【1日の動き】阪神・淡路大震災29年 能登などの被災地にも思い

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から1月17日で29年となりました。

記憶の風化が懸念される中、29年前の教訓を今の被災地の支援にどう生かすかが課題となっています。

1995年の震災当時もあわせ、2024年1月17日の各地の動きを、タイムラインでまとめました。

1月17日の動きを動画で振り返る

神戸市など大きな被害を受けた地域では、地震が起きた午前5時46分に黙とうが行われ、犠牲者を悼みました。

神戸市の東遊園地では、元日に能登半島地震が起きた午後4時10分にも黙とうが行われました。

神戸 追悼のつどい 訪れた人は約3万6000人(17:00)

神戸市によりますと、中央区の東遊園地で行われている追悼のつどいを訪れた人は、17日午後5時の時点でおよそ3万6000人で、去年より1000人ほど多くなりました。

17:00

神戸 長田区の商店街 能登半島地震の被災地支援の募金活動

神戸市長田区の「大正筋商店街」は地震の直後、大規模な火災が起き、98あった店舗のほとんどが焼けて、2人が亡くなりました。

商店街では17日午後5時から犠牲者の追悼行事が行われ、この中で能登半島地震の被災地を支援するため、地元の人たちが募金活動を行い、参加者や買い物客に協力を呼びかけました。

募金に協力した長田区の40代の男性は「元日に北陸で地震があり、被災地の人たちは阪神・淡路大震災のときと同じ気持ちだと想像しました。震災の時に協力してもらったように、少しでも力になれたらと思います」と話していました。

45年前から商店街で茶の販売店を営む伊東正和さんは「前を向いて29年頑張ってきましたが、能登の地震の状況を見て、かつての長田と重なり、とてもつらいです。火災が起きた輪島市などのため、何ができるかを考え続けます」と話していました。

16:10

午後4時10分にあわせ黙とう 石川 輪島から来た人も

東遊園地では能登半島地震が発生した午後4時10分にあわせて黙とうが呼びかけられ、訪れた人たちが時報とともに静かに目を閉じて、犠牲者を追悼するとともに、被災地の復興を願いました。

石川県輪島市から訪れた柴田剛さん(67)は、2007年の地震で自宅が壊れましたが、今回の能登半島地震で再び自宅が壊れて、避難所で暮らしているということです。

ボランティアの人から、神戸では震災の追悼のつどいが毎年行われていると聞き、その様子を確かめたいと、車で10時間ほどかけて来たということです。

柴田さんは「これから復興に向けて動いていくうえで、追悼のつどいが29年も続いているのはどうしてなのかということをこの目で確認し、戻った先で伝えられたらと思って来ました。灯籠に書かれた石川や能登へのメッセージを見て、うれしくなりました。とにかく前を向いて、復興のために何をすべきかを考え、いろいろなことに挑戦していきたいという気持ちになりました」と話していました。

13:00ごろ

震災の教訓を中学生が小学生に語り継ぐ

阪神・淡路大震災の教訓を、震災を体験していない中学生がさらに若い世代の小学生に語り継ぐ活動が行われました。

神戸市須磨区にある鷹取中学校の周辺は、阪神・淡路大震災で甚大な被害を受けました。

中学校では今年度、震災について学んだ生徒たちが小学生たちに語り継ぐ活動を初めて実施することになりました。

17日は、震災当時に鷹取中学校に勤務していた教員から事前に話を聞き取るなどの準備を進めてきた3年生165人が、近くの2つの小学校を訪れました。

このうち、若宮小学校の6年生の教室では、4人の生徒が震災当時の鷹取中学校の写真をスクリーンに映して、2000人を超える人が協力しながら避難生活を送ったことなどを説明しました。

そして、いざという時に備えて避難場所を確認したり、家族とはぐれた場合に集合する場所を事前に決めたりするなど、「日頃から災害を自分ごととして捉えてほしい」と呼びかけました。

教訓を伝えた女子生徒は「震災を経験していない私たちが伝えていいのかという不安はありましたが、経験を風化させることなく、命が助かるようにするために、話ができてよかった」と話していました。

12:00

プロ野球オリックスとJ1ヴィッセル神戸の選手などが黙とう

阪神・淡路大震災の当時に神戸市を本拠地としていたプロ野球オリックスと、震災の年に誕生したサッカーJ1のヴィッセル神戸の選手などが、犠牲者に黙とうをささげました。

オリックスは震災が発生した平成7年「がんばろうKOBE」を合言葉にパ・リーグ優勝を果たし、平成8年にはリーグ連覇と日本一を成し遂げて、復興の象徴的な存在のひとつとなりました。

