思いながらも、この29年間、両親にあえて聞くことはありませんでした。
木原雄介さん
「学校では阪神・淡路大震災のことや防災について学ぶ授業などはありましたが、家族内でわざわざ震災の話をすることはなかったです。当時、何があったのか知りたいとはなんとなく思っていましたが、両親も特に語らなかったので私もこれまで震災を意識することは無かったです」

映像を見た家族 伝えたかったこととは

去年12月。

NHKで保存されている映像を一緒に見てもらいました。
インタビューの映像をきっかけに、両親はこれまで抱えていた震災の記憶を語り出しました。
父 一雄さん
「地震の時は起き上がれなくて、四つんばいになるのも難しいくらい揺れた。雄介はけがをした直後は泣いていたけど、昼間はずっと夕方まで寝ていて、大丈夫かなとお父さんもお母さんもすごく心配していたんや」
母 嘉子さん
「けがをさせてしまっているから、これ以上のことがあったらいかんなと思っていた。家もぐちゃぐちゃのまま避難したけど、それよりもやっぱり雄介がどうなるかなというのが一番心配やったね」
その後、雄介さんの看病をしながら知人や親戚の家での避難生活がしばらく続いたという両親。

雄介さんにいつか伝えたいと思っていたことがありました。
父 一雄さん
「われわれ家族は震災では周りの人たちにすごく助けられた。災害はいつやってくるのかわからないので、友人や地域の人たちとのつながりは日頃から大切にしてほしい。もちろん物的な備えとは違うけど、それも大切な備えの1つだと思うよ」
母 嘉子さん
「無意識なのか、意識的になのかは分からないけど、震災の記憶に知らず知らずにふたをしてしまっていた部分はあったのかもしれない。たまたま命があってここまで生きてこられてよかったし、雄介が生きていてくれてよかったとすごく思っている。犠牲になられた方も多くいる中で、私たちは助かってこうして今を生きているから、命が助かった者としてこれからも震災のことを忘れずに生きていってほしい」
あの日から29年。

映像を通じて、初めて語られた震災の記憶。

雄介さんは両親との絆を改めて確認する貴重な機会にもなったと感じています。
木原雄介さん
「たぶんこうした機会がなければ、当時どういう状況だったのか両親に聞くことはなかったと思いますし、周囲の人を大切にすることの積み重ねがもしもの時の助けになるということばも心に残りました。そして、地震が起きた時に両親が何よりも僕の命を守ることを最優先に考えてくれていたことを知ることができました。改めて両親に感謝したいです」

映像は語る

阪神・淡路大震災に関する県内の追悼行事は、2020年には60件ありましたが、新型コロナウイルスによる影響を受けて以降は、特に減少傾向が目立っていて、ことしは43件(2023年12月20日時点調査)と減少傾向が続いています。

震災の教訓を次の世代につなぐ難しさが改めて浮き彫りになっています。

映像の記録を共有し、教訓を将来へとつないでいけるのか。

私たちはこれからも検証を続けていきます。

(1月12日 「かんさい熱視線」1月17日「ほっと関西」などで放送)
神戸放送局 記者
西川龍朗
2022年入局
警察取材を担当
阪神・淡路大震災後に生まれましたが、アーカイブス映像を通して今回、私自身も震災を追体験しました