京アニ裁判 遺族の意見陳述「死刑判決以外考えられず」

「京都アニメーション」の放火殺人事件の裁判は30日も遺族の意見陳述が行われ、22歳のアニメーターの娘を亡くした母親は「身を引き裂かれるほど苦しく、この感情は生きているかぎり続くでしょう。死刑判決以外考えられません」などと訴えました。

青葉真司 被告(45)は4年前の2019年7月、京都市伏見区の「京都アニメーション」の第1スタジオでガソリンをまいて火をつけ、社員36人を死亡させ、32人に重軽傷を負わせたとして殺人や放火などの罪に問われています。

裁判は27日から、刑の重さに関わる情状についての審理が行われていて、30日は遺族7人が法廷で意見を述べたほか、6人の意見陳述書が読み上げられました。

このうち、22歳の娘を亡くした母親は娘について、年の離れた弟の子育てを手伝ってくれた戦友のような存在だったと振り返りました。

そのうえで、遺体と対面したときにほおずりをして歌ったという子守歌を法廷で歌い、傍聴席ではすすり泣く人たちもいました。

そして、母親は「被告には一番重い死刑を望みます。決して許すことはできません」と訴えました。

また、22歳で亡くなった別の女性アニメーターの母親は「被告は肉親を奪われた遺族たちがどのような気持ちで生活しているか考えたことがあるのか。自分の分身である子どもがいなくなるということは身を引き裂かれるほど苦しく、この感情は生きているかぎり続くでしょう」と話しました。

そして、「身勝手な筋違いの恨みで計画的かつ凄惨(せいさん)な事件を起こした罪に対して、私たちは死刑判決以外考えられません」と訴えました。

青葉被告は目をつむって話を聞いたり、亡くなった人の生前の写真がモニターに映し出されると、じっと見つめたりしていました。

次の裁判は12月4日に開かれ、遺族のほか、事件でけがを負った社員も意見を述べる予定です。

=6人の遺族の意見陳述=

32歳の息子を亡くした母親は

32歳の息子を亡くした母親は意見陳述で、まず、事件後の生活の変化について、「よく分からないまま、息子がいない喪失感に心がまひしてしまい、心のバランスを崩して、服薬やカウンセリングを受けていましたが、息子のことが頭から離れることはありません。夫も息子の死と対面するのをつらく思っているようで、裁判にも参加できず、ふさぎ込んでいるのを見るのはとてもつらいです」と話しました。

また、被告に対しては「アニメに憧れてアニメーターを目指したのは私の息子も同じじゃないですか。小さな島からアニメに憧れ、夢を見て、京アニで働き、悪戦苦闘していた息子の人生を考えてほしいです。アニメのことなんて何も分からないのに、高校卒業後は漁師の仕事をしないといけなくて、それでもアニメが好きだから、毎日、夜遅くまで練習をして、アニメーターになったんです。あなたが殺した人はそういう人だったんです。努力して有名なアニメ会社に就職し、夢をかなえた息子を誇りに思っています。息子の夢を、人生を奪ったのはあなたです」と訴えました。

そのうえで、「自分が嫌な思いをしたら人を殺していいというのはただの逆恨みです。息子は思いやりというものがない人間に、逆恨みで理不尽に殺されただけだと思っています。被告にもさまざまな背景があったことは、裁判に参加をしていたので理解もしています。しかし、これだけ多くの死傷者を出したのに、いろいろな人の人生を奪ったのに、謝罪のことばを聞いたこともありません。病気に支配されていればどんな犯罪をしてもいいというのであれば、被害に遭った人やその家族の人権はどうやって守ってもらうのでしょうか。人の命が平等であるならば、奪った命の分の罰を受けてもらいたいです」と話しました。

そして、被告に対して「夢半ばで人生を奪われた息子やほかの35名の無念、大けがをした被害者、そして残されたわれわれの苦しみを毎日考えて、毎日、後悔を抱えたまま生きてほしいと思います。最期の日まで自分がしたことの本当の意味を考え、常に罪に向き合ってください。苦しみ抜いてください」と呼びかけました。

