“全盲の彫刻家”と呼ばないで

“全盲の彫刻家”と呼ばないで
彼女は決して“見えない自分”を否定しているわけではない。

むしろ「“見えない私”と“彫刻家”ということを私の武器に」とまで言い切る。

それでも強く願うのは、自身が「全盲の彫刻家」と紹介されない社会がいつか来ること。「誰でも、いつでも、どこでも、美術館に行くことができる世の中に」。

彼女のことばに、よどみや迷いは一切ない。

記事ではそんな彼女のことばを【語録】として伝えたい。
(前橋放送局 記者 田村華子)

彼女の“本気スイッチ”

私は取材中、終始、圧倒されていた。

ことばのパワーがすごかった。
例えば、次のやりとり。

私が「病気になっても彫刻家を続けるんだという思いがあったのか」と尋ねた場面だ。

「ギリギリまで何も努力をせずに“どうにかなるべ”でやっていたんだけど、本当に崖っぷち、一方で(その崖から)指が外れるぐらいだったら…」と語ったあとだった。

ちょっと待て、待て、待て、待て、待て、待て、待てよって

「待て」ということばを7回繰り返す。

さらに止まらない。
彫刻家 三輪途道さん
「スイッチが入った。それで初めて“私は続けるんだ”になった。やっぱり本当に人間ね、崖っぷちに立たないと“本気スイッチ”押せないんだよ。それに気付きました。やっぱり、その本気のモードになったら強いよ、人間」
この瞬間も、いつの時も、彼女の「本気スイッチ」はずっと「ON」のままだった。

一気に振れた振り子

三輪途道(みわ・みちよ)さん(57)は、30年ほど前、彫刻家になった。

主に取り組んできたのは、木彫りの作品。
まだ「見える世界」にいたときの彼女の写真を借りて見たが、受けた印象は今と変わらず「本気スイッチ」は「ON」だと感じた。
30代後半で、その人生は一変した。
徐々に視力が低下する「網膜色素変性症」を患った。

そして、それから10年以上たった53歳のときに全盲になった。
全盲になった時の気持ちは、上述のカギカッコに続く。

ここでは、その「三輪語録」を忠実に、しかし、抜粋する形で伝えたい。
“見えなくなって一番思ったのは「自由になった」こと”
“これ以上見えなくならない、だから、落ちるべきところもなくなった”
“なので、目が見えなくなったということにもう悩まなくていい”
“そうしたら楽になっちゃった。ゼロベースに戻ったから”
“やることはプラスにしていくだけ、そう思ったら、意外に行動的になった”
つらいときは、一切なかったのか、いや、そうではない。

彼女いわく、完全に見えた時を「100」とすると「30点ぐらいの時」が一番きつかったという。
1人で動けなくなった時の「絶望感はたっぷり」だった。

ただ、心の振り子は全盲になる寸前から一気に逆側に振れた。

「絶望」から「自由」へと。
三輪途道さん
「全然平気、私の性格かもしれないけど、もう全盲が見えてるなと思った頃から、結構、平気。“違う人生を考えよう”と思いましたから。うん、私、立ち直り早いよ。心残りなんてなにもないわ。今の人生、めちゃくちゃ楽しい」

見えない私×彫刻家の私

“見えない自分”が日常になることで、成長が始まったという三輪さん。

「本気スイッチ」のボタンが押されたことを1つの合図に、開いたのは「チャンスのドア」だった。
「私は粘土をやるんだ、作品を作り続けるんだって、心の底から『私はやりたいんだ、やりたいんだ』と思った人の前にしか“チャンスのドア”は開かない」
制作への意欲は、比類がないほど高まっていた。
「ああじゃない、こうじゃない」

「ああじゃない、こうじゃない」

「ああじゃない、こうじゃない」
「工夫」という2文字では言い表せない、それはいわば、格闘の日々とも言えるだろう。

ただその日々は「めちゃくちゃ楽しい」ものだった。

試行錯誤の中で三輪さんが見つけた“最大のコツ”は作品を作る土台「台座」にある。
台座をギリギリまで小さくすることで、作品と見えない自分との距離感を的確にとらえることができるという。

