太平洋戦争で出征の家族へ 終戦直後のはがき約400通 米で保管

太平洋戦争で出征した人にあてて、日本にいる家族や友人が終戦直後の時期に出したはがき、およそ400通が、本人には届けられずアメリカで保管されていることが分かりました。戦地に出されたはがきがまとまって残されていることは珍しく、専門家は終戦後の人々の心情を推し量ることができる貴重な資料だとしています。

アメリカ・ペンシルベニア州にあるラファイエット大学で保管されているのは、主に終戦直後の半年間に日本各地からフィリピンなどの戦地に向けて投かんされたはがき、およそ400通です。

はがきは出征後、消息が分からなくなった家族や友人にあてて書かれたもので、このうち、戦地にいる兄にあてて弟が出した絵はがきには家族の無事を伝えつつ、一日も早い帰りを願う気持ちがしたためられています。

また、妻から夫へ書かれたはがきには夫の帰りを待つ気持ちが細かい字ではがきいっぱいにつづられていました。

はがきはおよそ10年前、学生の親族から「屋根裏で見つかった」として大学に寄贈されたということです。

調査を行った、ラファイエット大学と戦時中の資料を収集する国立の施設「昭和館」は、はがきはGHQによる検閲を通過したあと、誰かがアメリカに持ち帰り、本人には届かなかったものと分析しています。

戦時中の郵便物に詳しい専修大学元教授の新井勝紘さんは「戦地に出されたはがきはほとんど残っていない。終戦後の一般の人々の心情を推し量ることができる貴重な資料だと思う」と話していました。

はがき400通に書かれた内容は

見つかったはがきには、どれも連絡が取れなくなった、夫、父親、それに親しい友人に無事の確認と自身の近況を知らせようとして思いをこめた内容がしたためられていました。

このうち、妻からフィリピンに出征した夫にあてて終戦の年の11月に書かれたはがきには夫からの返事が届かない中、何度もはがきを出し続けたことが書かれていて、無事を願い必死に連絡を取ろうとしていた様子がうかがえます。

子どもから父親あてに書かれたはがきもたくさん含まれていました。

このうち娘からフィリピンに出征した父親に、終戦の年の10月に書かれたはがきには、表と裏、両面いっぱいに小さな字で、父親を心配する気持ちがつづられ、無事に帰ってきたときには家族そろってすき焼きを食べようと呼びかけていました。

はがきの中には終戦直前に書かれたとみられるものもありました。

終戦の3日前に書かれたとみられる、友人にあてたはがきは、再会することができたら、一緒にビールを飲もうと無事を願う気持ちを込めて呼びかけていました。

はがきはなぜアメリカに?

終戦直後の時期に日本で投かんされたおよそ400通のはがきがなぜアメリカで保管されていたのか、詳しい経緯はこれまでのところ分かっていません。

しかし、はがきにはそれを知る手がかりが残されていました。
それは、ほぼすべてのはがきに押されていた、GHQが検閲したことを示すスタンプです。

はがきを詳しく分析した、戦時中の資料を収集する国立の施設「昭和館」とラファイエット大学のポール・バークレー教授によりますと、このはがきは主に終戦直後の半年間に投かんされたあと、国内各地で検閲を受け、戦地に配達される前に1か所に集められたものとみられるということです。
そして、フィリピンなどの戦地に配達される前に、何者かによって持ち去られた可能性があるということです。

はがきは、アメリカ東部・コネティカット州に住むダニエル・ドイルさん(75)が2010年ごろ、亡くなった両親の自宅を整理している際、見つけました。

はがきは家の屋根裏にあり、箱の中にきちんと納められた状態だったということです。

ドイルさんの両親や親戚の中に太平洋戦争で従軍していた人はおらず、なぜはがきを保管していたのか、両親から何も聞いていないため、詳しい経緯は分からないということです。