最後に裁判員と裁判官に対して、「36名という数字だけでなく、その一人ひとりに特別な人生があったこと、家族や友達がいたこと、そしてその1人に私の息子が、私の大好きなあの子が、もの静かだけど芯が強くて、前向きで優しいあの子がいたことを忘れないでください」と結びました。

22歳の娘を亡くした母親は

22歳の娘を亡くした母親は「娘が6歳のときに離婚をし、そのとき、弟は2歳と1歳でした。娘はおっとりした性格ですが、芯が強く、その明るさでいつも家庭の中心にいました。お風呂にもみんなで入り、協力してもらいながら過ごしてきました。家の中で笑いが絶えず、みんな明るくまっすぐに育ってくれたのは娘がいてくれたからこそでした。娘はもちろん娘ですが、戦友のような存在でもありました」と話しました。

事件を知った時のことについては「庭のミニトマトをちぎり、保冷剤で冷やしながら持って行ったのは、まさか、娘がそんなことになっているとは知らず、事件のショックでものが食べられなくなっているかもしれない、ミニトマトならなんとか食べられるかもしれないと思ったからでした。しかし、娘に食べてもらえることはありませんでした。いまでも、その時のことを考えると涙があふれてきますが、この会えなかった数日間が一番つらかったです」と振り返りました。

娘と対面した時のことについて、「『熱かったね』と声をかけ、いろいろ話をしました。ほおずりをして顔にいっぱいキスをしました。生きていたら、恥ずかしがったでしょうが、きっとこの時は許してくれたと思います。そして、子どもの頃寝てるときに歌っていた子守歌を歌ってあげました。私がつくった子守歌です」と話し、「ちっちゃくって、やわらかくって、あったかくーって、かわいくて、なついていて。こーんな宝物ほかにない。かわいいこどもたちー。お母さんの宝物ー大事な宝物ー」などという歌詞の子守歌を実際に歌いました。

被告に対しては、「裁判でいろいろなことが明らかになればなるほど、被告を絶対に許すことはできません。あの日、娘も亡くなった皆さんも、けがをされた方々もただただ、一生懸命仕事をしていただけでした。なぜこんな目に遭わないといけなかったのでしょうか。なぜ、こんな幼稚で独り善がりな男の勝手な思い込みで、こんなにたくさんの命が奪われたのでしょうか、娘はまだ22歳でした。一生懸命育ててきました。やっと社会に飛び立ち、いまからいよいよ自分の道を歩き始めたところでした。代われるものなら代わりたい、本当に自分自身なんか比べ物にならないほど大切で、かけがえのない存在でした」と話しました。

そして最後に、「娘のことを考えない日はありません。被告には一番重い死刑を望みます。私は決して許すことはできません。娘にとってはいつまでも強く、優しい母でいたいと思っていますが、この気持ちだけは絶対に譲れません。どうか厳正なご判断をお願いします」と結びました。

22歳の娘を亡くした別の母親は

22歳の娘を亡くした母親は意見陳述で、まず娘の思い出を振り返り、「娘が一番輝いていた高校・大学生活。たくさんの友達ができて、楽しそうにいつも絵を描いていました。娘の部屋に入るといつも絵を描いている背中を目にしました」と話しました。

そのうえで、仕事について、「京都アニメーションから内定が出たときには娘と抱き合って泣いて喜びました。事件のおよそ3か月前の2019年の4月に、憧れの京都での一人暮らしを始め、憧れの京都アニメーションに入社し、やっていけるのかと心配はしていましたが、さまざまな作品に携わり、毎日、仕事が楽しくて楽しくてしかたがない、残業するのもうれしいと言っていました。本当に夢がかなってよかったと私も自分のことのようにうれしかった。きっと娘にとっても、夢のような毎日だったと思います」と振り返りました。

