佐藤栄作元首相のノーベル平和賞 受賞当時の選考資料 初公開

1974年にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作元総理大臣について、当時の選考資料が初めて公開され、この中でアメリカ寄りの政策などから「授賞は議論を呼ぶ可能性が高い」として選考にあたった委員会が批判も想定していたことが明らかになりました。

佐藤栄作元総理大臣は1974年、NPT=核拡散防止条約に署名し、平和に貢献したなどとしてノーベル平和賞を受賞し、日本人ではこれまでただ1人の受賞者となっています。

ノルウェーのノーベル研究所は、受賞から50年がたった今月、情報公開請求に応じて、当時選考にあたったノーベル委員会の資料を開示しました。

それによりますと、この年の候補者には、当時のソビエトの物理学者で、翌年ノーベル平和賞を受賞するアンドレイ・サハロフ氏や、1979年に受賞するマザー・テレサ氏など、合わせて47の個人や団体が挙がっていました。

佐藤氏を推薦したのは当時の田中角栄総理大臣と日本の閣僚や学識経験者など合わせて17人で、アジアの首脳をはじめとする幅広い国の有力者が支持を表明し、日本政府による積極的な働きかけがうかがえます。

選考資料では佐藤氏について、韓国との国交正常化などアジア太平洋地域との関係改善に向けた取り組みに触れ「平和と友好の政策を常に強力に提唱していた」とし、さらに、佐藤氏が表明した非核三原則について「アジアの平和にとってこの姿勢は非常に重要だ」と評価しています。

一方で、佐藤氏がベトナム戦争や日米安全保障条約の延長などでアメリカ寄りの政策をとっていると指摘して、議事録では「授賞は議論を呼ぶ可能性が高い」と結論づけ、批判も想定していたことが明らかになりました。

また、今回開示された資料の中には佐藤氏の受賞に対して日本や各国から寄せられた抗議の手紙や電報なども含まれています。

当時はアメリカとソビエトを中心とする東西冷戦のさなかで、佐藤氏への授賞は核兵器の脅威や拡散に警鐘を鳴らす狙いがあったと見られていますが、その評価は今も分かれています。

専門家「核兵器拡散防止の意識から注目も批判的な検討甘い」

ノーベル平和賞の研究をしている高崎経済大学の吉武信彦教授は「1974年はインドが核実験をするなど、核兵器の拡散の問題が非常に深刻になっていた国際情勢があり、拡散をどう止めるのかという問題意識からノーベル委員会が佐藤栄作という候補者に注目したと言っていい」とした上で「開示された報告書の中には佐藤氏を礼賛するような情報が多い中、批判的な検討が甘かったのではないか。当時のノーベル委員会にアジアの専門家はおらず、外部からの情報に振り回された部分があったと思う」と述べました。

そして今回、あわせて開示された佐藤氏への授賞に対する抗議について「ノーベル委員会として、思った以上の強い批判を受けたことは衝撃的だったのではないか。その後、アジアのことについても分析できる経験や知識を蓄えていき、いまでは当たり前のようにアジアからの受賞者も出ている」と指摘しました。

一方、吉武教授は、佐藤氏の推薦や支持をした人の中にアメリカの政府高官がいないことに触れ「前の年にノーベル平和賞を受賞したキッシンジャー国務長官が推薦してくれたのではないかと記録している日本の関係者もいるが、当時の微妙な日米関係を反映していたと推測できる。選考の過程で佐藤氏は日本の非核政策の立て役者という役割を強調されているが、実際にはアメリカの核抑止の体制の中で非核三原則や沖縄を位置づけていたため、アメリカとしてはアジア政策にも影響しかねない佐藤氏の受賞は支持しづらいと判断したのではないか」という見方を示しました。

専門家「支持したアジアの国々がその後 軍事的な冒険を避けた」

ノルウェーのオスロ国際平和研究所でアジアを専門に研究しているスタイン・トネソン名誉研究教授は「佐藤氏の受賞の要因の1つは、ノーベル委員会が平和賞はそれまでほとんど欧米の出身者に与えられてきたという認識のもと、アジア出身者を探していたことにある」と述べ、背景にはノーベル平和賞を本当の意味で世界的な賞にしたかった委員会の思惑があると指摘しました。

そして「佐藤氏への授賞に対しては日本からを中心に多くの批判が寄せられたが、ノーベル委員会はその可能性について事前に議論し、準備はできていたはずだ。当時のノーベル委員会は比較的保守的だったため、欧米と緊密に連携していた日本の人物への授賞は、多くの選考委員にとって魅力的だったのだろう」と分析しました。

さらに「佐藤氏の受賞を支持したアジアの多くの国がその後、日本の高度経済成長路線を踏襲して経済を優先させ、軍事的な冒険を避ける政策をとったことで、地域的な平和を長く享受することができた」と述べ、佐藤氏の受賞が周辺の国々にもいい影響を与えたと評価しました。