内田百けんの代表作「阿房列車」の自筆原稿 新たに見つかる

岡山市出身の作家、内田百※けんの代表作、「阿房列車(あほうれっしゃ)」の自筆原稿が新たに見つかり、市内の文学館に寄贈されました。

※けんの漢字は、門がまえの中が「月」

見つかったのは、内田百けんが鉄道に乗ることのみを目的に全国各地を訪れ、その道中をユーモアあふれる筆致で記した代表作「阿房列車」シリーズのうち、島根県の松江を訪れた「山陰本線阿房列車」と、一連の旅の最後で九州を訪れた「不知火阿房列車」の自筆原稿あわせて243枚です。

岡山市北区の吉備路文学館によりますと、ことし10月、青森市の女性から「百けんの原稿があるので、出身地の岡山に寄贈したい」と連絡があり、鑑定したところ自筆原稿だとわかりました。

原稿は、白地にオレンジ色のマス目の旧国鉄の用紙に書かれ、右上を紐でくくった状態で保存されています。

百けんが文章を書いたあと、ことばを繰り返し推こうした跡が残されていて、1枚目の用紙には原文の旧かな遣いをそのままにしておくよう編集者に向けた注意書きもあります。

見つかった原稿は、1月5日から31日まで吉備路文学館で展示される予定です。

学芸員で館長の明石英嗣さんは「百けんは終生、ふるさとの岡山に戻りませんでしたが、今回新たに原稿が見つかり、代表作『阿房列車』のすべての手書きの原稿が岡山に帰ってきました。一般公開では、岡山の思い出や幼なじみとのやりとりの描写をご覧いただきたいです」と話していました。

見つかった原稿とは

「阿房列車」は、鉄道好きとしても知られる内田百けんが、戦後まもない昭和25年から5年間にわたり鉄道で各地を訪れたときの様子を記した作品で、3冊の本として出版されました。

自筆原稿が新たに見つかった2つの作品は、いずれも「第三阿房列車」に収録されています。

このうち「山陰本線阿房列車」は昭和29年、島根県の松江への旅行記で、江戸時代を代表する茶人、松江藩主・松平治郷がつくった茶室「菅田庵」を訪れたものの、「お茶をたてられては恐縮だから」と茶室の中に入らなかったことが書かれ、名所をめぐるのではなく列車に乗ることだけを目的とした旅の様子と百けんの人柄がうかがえます。

また「不知火阿房列車」は、昭和30年の九州への旅行記です。

このなかで、ふるさとの岡山について百けんは、昭和20年の空襲でまちの大部分が被害を受け、岡山城の天守閣も焼失し、記憶と結びつかないほどまちの様子が変わってしまったことや、岡山駅で停車した際に幼なじみから好物のまんじゅうをもらったエピソードを記しています。

「阿房列車」の自筆原稿は、岡山県郷土文化財団が今回見つかった2つの作品を除き、すべて保管しています。

こうしたなか、ことし10月、吉備路文学館に青森市の女性から連絡があり、文学館と財団が調べたところ内田百けんの自筆原稿だと判明しました。

文学館によりますと青森県の出版社が昭和51年に「阿房列車」を出版していて、そのときの印刷会社のゴム印が原稿に押されていたということです。

こうしたことから、原稿は出版の過程で青森県内に入ったとみられますが、どうして女性の親族が持っていたかなど詳しいいきさつはわからなかったということです。

内田百けんとは

明治22年に岡山市の造り酒屋に生まれた内田百けんは、岡山大学の前身、旧制第六高等学校を経て東京帝国大学に入学、夏目漱石の門下生となりました。

作家として大正から昭和にかけて活躍し、鋭い人間観察と庶民の生活をユーモアあふれる独特の世界観で表現した数多くの作品を残し、鉄道好きとしても知られています。

百けんは、生まれ育った岡山の思い出を作品に登場させていますが、昭和20年の岡山空襲や戦後の復興などで変わったまちの様子ではなく、記憶のなかのふるさとを大事にしたいと、亡くなるまで岡山に戻ることはありませんでした。