一方、被告に対しては、「娘は被告の起こした凄惨な事件によって命を奪われたんです。自分のふがいなさを他人のせいにし、36名の命をうばい、多くの人にけがをさせたことは絶対に許されることではない」としました。

そのうえで、「36名の命に対してどれだけ多くの人が悲しみと悔しさに苦しめられているのか。被告は肉親を奪われた遺族たちがどのような気持ちで生活しているか考えたことがあるのか。母親にとって自分の分身である子どもがいなくなるということが身を引き裂かれるような、できることなら自分が代わってあげたいほど苦しい。亡くなった娘のことを思い出さないことは1日もありません。そして、娘のことを思い出すたびに、娘を失った悲しみ、悔しさ、そして、被告に対する憎しみが込み上げてきます。この感情は生きているかぎり続くでしょう」と訴えました。

そのあとで、娘への気持ちを読み上げ、「毎日毎日、会いたくて会いたくて、でも会えなくて、全然、大丈夫じゃない毎日を繰り返してきました。でも私たちが元気じゃないと娘も喜ばないという一心で、自分を奮い立たせて頑張ってきました。娘は私たち家族にとって本当にかけがえのない存在でした。家族で出かける時は学校やバイト先のおもしろい出来事をおもしろく話すのが得意で、いつも私たちを楽しませてくれました。あの日々に戻りたい。娘の夢は私の夢でもありました。娘の作った映画を一緒に見に行くのがアニメーターになって最初の夢でした。本当に悔しい。家族にくれた抱えきれないくらいの思い出を胸にこれからも生きていきます。本当に生まれてきてくれてありがとう」と呼びかけました。

そして、最後に、「身勝手な筋違いの恨みで計画的かつ凄惨な事件を起こした罪に対して、正しい判断、判決を下していただきたいです。私たちは死刑判決以外考えられません」と結びました。

35歳の妹を亡くした姉は

35歳の妹を亡くした姉は、「私たち家族が妹と会えたのは事件発生から1週間ほどたってからだったかと思います。顔を見ても初めは妹だと認識することができない状態でした。目も口もあいたままでした。目を閉じて最期の眠りにつくことさえ奪われた妹の姿を、親族や妹の友人には見せることができませんでした」と涙ながらに話しました。

また、被告に対しては、「妹さんをかばい、お父さんに立ち向かった時は、妹さんにとって『守ってくれる頼もしい兄』であったかと思います。守るべき大切な妹を失った私の兄や私の無念さをご理解いただけるのでしょうか。もしもあのときに、こうしていたら妹は助かったのではないかと、そういう思いが繰り返し押し寄せ、今も私たちをさいなんでいることをご存じでしょうか」と呼びかけました。

そして「努力をしても周囲の妨害で報われないという青葉さんは、周囲の理解を得るための対話を拒んでおきながら、自分のことを分かってほしいと願う幼い子どものようです。もしくは、自分を悲劇のヒーローに仕立て上げようとしているように感じてなりません」と話しました。

そのうえで、最後に、「どのような判決になろうと、心身に傷を負った方が事件をなかったことにすることはできません。また、亡くなった方々が美しいものや自然に触れて感動することや、絵やことばを使って表現することは二度とありません。私は妹たちが二度とできなくなった『表現する』ということを、これからも被告が自由に行うことを許容できません。見ず知らずの人間に妹を奪われた姉として、放火による殺人という被告が犯した罪に相当する判決を望みます」と訴えました。

25歳の息子を亡くした母親は

25歳の息子を亡くした母親は「私は被告のことが憎い。この世の中で何よりも大切なかけがえのない私の宝物、私の子どもの命を奪った被告が憎い。ただそのことを直接、伝えるために私は今、被告の前にいます」と声を震わせながら話しました。

