“永遠の化学物質”がもたらすもの 時を超える懸念と不安

“永遠の化学物質”がもたらすもの 時を超える懸念と不安
男性は工場の建物に入ると、いつものように20Lのドラム缶の中を確認した。しっとりとした白っぽい粉で満たされている。それをステンレス製のスコップですくってビーカーに移し、水を入れてスプーンでかき混ぜる。そうしてできた牛乳のような乳白色の液体を手慣れた手つきで胴長の釜に注ぎ入れた。

製造していたのはフライパンの加工などに使われるフッ素樹脂。
その原料の1つである白い粉は、職場では「C-8」と呼ばれていた。

それが後に有害性を指摘され、規制されることになるとは考えつきもしなかった。だからマスクはせず、手袋もつけていなかった。男性は一連の工程を終えると、またスコップを手に取り、粉をすくい始めた。

白い粉

「体に有害な物質だなんて、全く説明はありませんでした」
帽子をかぶり、めがねをかけた70代の男性は、カメラの前に座るとポツリポツリと語り始めた。

男性は1960年代、10代で駿河湾に面した静岡市清水区の化学工場に就職。ほどなくしてフッ素樹脂を製造する部署に配属された。
フッ素樹脂は当時、革新的だった「焦げ付かないフライパン」の加工に不可欠で、男性は自分の仕事が最先端の製品を生み出して、人の役に立っていることによろこびを感じていた。
元従業員の男性
「すごくしっとりした粉でした。匂いはあまりなかったですね。非常に柔らかくて慎重には扱っていました。作業中は防塵マスクはなし、普通の風邪を引いた時にするようなガーゼマスクもなしポリエチレン手袋もなしで、素手でやっていました。触れてしまった時は水で流しちゃうとか、ちょっと払っちゃうとか、その程度で済ませていましたね」
男性は「C-8」と呼ばれていた白い粉末に水を混ぜて重合釜と呼ばれる釜に注ぎ込む作業を3日に1度のペースで10年余り続けた。

その後、配置換えとなり、定年退職まで工場で勤め上げたが、この間、男性は「C-8」について会社から何かしら説明を受けることはなかったという。
元従業員の男性
「会社からの説明は全くないです。危険だとは一度も聞いていませんでした。『C-8』というのは炭素が並んでいる物質なんですけれど、それでそう呼ばれているくらいしか知りませんでした。周りも知らなかったと思います」

現れた“恐怖”

男性の目の前に再び「C-8」が現れたのはこの夏。たまたま読んでいた本の記述だった。

そこには「C-8」「PFOA」と呼ばれる物質と同じだということが記されていた。
PFOA(ペルフルオロオクタン酸)

自然界でほとんど分解されることがないため、“永遠の化学物質”とも呼ばれる有機フッ素化合物「PFAS」の一種で、発がん性が指摘され、世界的に規制されている。

読み進むうちに、男性は内臓をわしづかみにされるような息苦しさを覚えた。
元従業員の男性
「怖いと。そのあといろいろ情報が入ってくるようになったんですが、聞けば聞くだけ怖くなりました」
男性は退職後、自宅で孫の面倒を見ながら、ゆったりとした暮らしを送っていたが、2年前に舌がんを発症していた。

この男性の舌がんと「C-8」(PFOA)との因果関係はわかっていない。

だが、考えるたびに、自分の体のことを知りたいという思いが強まっている。
元従業員の男性
「舌がんというのはあるけれど、もっとほかのひどい病気にかかるかもしれない。PFOAとがんとの関係を明確に調べてくれる文献なんかは、まだできていないと思うので、これからもっと調べてほしいです」

始まりの時

男性が工場で働いていたのは1960年代から2000年代にかけてのおよそ40年間。この間、会社側はPFOAについてどう認識していたのだろうか。

当時の親会社、アメリカの化学メーカー「デュポン」に関する記事や記録を調べてみると、手がかりとなる内部資料が残されていることがわかった。

資料を保有していたのはオハイオ州を拠点に活動するロバート・ビロット弁護士。1999年にアメリカでデュポンを相手に起こされた裁判を担当し、その過程でPFOAの有害性を訴えたこの問題の第1人者といえる人物だ。
連絡するとアメリカの環境保護庁のデータベースや裁判で入手したというおよそ150枚の内部資料を提供してくれた。

