救急車が動かない!“渋滞都市“バンコク 救急医療の切り札は

救急車が動かない!“渋滞都市“バンコク 救急医療の切り札は
観光やビジネスでバンコクに行ったことがある人なら誰もが一度は経験する、と言っても過言ではない中心部の激しい交通渋滞。予定していたフライトに間に合うか肝を冷やしたことがある人も多いのではないでしょうか。

毎日、朝夕のラッシュ時に現れるこうした光景、1分1秒を争う救急の現場にとっては患者の命にかかわる問題です。

もし、わたしたちも現地でケガをしたり体調を崩したりしたら…。現地のさまざまな医療の課題をある方法で解決しようという動きに密着しました。(アジア総局 加藤ニール)

救急現場に導入“スマート救急車”

「新しい技術を取り入れた救急車がバンコクにある」。そうした話を聞き、私が向かったのは、タイ国内でも最大規模を誇るバンコクのシリラート病院です。その車両は“スマート救急車”と呼ばれていますが、一見すると、普通の救急車と変わりません。
何が違うのか。その特徴は、救急車内部の天井部分に取り付けられた2つのカメラです。このカメラで撮影された搬送中の患者の映像は、リアルタイムで病院の専門医などと共有できるようになっています。
患者の心拍や血圧、血中の酸素濃度などのデータも瞬時に病院に送られ、患者の到着前でも搬送先の病院から遠隔で救急隊に必要な処置を指示できます。また、病院では緊急手術の準備を事前に整えるのにも役立つといいます。

遠隔医療が渋滞対策のカギ

なぜこうした救急車が導入されることになったのか。その理由は、首都バンコクで社会問題になっている渋滞です。

経済成長に伴ってバンコクを走る車の台数は年々増えていますが、道路環境の整備は追いついていません。特に雨期には道路が冠水することも多く、夕方の帰宅ラッシュの時間帯に渋滞につかまると、身動きがとれなくなることもしばしばです。

私自身も現地にいて車で数十分程度の場所に向かうのに、1時間以上たっても到着できなかった経験が何度もあります。
渋滞は1分1秒を争う救急の現場では患者の命に関わる問題です。この“スマート救急車”は、今回取材した病院では3台が稼働していますが、タイ政府は効果を検証しながらバンコクで導入を拡大させていきたいとしています。

現在、この救急車を運用する病院の責任者は、搬送に時間がかかってしまう救急医療の現場の課題には、こうした遠隔医療が最大の鍵になるといいます。
アサワモンコルクル学部長
「いち早く適切な処置が始められれば、患者の命を救える可能性が高まるだけでなく、心臓や脳に関わる病状の患者のケースでは後遺症を防ぐことにもつながる。私たちがこのネットワークを広げて“スマート救急車”が地域全体をカバーできるようになれば、多くの人の命をより安全に救えるようになるに違いありません」

地方部の課題は周産期医療

タイの遠隔医療は都市部だけではなく地方部にも活用が広がっています。次に私が訪れたのは、ラオスとの国境に近いタイ北部・チェンライの山あいにある診療所です。診療所といっても医師は常駐しておらず、勤務しているのは看護師2人のみです。

タイの地方部では医師の不足で医療体制がぜい弱なままとなっていて、課題の1つが周産期医療です。
医師が少ないため妊婦健診などを定期的に受けられないケースもあり、ユニセフによると、妊産婦の死亡率は日本の約7倍(2020年)、新生児では日本の約6倍(2021年)と高くなっています。

私が訪れたチェンライも、その1つです。地域全体の人口約130万に対して、産婦人科医はわずか50人ほど。しかも、そのほとんどが中心部の病院にいます。私が訪れた診療所の看護師は、山あいの地域では、十分な周産期医療を受けられる体制にはないといいます。
チェンライ山間部の診療所の看護師 ラダワン・モンピチャイさん
「(診療所では)妊娠期間や妊婦の体重や身長、胎児の心拍を確認するだけでした。専門医がいる拠点病院にいくにも、おなかの大きな妊婦にとって1時間以上かけて山道を移動するのは負担が重く難しい」

リモート妊婦健診を可能にした日本発の機器

そこで2022年に導入されたのがリモートで妊婦の健診を行うための医療機器です。日本の香川大学発のスタートアップ企業が開発しました。

片手で持てるほどの大きさの、この機器は妊婦のおなかに当てると、おなかの張り具合や胎児の心拍の詳細なデータなどをとることができます。データはそのままクラウドに保存され、通信アプリを通じて約40キロ離れた地域の拠点病院の医師のもとに送られます。
このデータを見た病院の医師から診療所の看護師に健診結果や出産までの過ごし方のアドバイスが電話で伝えられ、患者にフィードバックされる仕組みです。定期的な健診によって早産のリスクの兆候をいち早く把握して対応することができるといいます。
機器の開発企業によりますと、妊婦健診で通常使われる医療機器よりもコンパクトで持ち運びがしやすくし、操作を簡略化したのが特徴で、測定結果を紙ではなくデータで共有できるようにしたことで遠隔診療が可能になるということです。

誰でもどこでも妊婦健診を受けられる体制を

診療所に来ていた、翌月に第1子の出産を控えた女性に話を聞くことができました。専門医に診てもらうことで初めての出産でも安心感をもてるようになったといいます。
遠隔医療を活用して健診を受けた女性
「ここから専門病院はあまりにも遠く、費用もかかるので出産には不安がありました。この機器を使うことで、子どもの心臓の鼓動の音を聞くことができて、安全に順調に育っていることもわかってうれしいです」
今回取材したチェンライでは、まだ試験導入の段階にあるため機器の導入は5か所の医療機関にとどまっていますが、機器の開発企業では、地元の自治体や医療関係者と連携し使い方を学ぶ研修会を開くなどして遠隔医療の体制を広げたいと考えています。
神原達也マネージャー
「医師や病院の不足から定期的な妊婦健診を受けられない地域も多い。こういう機器があるから診療所に赤ちゃんの心拍を聞きに行こうという妊婦がどんどん増えて、妊婦健診の回数も増やしていければと思う。タイだけでなく、医療へのアクセスが脆弱な他のアジアやアフリカなどの国にも広げていきたい」

遠隔医療は人々の暮らしどう変える?

こうした遠隔医療に不可欠なのがデータをやり取りできる通信網です。タイでは2020年に5Gの高速通信が始まり、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、リモートで行うさまざまなサービスの需要の高まりから整備が加速してきました。
冒頭に紹介した“スマート救急車”の活用は、こうした通信インフラの普及があってこそ可能になっているといいます。

人口約6600万のタイは、都市部での渋滞や地方部の医療アクセスのほかにも、急速な高齢化という課題も抱えています。タイ政府は山積する社会問題への課題解決の切り札として、遠隔医療やAI、ロボットといった技術の積極的な活用を掲げています。

通信網の普及とともに、新しい技術が経済成長を続ける東南アジアの国の人々の暮らしや医療現場をどう変えるのか、注目し続けたいと思います。

(11月16日「おはBiz」で放送)
アジア総局 記者
加藤 ニール
2010年入局
静岡局 大阪局 経済部を経て現所属