そこには、家族や仲間の助けもきちんとある。
「途中休憩を挟んで、どこを制作していたか分からなくなったら娘に教えてもらう。娘に教えてもらうのも1つの技術として捉えるのもありだなと思うようになった。家族作戦ですね」
取材した11月上旬に三輪さんが取り組んでいたのは、この「犬」の彫刻だった。
丸みを帯びた太い足や大きな耳が特徴で、体の曲線部分も忠実に表現されていた。

しかし、犬の顔には「目」がなかった。
それも「見えない自分」の表現だ。

作品の「命」と考えていた目。

それをあえて作らなくすることで表現したのが「沈黙」。

それこそが、今の自分の「オリジナリティー」にしたいというのだ。
見えなくなったからこそできる独自の表現を、より多くの人に届け、実感してもらうことにも取り組み始めている。
それが、群馬県の郷土かるた「上毛かるた」を触って遊べるようにしたことだ。

三輪さんが粘土で型を制作した、このかるた。
「ねぎとこんにゃく下仁田名産」の札には、大きくねぎの形が浮かび上がっている。

表面にデザインされた凹凸を手で触れて感じることで、視覚障害者でも絵札を特定することができるようにしているのだ。
「見える人が作る触察(=触って観察する)の上毛かるたではなく、見えない立場の私から見えない人でも遊べるものを作った。“見えない私”であり、かつ“彫刻家”ということを“私の武器”にしようと思った」
完成したかるたは、この秋、中之条町で展示され、訪れた人は、目をつぶったりアイマスクをしたりして体験していた。
「上毛かるた」を体験した女性
「あっ!これは『馬』ですか?上毛かるたは好きで楽しいので、目の見えない方もできたらいいな」

“アテンド人材”の育成 国の後押しも受けて

「誰もが芸術を楽しめる社会」を実現させるために。

さらに、三輪さんが取り組んでいるのが“人材の育成”だ。

その人材とは、障害のある人が美術館を訪れる時のアテンドをする人。今年度は、関心がある人を集めて、アテンドに必要な知識を学んでもらおうと、月に1回、研究会を開催している。
これは、三輪さんが代表を務める団体と群馬大学が文化庁から委託を受けて進めている国の事業だ。

来年度以降には、群馬大学で人材育成の講座を開設することを目指している。
群馬大学共同教育学部 林耕史教授
「県内の福祉関連の事業所など、いろいろな団体の方々が、この分野を熱心に取り組んでいる。この群馬県の環境を生かしながら進めていけたらいいなと思う」
取材したこの日は50人を超える人たちが集まった。

三輪さんが「本当に驚いた。社会が求めている、時代が変わってきているということを肌で感じた」と胸の内を語ったほどの盛況だった。

三輪さんの思いが徐々に具現化していることは確かなようだった。

終わりなき“三輪語録” 最後に紹介するひと言は

三輪さんは、この日も雄弁だった。

この日の「三輪語録」を以下でご紹介したい。
“(今後目指す人材育成講座の)ビジョンは持っていない。いろいろな人が自分の立場でいろいろな“球”を投げてくれることによって、(球を)拾う人が“こっちの方向に行けばいいかな”という(感じ)。あえてビジョンを作らないのがビジョン”
“私の役割は見えない人間が何を求めているかを、見える人に“球”を投げる役割”
“健常者の中に障害者が普通に入って、一緒に溶け込める社会になることを願っている”
“誰でも、いつでも、どこでも美術館に行くことができる世の中になってほしい”
三輪さんには「願う社会」の像が明確に、そして、いくつもある。

中でも自身と強く関連した「社会のあり方」は以下のとおりだ。
「『全盲の彫刻家・三輪途道さん』とよく言われちゃうが、そうじゃない。『彫刻家・三輪途道さん』と呼ばれる社会になりたい」
書いても、書いても、書き足りないほど「語録」は、まだまだある。

ただ、最後にひと言だけ紹介して、もう筆を置く、ならぬ、キーボードをたたくのをやめる。

取材中、何度も私に口にしてくれたことばだ。
これからも、どんどん成長しますよ
(11月20日 「首都圏ネットワーク」で放送)
前橋放送局 記者
田村 華子
2021年入局
芸術鑑賞が趣味。群馬県内で展覧会を探していたところ彫刻家・三輪途道さんを知り取材につながりました。