そしてこう指摘した。
ロバート・ビロット弁護士
「デュポンは少なくとも1981年には、この化学物質の懸念について日本のこの工場ともやりとりしていた」
PFOAの有害性への懸念がアメリカで知られるようになったのは2000年ごろ。その20年近く前にデュポンの内部では、すでに懸念が示され、清水工場とやりとりしていたというのだ。
根拠として示したのが1981年9月付けの内部文書。
「従業員の採血計画の提案」と題されている。
文書では清水工場に対し「C-8」(PFOA)に関して従業員12人程度の血液サンプルの提供を依頼。次のように記していた。
▽「C-8」の供給元から、一部の従業員の血中に有機フッ素が蓄積しているとの報告を受けた(1979年)
▽「C-8」を経口投与すると、ラットに先天異常が発生するとの報告を受けた(1981年)
▽「C-8」に大量に暴露する可能性のある業務から、出産可能な女性全員を異動させ、防止策を強化した
この依頼を受けて当時、工場で実際に採血が行われたかは文書からはわからなかった。

だが、別の内部資料から、工場でその後、2000年代に従業員の血液検査が実施されていたことがわかった。

“418.5倍”

日付は2010年7月1日。
アメリカの環境保護庁にデュポンが提出した報告書に、2008年から2010年にかけて24人の従業員を対象に実施された血液検査の結果が示されていた。

そして、そこにそれぞれの血液から検出されたPFOAの濃度も記録されていた。
それによると最も数値が高かったのは、2008年のサンプルID6番の従業員。濃度は血中1ミリリットルあたり8370ナノグラム。

これはアメリカの学術機関、全米アカデミーズが健康へのリスクが高まるとしている「血中1ミリリットルあたり20ナノグラム」という指標の418.5倍にあたる。
従業員の属性を示す欄には「P」の文字。
「Production」つまり製造部門の所属であることを意味している。

この年の検査では製造部門の別の従業員2人からも、それぞれ5040ナノグラム、4960ナノグラムという高い濃度のPFOAが検出されていた。

濃度は年によって変化していたが、2010年の検査でも高い人で6745ナノグラムや5480ナノグラムが検出されていた。

この値は何を意味するのか。

PFOAの健康への影響などを研究している京都大学大学院の原田浩二准教授は次のように指摘する。
京都大学大学院 原田浩二 准教授
「非常に高い値だ。値が高いほど健康リスクが高まると考えられるので、今後も健康状態を観察し続ける必要がある」

6つの病気

アメリカでは、たびたび、健康被害を訴える裁判が起こされており、その過程でPFOAとがんなどの関連性を指摘する疫学調査の結果が示されている。

この調査は、2001年以降にデュポンを相手に起こされた集団訴訟の和解の条件の1つとして、デュポンの工場周辺の住民7万人を対象に実施された。

その結果はPFOAの有害性を示唆していた。
【調査結果】
▽住民たちのPFOAの血中濃度の平均はアメリカ人全体の20倍に達していた
▽血中濃度が高い人たちは低い人たちに比べて6つの病気で発症率の上昇が確認された
【6つの病気】
▽脂質異常症 ▽妊娠性高血圧
▽甲状腺疾患 ▽精巣がん
▽腎臓がん  ▽潰瘍性大腸炎
裁判では6つの病気にかかっていた3550人についてPFOAによる健康被害を認定。

デュポンは「不法行為はなかった」としたが、2017年2月、デュポン側が合計6億7070万ドル(当時の換算で約765億円)を支払うことで和解した。
ビロット弁護士は多くの裁判で弁護を担当し、PFOAの危険性を繰り返し訴えてきた。しかし、そのことは日本では広く共有されることはなかった
ロバート・ビロット弁護士
「訴訟で入手した文書はアメリカの環境保護庁に送って、日本でもそれが公になり人々に伝わることを願っていたが、残念なことにそうはなっていない。何十年も続いてきた問題が今になって、ようやく人々の知るところになってきたということは、とても悔しい」