17日、大阪 此花区の球団施設では、当時オリックスで選手だった福良淳一ゼネラルマネージャーや田口壮外野守備・走塁コーチのほか、新人で神戸市須磨区出身の堀柊那選手など、選手やスタッフ合わせておよそ80人が、正午から1分間、神戸の方角を向いて犠牲者に黙とうをささげました。

当時主力選手だった田口コーチは「震災のことを若い選手に話す機会がなくなってきているのは確かだ。機会があれば、どのような状況だったのかとともに、備えの大切さを伝えたい」と話しました。能登半島地震については「石川県輪島市の火災を見ていると、当時の神戸市長田区と重なり、何とも言えない気持ちになる」と話していました。

堀選手は「被災地へ全力プレーを届けられるように頑張りたい」と話していました。

また、昨シーズンJ1で初優勝を果たしたヴィッセルは、1995年に創設され、初練習が予定されていた1月17日に震災が発生し、地域住民とともに行う復興作業が最初の活動となりました。

17日は、吉田孝行監督や選手などおよそ50人が神戸市西区のグラウンドに集まり、全員で1分間、黙とうをささげました。

兵庫県川西市出身で、自身も高校3年生の時に被災した吉田監督は「チームの先輩たちが復興のシンボルとしてともに頑張ってきてくれた。チームには震災を知らない世代も増えてきたが、そういう思いを忘れずにプレーしてもらえれば」と話していました。

兵庫県尼崎市出身の山川哲史選手は「神戸に支えられ、育ってきたクラブなので、恩返ししていきたい」と話していました。

12:00ごろ

兵庫県主催の「1.17のつどい」

神戸市中央区の人と防災未来センターでは、阪神・淡路大震災の犠牲者を追悼する、兵庫県などが主催の「ひょうご安全の日1.17のつどい」が開かれました。

自治体の職員や支援団体のメンバーなどおよそ580人が参加し、正午ちょうどに地元の小学生たちが打ち鳴らす鐘に合わせて、黙とうをささげました。

兵庫県の斎藤知事は、元日の能登半島地震に触れ、「避難所で身を寄せ合う人々の姿は、29年前の光景と重なります。震災の経験と教訓を胸に刻み、誰ひとり取り残されることのない社会の実現に向け、県民とともに全力で取り組みます」とあいさつしました。

このあと、地元の小中学生と高校生がそれぞれメッセージを読み上げ、神戸市立なぎさ小学校6年の橋本歩実さんは「命の大切さを忘れず、亡くなった方々の分まで、いつ震災にあっても立ち向かえるよう過ごしていきたい」と述べました。

そして、小学生が「しあわせ運べるように」を合唱したあと、参加者が献花台に花を手向け、祈りをささげました。

例年、会場近くでは自衛隊などによる炊き出しが行われますが、ことしは能登半島地震の被災地への派遣で行われませんでした。

11:00すぎ

行動制限なくなり 息子が暮らしたアパートの跡地へ

阪神・淡路大震災で当時大学生だった息子を亡くした、香川県に住む両親が、新型コロナウイルスの行動制限がなくなったことから、17日、4年ぶりに神戸を訪れ、祈りをささげました。

香川県小豆島に住む三枝秀樹さんと妻の宣子さんの長男、秀彰さん(当時20歳)は、神戸の大学に通うために暮らしていたアパートが震災で全壊し、亡くなりました。

三枝さんは、毎年1月17日には秀彰さんが住んでいた神戸市東灘区のアパートの跡地を訪れていましたが、新型コロナの感染拡大で、2020年を最後に追悼を見送っていました。

ことしは行動制限がなくなったことから、4年ぶりに神戸を訪れ、アパートの跡地で静かに手を合わせていました。

秀樹さんは「新型コロナで祈りが途切れたので、謝るっていうわけではないですが、やっと来られました。本人はいませんが、これからは毎年来続けるつもりです」と話していました。

宣子さんは「息子をあのアパートに住まわせたという責任は今も消えません。息子が生きていれば、ことし5月には50歳になっていました。どうなっていたのか想像もつかないです」と話していました。

9:30ごろ

“メモリアルウォーク” 1月17日に神戸を歩いてめぐる

阪神・淡路大震災から復興を遂げた街を実際に歩いてめぐる「ひょうごメモリアルウォーク」が神戸市で行われました。

震災の犠牲者を追悼するとともに防災意識を高めてもらおうと、兵庫県などが20年ほど前から1月17日に行っています。

地元住民や日本語学校に通う留学生などおよそ480人が参加し、能登半島地震の犠牲者に黙とうをささげたあと、神戸市灘区の王子公園から中央区の「なぎさ公園」までのおよそ4キロのコースを17のグループに分かれて歩きました。