そのうえで、息子について、「事件の数日前に3か月ぶりにあった息子はずいぶん痩せていて、体調も崩していました。それでも私たちを楽しませようと京都をいろいろ案内してくれ、とても幸せな3日間を過ごしました。夕飯を一緒に食べたあと、『くれぐれも体に気を付けてね、あなたが幸せに暮らすことが母さんの一番の願いだからね』と言って手を握って別れました。まさか、それが最後の別れになるとは思ってもみませんでした」と話しました。

そのうえで、息子と対面したときのことについて、「すでにひつぎの中に納められたわが子の顔はこげ茶色でした。一目見て、あの子だとわかりました。『よく頑張ったね』と声をかけてやりましたが、なぜだかその時に涙は出ませんでした。やっと私たちのもとに戻ってきてくれたという安どの気持ちが大きかったのかもしれません」と振り返り、「これが被告が起こした事件により、無念の死を遂げた1人の若きクリエイターとその家族との10日あまりの悲しい別れの記憶です」と話しました。

そして、「わが子の無念を思い、これまで沈黙することしかできませんでした。しかし、これだけはお伝えしたいです。私は被告のことが憎いです。この憎しみだけは決して消えることはありません。被告が法令にのっとって命の裁きを受ける、罪を償うことを願っています」と訴えました。

24歳のアニメーターの娘を亡くした父親は

24歳のアニメーターの娘を亡くした父親は今の気持ちについて、「奈落の底に突き落とされたような忌まわしい事件から4年半が経過しました。この4年半、片ときも娘のことを考えないときはなく、この心境を言い表す最適なことばは『不条理』ということばに尽きると思います。なぜこのような悲惨な目にあわなければならないのか、この4年半、考え続けてきましたが、いまだに納得のいく説明が見いだせていません」と話しました。

そして、娘については「不思議な魅力のある子で、笑顔を絶やさず、弟、妹思いで、家族はもとより学校の友達、近所のおばさんまで、みんなから好かれていました。ムードメーカーだった娘がいなくなってしまい、喪失感から脱出できません」と話しました。

仕事ぶりについては、「絵の勉強を続け、希望する難関の京都アニメーションに内定して喜んでいたことがきのうのことのように思い出されます。入社2年目の春に、映画『響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』のエンドロールに娘の名前が初めて載ったときは素直にうれしいと語っていました。今後、ずっとこうして好きな仕事をできるものと思っていたやさきにこの事件が起こりました。好きな仕事に就けて、意欲に燃えて一生懸命仕事をして、これからももっと絵がうまくなりたいと思って絵の技術向上を目指して練習に励んでいたことが、娘の部屋にあったたくさんの絵の練習の痕跡からうかがえました」と振り返りました。

また、娘が中学3年生の時に未来の自分に宛てて書いた手紙を紹介し、「社会人になった私へ。頑張って結婚してください。頑張って働いて精いっぱい生きてください。中3のときの私の夢は絵の仕事に就くこと。ちゃんとかないましたか」という内容を明かしたうえで、「中3のときからの人生の夢だった絵の仕事に就くことができ、しっかりと夢はかないました。わずか1年3か月ですが。残念ながら結婚はできず、24歳の命は奪われてしまいました」と声を震わせながら話しました。

被告に対しては、「娘の無念さを思うと被告には極刑を望みます。被告は勝手に妄想を膨らませ、都合の悪いことは人のせいにし、幼稚で短絡的な行動をとり、その結果、娘は犠牲になりました。被告は裁判で、『これほどたくさんの人が死ぬと思わなかった。やりすぎた』と言い放ちました。36人の命を奪い、32人に重いけがを負わせ、その家族を悲嘆の底に突き落としながら、まるで他人事のように、なんの痛みも感じず語る被告を許すことはできません」と話しました。

そして、最後に、「どのような判決になっても娘が戻ってくることはありません。しかし、正義は実現されなければなりません。犯した罪に見あった刑罰を科すのです。公正な判決になることを望みます」と結びました。