3万800倍

健康被害への懸念が指摘されてきたPFOA。

その影響が、今回の一連の文書で示された静岡市の工場でどこまで広がっていたかはわかっていない。

しかし、一部の資料には、PFOAが工場の外に流出していた可能性を示す記録が残されていた。
2002年11月。内部の会議用のメールに添付された報告書の表題は「清水工場の地下水のサンプル調査結果」

実施期間は2002年8月5日から7日で、調査地点は工場の敷地内と、その付近のあわせて10か所。そこで採取した水を調べた結果、敷地内から外の水路に排出される水からは1リットルあたり154万ナノグラムのPFOAが検出された。
日本では2020年に環境省がPFOAについて水質管理の際の暫定目標値を定めたが、その値は「1リットルあたり50ナノグラム」。

これをもとにすると実に3万800倍にあたる。

▽敷地外の公道沿いの側溝では1リットルあたり30万6000ナノグラム(目標値の6120倍
▽敷地内の井戸からは低いところでも3万1700ナノグラム(目標値の634倍)が検出されていた。

動き出した静岡市

工場とPFOAをめぐる報道が相次ぐ中、地元の静岡市は10月から工場周辺の水路や地下水の水質検査を開始。

その結果、工場付近にある住宅の井戸の地下水から、1リットルあたり1300ナノグラム、国の暫定目標値の26倍にあたる濃度のPFOAが検出されたことが明らかになった。

また、工場付近の水路からは1リットルあたり270ナノグラム(国の暫定目標値の5.4倍)が検出された。
この結果を受けて専門家は、まずはどの程度の影響が残っているのかを早急に確認すべきだと指摘する。
京都大学大学院 原田准教授
「同じようにPFASを使っていた大阪にあるフッ素樹脂化学工場周辺では、今も地下水などからのPFASの高い濃度での検出が続いています。そういった点で工場の敷地内だけの問題ではなく、周辺にも影響があると考えて、今後の調査を行う必要があります」

“確定的な知見はない”

数十年の時を経て明らかになったPFOAをめぐる問題。

発がん性などPFOAと健康への影響について、日本では環境省が「PFOAを体内に取り入れたことが主な要因とみられる健康被害は確認されておらず、どの程度の量が身体に入ると影響が出るのかについては、いまだ確定的な知見はない」としている。

清水工場では2013年にPFOAの使用を中止。現在工場を運営している企業は健康影響は報告されていないとする一方、今後、在籍中の従業員や退職者のうち希望者を対象に、社内の診療所での健康相談や血液検査を実施するとしている。
三井・ケマーズフロロプロダクツ
「(従業員の)健康影響は報告されておらず、検査後の健康調査は実施していません。PFOAは製品の製造過程で2013年まで使用していましたが、その後は使用しておりません。懸念物質として自主的に置き換えていく認識を持ち、対応してきました。PFOAに対する環境規制はありませんが、工場敷地内においては一定頻度で調査しています。工場敷地内の調査データは開示していません」

不安のなかで暮らす

「PFOAは今も自分の体のなかに残っているのだろうか」

工場で「C-8」(PFOA)を10年余り扱っていたという元従業員の男性は今、不安を拭いきれないまま、静岡市や会社側の動きを見守っている。
元従業員の男性
「“知らぬが仏”で来たってことですね。今考えてみたら怖いよね。私自身の血液濃度を早く調べてほしいですし、値が出れば、それなりの対応をしてほしいですね。不安を抱えたまま、ずっと生きていくというのもつらいだろうし。とにかく工場で働いていた全社員、今いる社員さんも含めて、血液検査をしてもらいたいですね」
(10月20日 おはよう日本で放送)
機動展開プロジェクト 記者
柳澤 あゆみ
2008年入局
秋田局、石巻報道室、カイロ支局などを経て現所属
PFASめぐる内部文書取材を担当
政経国際番組部ディレクター
渡邊 覚人
2015年入局
福岡局などを経て現所属
人種差別や環境問題などを取材
静岡放送局 記者
平田 未有優
2019年入局
福岡局を経て2022年から現所属で事件・司法担当
今回PFASに関連する工場や関係者を初めて取材
静岡放送局 記者
仲田 萌重子
全国紙を経て2022年入局
静岡ではリニア中央新幹線の環境問題を担当
PFASの取材は初めて
社会部 記者
林 勇志
2011年入局
大阪局などを経て現所属で環境省を担当
PFASを継続取材