参加者たちは神戸市中央区の復興住宅や、「HAT神戸」に建ち並ぶ防災関連施設などを確かめていました。

大阪 高槻市から参加した70代の女性は「能登半島地震も起きたので、いろいろ思いを持ちながら歩きました。もう29年たったという思いを抱きつつ、復活する力を感じました」と話していました。

バングラデシュからの留学生の20代の男性は「発展した街が地震で大きな被害を受けたあと、およそ30年の間にもう一度つくられたことはすばらしいと思いました」と話していました。

9:00ごろ

兵庫 芦屋の小学校 亡くなった児童の人数と同じ8回の鐘を鳴らす

阪神・淡路大震災で、兵庫県芦屋市の精道小学校では、校区内にある建物のおよそ7割が全半壊し、当時通っていた児童8人と保護者6人が亡くなっていて、毎年、追悼式が開かれています。

式では、5年生と6年生が、「祈(いのり)」という字が刻まれた慰霊碑の前に集まり、亡くなった児童の人数と同じ8回の鐘が鳴らされたあと、静かに黙とうをささげました。

亡くなった児童の1人で、当時小学1年生だった米津漢之さん(当時7歳)が幼稚園の時に担任を務めた、巽愛子さんが、「8人のみなさんは、多くの方々の中にいまも生き続け、生きることの大切さを教えてくれています。私はあなたたちを心から尊敬してやみません」と追悼のことばを述べました。

また、在校生を代表して6年生の歳安慶さんが、「震災について学ぶ中で『きょうを精いっぱい生きる』ことの大切さを痛感した。生きたくても生きられなかった人の存在を忘れず、一日一日を精いっぱい生きていきたい」と話しました。

最後に全校児童668人が集まって、折り紙で作った花を慰霊碑の前に供えました。

8:00ごろ

“兵庫から恩返しを” 神戸の学生が能登半島地震の募金活動

神戸市中心部の三宮で、神戸市内の大学に通う学生たちが、能登半島地震で被災した人たちを支援しようと、募金活動を行いました。

学生たちはJR三ノ宮駅前の街頭に立ち、「29年前、兵庫県は全国からたくさんの支援をもらいました。今度は兵庫から被災地へお返ししましょう」などと支援を呼びかました。

募金活動を呼びかけた大学4年生の石料巧士さんは「被災地に直接赴くことはできませんが、自分たちの集めたお金で少しでも被災者の方々に笑顔が戻ったら、うれしいです」と話していました。

7:00ごろ

“被災した人に寄り添う” 僧侶がまちに向かいお経を読み上げる

神戸市内を一望できる神戸市中央区の諏訪山公園では、地元に住む寺の僧侶が神戸のまちに向かってお経を読み上げていました。

平井和広さん(67)は阪神・淡路大震災の発生当時、震源地に近い淡路島にある病院に事務職員として勤務していて、亡くなった人やけが人が多く運ばれてきたことに心を痛めていました。

平井さんは、発災から2か月後にボランティア活動を始め、被災した人たちにもっと寄り添えることがあるのではないかと、6年前に寺の僧侶になりました。

これまで東日本大震災や熊本地震などの被災地などでお経を読み上げているほか、被災地の現状を神戸の人たちにも語り続けているということです。

平井さんは「心の傷というのは癒えることはありません。心に傷を負われた方の気持ちが少しでも和らげばという思いから、活動を続けさせていただきたいと思っています。能登半島地震については、自分たちが被災した経験がよみがえりました。この寒い中で被災されている方たちに少しでも近くで寄り添いたいと思います」と話していました。

6:00すぎ

神戸 能登半島地震で被害を受けた地域の人たちを思う声

17日に神戸市の東遊園地を訪れた人たちからは、元日に起きた能登半島地震や、地震で被害を受けた地域の人たちのことを思う声も聞かれました。

兵庫県芦屋市の73歳の男性は「29年前の震災では、停電が続く中、高校受験と大学受験を控えた2人の子どもが半壊した自宅の窓際で勉強していました。ガスも電気も水道もない状況はよくわかるので、能登半島地震の被災地の話を聞くと胸が痛くなります」と話しました。

神戸市の80歳の女性は「寒い時期だったので裸になるのが怖くて、半月ほどはお風呂に入れませんでした。能登半島地震の被災者には、寒さのなか体に気をつけてくださいと言いたいです」と話しました。