ドイルさんは当時、戦地からこの地域に戻ってきたアメリカ兵の生活を親族が支援したお礼として譲り受けた可能性があると推測しています。

見つかったはがきは、息子がバークレー教授に知らせたことで、大学に寄贈されることになったということです。

日本語が読めないドイルさんは、教授らがはがきの分析をして初めて書かれていた内容を知ったということで、「はがきは『あなたを愛しています、無事に帰ってきてください、もう終わったことで命を落とさないでください』と伝えようとしていた。戦争をするのはむだなことだ。お互いが苦しむ。本当にむだなことだ」と話していました。

差出人のおい「残っていたことにびっくり」

見つかったはがきのうちの1通は当時、奈良市に住んでいた松森慶三さんからフィリピンの部隊にいる兄の正雄さんにあてて書かれた絵はがきです。
終戦の年の12月の消印がある絵はがきには、奈良公園のシカの絵とともに、家族の無事を伝えつつ1日も早い帰りを願う気持ちがつづられています。
(手紙は一部を現代かなづかいに変えています)。

『兄さん。今は何も申さず。只(ただ)家の無事なることをお知らせします。日本の都市と名のつく都市は全部焼野原となりましたが、京都と奈良は全く無事に残りました。奈良公園も昔のまま鹿もわびしげです。お父さん、お母さん、おばあちゃん皆元気です。家も全く元のままです。兄さんのお帰りの一日も早からんことを祈って居ます。(後略)』

このはがきを書いた慶三さんは10年ほど前に86歳で亡くなりましたが、慶三さんと親しかったおいの重博さん(75)が、今回、NHKの取材に応じました。

はがきのコピーを見た重博さんは、「こんなはがきが出されていて残っていたということにびっくりした。短い文章だが兄に帰ってきてほしいという気持ちがよく表されている」と話しました。

重博さんによりますと、正雄さんと慶三さんは8人きょうだいの次男と三男で、子どものころから一緒に登山や水泳を楽しむ仲のいい兄弟だったといいます。

正雄さんは旧満州に衛生兵として出征し、南方での戦況の悪化を受けてみずから志願してフィリピンに向かいましたが、その途中、船が敵の攻撃にあって沈没し、昭和20年3月に戦死したということです。

重博さんは「手紙が書かれた12月の時点では正雄さんが戦死したことは家族に伝わっておらず、まだ健在だと信じている。もし正雄さんに届いていたら早く奈良に帰りたいと思っただろうなと思う」と話していました。

また、正雄さんには婚約していた女性がいて、奈良に帰ってきたあとは結婚する予定だったということで「戦争がなければ、みんなが味わえたような人生を味わえたはずで残念だ。戦争の中にも一人一人にそれぞれの家族、それぞれの人生があることをよく伝えてくれていると思うので、実物のはがきが戻って来なくても、アメリカの皆さんに見てもらい戦争はよくないということが伝わればいいのではないか」と話していました。

専門家「歴史的資料として保存と公開の道が開ければ」

今回見つかったはがきについて、戦時中の郵便物に詳しい研究者で専修大学文学部 元教授の新井勝紘さんは「戦地にいた日本の兵士は帰国の際、できるだけ荷物を手放して身軽になるよう求められていたため、こうしたはがきも手放されたケースが多く、ほとんど残っていない。非常に珍しい例で、400通も見つかったことに驚いている」と話していました。

そして、「長い戦争が終わった中、ごく一般の人が肉親にあてた中に、それまで書けなかった内容が書いてあるかもしれず、何が書いているか興味深い。検閲があったため、はがきに『書かれたこと』とさらには深読みして『書かれなかった』ことも含めて、日本が敗北したあとの一般の人々の心情を推し量ることができる歴史的資料だと思う」と話していました。

また、一般の住宅の屋根裏から大量のはがきが見つかったことについては「廃棄されずに残されていたということは、何か感じることがあって残した人がいたと考えられ、なぜ残されていたのか分析する必要がある」と指摘していました。

アメリカの大学図書館で保管されているはがきそのものについては「届けられるべき宛先に届くのが理想だが、まもなく戦後80年でそれは難しい。歴史的資料としてはがきの保存と公開の道が開ければいいと考えている」と話していました。