谷崎潤一郎や芥川龍之介らが校正家に宛てた書簡 約200通が発見

谷崎潤一郎や芥川龍之介ら大正から昭和にかけて活躍した文豪が、当時の出版関係者に宛てたおよそ200通の書簡が残されていることが分かりました。調査にあたった専門家は、「著名な作家たちの未発表の書簡がまとまって見つかることは珍しい。作家の人間関係や出版事情などが分かる資料だ」としています。

書簡は、原稿の修正や事実確認を専門に行う「校正家」の神代種亮(こうじろ・たねすけ)に宛てられたもので、孫の聡さんが保管していました。

書簡の送り主は谷崎潤一郎や芥川龍之介、佐藤春夫など、大正から昭和にかけて活躍したおよそ20人の作家らで、あわせて200通余りに上ります。

書簡に書かれた内容は

このうち谷崎の書簡は25通あり、大正13年9月に送ったものには、自身の著作を刊行するにあたり、「菊判」と呼ばれる比較的大型のサイズでの出版を希望したのに対し、出版社がそれよりも小さく流通量の多い「四六判」というサイズで出版しようとしていることについて、「四六版でなければ売れないといふ迷信が出版社の間にあるやうです」と不満を記しています。

最終的にこの本は「四六判」で出版され、当時の作家と出版社との力関係がうかがえる内容です。

この書簡のあとに送られた別のはがきには、本のタイトルをめぐって友人の芥川龍之介が「新選谷崎潤一郎集」、「潤一郎小説集或る生涯」、「新選谷崎潤一郎傑作集」という3つの案を示して、その中から選ぶように言われたという経緯が明かされています。

最終的に谷崎はこの中から「新選谷崎潤一郎集」という題を選びましたが、「どれにて大体差支無之」といずれの案でもよかったという本心をつづっています。

資料の調査にあたっている秀明大学の川島幸希学長は、「大事な自身の作品のタイトルを他人に任せるというのは、あまり見られることではない。しかもいくら親交があるとはいえ、芥川が年上である谷崎に提案するというのは意外であり、2人のユニークな関係性がうかがえる」と指摘しています。

また、長年交流があった芥川から届いた近況を知らせる書簡には、「ゆうべ遅かつた為まだねてゐますこの手紙は仰向けになつたまま書くのです」などとつづられ、近しい関係にあった神代にだからこそ見せる姿が浮かび上がります。

昭和6年2月の佐藤春夫からの書簡は、その前年に親友の谷崎の妻だった女性と結婚したことで「細君譲渡事件」として話題となっていた時期に送られたもので、「新聞は出鱈目ばかり申し甚だ立腹致居り候谷崎の縁談にて小生不きげんの筈など無之」とつづり、妻と別れた谷崎が別の女性と再婚することを、佐藤が快く思っていないという新聞記事の内容を否定し、誤った情報が出回っていることへの悩みや憤りを打ち明けています。

川島学長は「谷崎が書簡の中で自分の本を大きな判で出したいと言っているのに、大きな判の本は売れませんと言われ、小さな判で出すことにふんまんやるかたない思いを神代にぶつけていることからわかるように、作家よりも出版社の力が強かったのは間違いなく、今回の書簡はそういった当時の出版事情がよく分かる。その中で、神代のような出版社に所属しないフリーランスの校正家は特異な存在であり、それが谷崎や芥川のような気難しい側面もある作家たちから信頼を得て、依頼されることは本当にすごいことだ」と話していました。

校正家 神代種亮とは

神代種亮は島根県の出身で地元で教師を務めたあと上京し、文芸作品の校正に携わるようになります。

出版社には勤務しませんでしたが、芥川龍之介や谷崎潤一郎といった文豪の作品の校正を担当し、正確な校正の技術などで厚く信頼されるようになりました。

出版された文豪たちの作品に校正者として名前を掲載されるといった異例の評価を受け、「校正の神様」とも称されました。

保管されていた書簡の中には
▽芥川や谷崎をはじめ永井荷風や坪内逍遙、島崎藤村などの作家のほか
▽劇作家の岸田國士や歌人の斎藤茂吉、
▽政治家や医師、実業家から送られたものもあり、神代の交友関係の広さがうかがえます。

保管していた孫の聡さんによりますと、書簡の詳しい内容は家族の誰も知らなかったということで、専門家に調査を依頼することにしたということです。

聡さんは「長い間、家で保管されていたのですが、その価値ははっきりと分からないという状況でした。今回調査していただいて、第一級の価値のある歴史的な資料であることが分かり、大切にしなくてはいけないと改めて思いました。また、著名な作家の人たちの書簡であるというだけでなく、神代種亮の人となりが分かるものでもあるので、種亮がいろんな人たちと交際していた姿が分かる形でこれからもまとめて保管をしていきたい」と話していました