神戸市灘区の65歳の男性は「阪神・淡路大震災ではボランティアの人たちをはじめ、親戚や友人の助けがありがたかったです。能登半島地震で被災した人たちの気持ちがよく分かるので、ボランティア活動をするために被災地に行きたいです」と話しました。

5:46ごろ

遺族の代表「自分が経験した震災のことを伝える」

神戸市中央区の東遊園地で、市が主催して開いた追悼行事で、震災で母親を亡くした男性が遺族代表としてあいさつしました。

神戸市須磨区の鈴木佑一さん(34)は、5歳の時、当時住んでいた兵庫区内の母子家庭を支援する2階建ての施設で被災し、母親の富代さん(当時44歳)を亡くしました。

鈴木さんは遺族代表としてあいさつし、「能登半島地震で亡くなられた方々に心からご冥福をお祈りいたします」と述べました。

そして「震災の日、地震で建物が倒壊して私は生き埋めになっており、知らない人たちが私を助け出してくれました。よく聞かれることがあります。あの時、震災がなかったらどうなっていたかと。私は震災で大切な母を失いました。しかし、震災の後に多くのすばらしい方々に出会い、支えられてきたことも事実です。自分が経験した震災のことを伝えて、ひとりでも誰かの役に立てたらと思います」と述べました。

5:46

神戸 東遊園地 訪れた人たちが静かに手を合わせる

神戸市の東遊園地では、犠牲者を追悼する灯ろうが「1.17」や「ともに」という文字の形に並べられています。

「ともに」という文字には、元日に発生した能登半島地震の被災者などに寄り添い、助け合おうという思いや、世代を超えて阪神・淡路大震災を語り継いでいこうという思いが込められています。

地震が起きた午前5時46分に、訪れた人たちが静かに手を合わせ、犠牲者に黙とうをささげました。

5:46

神戸 震災の語り部活動続ける親子などが追悼式

神戸市須磨区の千歳地区では、震災で47人が犠牲となり、2006年から語り部活動を行っている崔敏夫(チェ・ミンブ)さん(82)は、当時20歳で大学生だった次男の秀光(スグァン)さんを亡くしました。

崔さんは毎年1月17日に自宅近くの千歳公園で親族とともに追悼式を行っています。

去年からともに語り部活動を行っている三男の秀英(スヨン)さん(45)や地域の人たち、およそ10人が集まりました。

追悼のために建てられた慰霊碑のまわりで手作りの灯籠に明かりをともし、午前5時46分に黙とうをささげました。

敏夫さんは「地域で亡くなった人たちと息子に祈りをささげました。これからは三男が中心となって語り部として震災の記憶を次の世代に継承してほしい」と話していました。

秀英さんは「能登半島地震の報道を見て、家族を亡くした人はつらい思いをしているだろうなとか寒い思いをしているだろうと考えながら黙とうしました。これからも語り部として震災の教訓を語り継いでいきたい」と話していました。

5:46

兵庫 西宮 商店街の“止まった時計”の前で黙とう

兵庫県西宮市の「西宮中央商店街」は、阪神・淡路大震災でおよそ240あった店舗の8割が全半壊する被害を受けました。

かつてこの商店街にあったアーケードに取り付けられていた大時計は地震で壊れ、発生時刻の5時46分をさしたまま止まっていて、震災の記憶を後世に伝えるモニュメントとして商店街の有志が大切に保存してきました。

17日朝、大時計の前には商店街で店を営む人や近くに住む人など11人が集まり、花を供えました。

そして午前5時46分になると黙とうをささげました。

商店街で呉服店を営み、大時計の保存活動に携わった松下治正さんは「震災のあと、商店街の周りを警備していた時に、寒空の星を見上げ、復興に思いをはせたことを思い出しました。元日には能登の地震が起きましたが、決してひと事ではありません」と話していました。

5:46

神戸 追悼の祈りのトランペット響く

神戸市中央区の高台にあり、市の中心部を一望できる「諏訪山公園」では、追悼の祈りをささげるトランペットの音色が響き渡りました。

神奈川県川崎市に住むトランペット奏者、松平晃さん(81)が1999年から毎年、演奏を続けています。

松平さんは地震が発生した午前5時46分にあわせて、童謡の「どこかで春が」を演奏しました。阪神・淡路大震災の犠牲者を追悼するとともに、能登半島地震で被災し厳しい寒さの中で過ごす人たちに少しでも早く暖かい春が来るようにと願いを込めて、この曲を選んだということです。

松平さんは「29年がたち、神戸のまちの明かりも年々増えているように感じます。平和な暮らしがこれからも続くよう願い、できるかぎり演奏を続けていきたい」と話していました。

5:30ごろ

淡路島 震源に近い「北淡震災記念公園」で慰霊

阪神・淡路大震災の地震の震源に近い、兵庫県淡路市の「北淡震災記念公園」には、地震で地表に現れた野島断層の一部が保存され、亡くなった人たちの慰霊碑が建てられています。

17日朝は遺族や地元の人たちなどおよそ150人が集まり、淡路島に住んでいて亡くなった63人と同じ数の竹の灯籠を慰霊碑近くの池に浮かべました。

そして、地震発生時刻の午前5時46分にあわせて黙とうをささげ、集まった人たち全員で、復興への願いを込めてつくられた『しあわせ運べるように』を合唱して、慰霊碑に花を手向けました。

震災を語り継ぐ活動を行う淡路市の向井規子さんは「当時、自宅の2階にいて生き埋め状態になり、父が屋根瓦をのけて救出してくれました。その後29年も生かしてくれて感謝しています。能登半島地震の被災地の寒さと恐怖のことを思うと、いたたまれない気持ちです」と話していました。

29年前 この時間に何が

【史上初「震度7の揺れ」】
1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源地とする地震が発生。東北地方から九州地方まで広い範囲で揺れ、国内で史上初めてとなる「震度7」を記録しました。

【死者6434人 「災害関連死」900人以上】
都市部で起きた直下型地震は甚大な被害をもたらしました。
亡くなった人は6434人。犠牲になった人の多くは家屋の倒壊や家具などの転倒によるものでした。また、亡くなった人のうち避難生活の長期化で体調を崩して亡くなる「災害関連死」に、内閣府によると、900人以上が認定されています。
住宅の被害は約63万棟にのぼりました。

【大規模火災による被害】
住宅が密集する神戸市長田区などで大規模な火災が起きました。各地で火災が同時に発生する中で、地震によって水道管が被害を受けたことなどから放水用の水の確保が困難となり、延焼が拡大する一因になりました。
道路や鉄道といった交通網は断絶され、ガスや電気、電話といったライフラインも被害を受けました。

【「ボランティア元年」】
地震発生から1年間で延べ約137万人のボランティアが活動。食料や物資の配給をはじめ、避難所での炊き出しや仮設住宅での見守りなどの活動にあたりました。1995年は、災害ボランティアの重要性が広く認識され「ボランティア元年」と言われています。

29年前の1月17日に何があったのか。アーカイブス映像でまとめました。

(動画は1分46秒 地震の映像が流れます)
(※データ放送では動画はご覧になれません)

16日17:46

神戸 追悼のつどい始まる

神戸市の東遊園地では16日夕方から犠牲者を追悼するつどいが始まりました。

「1.17」と「ともに」という文字の形に灯籠が並べられ、震災で亡くなった人の追悼や復興を願って公園でともされ続けている「希望の灯り」から火が分けられ、集まった人たちが1つ1つの灯籠に火をともしていきました。

そして、地震が発生した時刻の半日前にあたる午後5時46分に合わせて黙とうがささげられました。

つどいの実行委員長の藤本真一さんは「能登半島地震はひと事とは思えず、災害がいつ起きるか分からないことを改めて実感しました。阪神・淡路大震災の記憶を伝える場所をできるだけ長く残して、少しでも多くの人に伝えていければ」と話していました。

16日17:00ごろ

兵庫 宝塚 「生」の文字のモニュメント照らし追悼

兵庫県宝塚市では、16日夕方、漢字の「生」=生きるという文字をかたどったモニュメントをろうそくの明かりで照らし、亡くなった人たちを追悼しました。

震災からの再生を願うとともに、命の大切さや生きることの意味について考えてもらおうと、宝塚市の市民団体が毎年この時期に行っています。

武庫川沿いの遊歩道にある、「生」という文字をかたどったモニュメントの前に住民や学生ボランティアが集まり、午後5時ごろ、市内で亡くなった119人と同じ数のろうそくに火をともし、モニュメントを照らしました。

地震が起きた時刻の半日前にあたる午後5時46分になると、集まった人たちが黙とうをささげ、震災当時、宝塚歌劇団に在籍し、自宅で被災した歌手の絵莉千晶さんが、追悼の思いを込めて「アメイジング・グレイス」を独唱しました。

絵莉さんは「元日の能登半島地震もあり、より一層命の大切さを思いながら、きょうは歌いました」と話していました。