“時給上がって働けない” 年収の壁って超えられるの?

“時給上がって働けない” 年収の壁って超えられるの?
「最近時給が上がったから、いつもより働く時間を減らしている。物価高で本当はもっと稼ぎたいけど…」

パートで働く人から、そんな声が聞こえてきます。みなさんが気にしているのは、いわゆる“年収の壁”。一定の年収を超えると、配偶者の扶養を外れて、手取り収入が減ってしまうその仕組み。“年収の壁”を前に、あえて勤務を減らす「就業調整」をしているという人も、いらっしゃるのではないでしょうか。

国はこの「壁」を意識せず働くことができるように、10月から新たな支援策を始めました。

私たちは“年収の壁”超え、希望通りの働き方ができるようになるのでしょうか。
(社会部 記者 平山真希)

スーパー開店が延期?

大手スーパーが10月に行った会見。

社長の口から出たのは衝撃的な言葉でした。
ライフ 岩崎高治社長
「東京の目黒区でオープンするお店がありますが、採用しなくてはいけない人数に対して、半分程度しか集まっていません。オープン時期の先延ばし含め検討せざるを得ない状況です」
発表されたのは、新規開店する店舗のオープン日の延期について。社長はこう続けました。
ライフ 岩崎高治社長
「この人手不足の中で、今働いている人たちの時給が上がって、働けなくなっているという声が出ていて、大変な状況です」
時給を上げたのに、働いてくれない。

それによって店がオープンできないという事態が起きていました。

小売りの現場で何が起きているのか、訪ねてみました。

“年収の壁”が人手不足に直結

この会社が運営する都内の店舗。
「店の顔」として入り口に設置されたベーカリーコーナーで、さっそくその影響を目にしました。
パートの人手が平均で2人ほど不足する状態が続いていて、パンの品だしが追いつかないケースが頻発しているというのです。
パート従業員
「お昼に向けたタイミングでお客さんが来るので、午前中が忙しい。その時間に人手が足りないので商品を出すのが遅くなってしまうんです」
新規事業も影響を受けていました。

ネットの注文をもとに、店舗から商品を自宅に届ける「ネットスーパー」のサービス。年々需要が増えていますが、人手が足りないため、あえて受注件数を減らしているといいます。
ライフ新大塚店 岩崎正展 店長
「満足いく採用ができていない中で、今いるパート従業員の中で働く時間を控える人が出てきて、人手不足が深刻化しています。お客様のニーズが高まるネットスーパーは売り上げ増加のチャンスですが、人手不足で受注を受けられず悔しい思いをしています」
全国各地に店舗を展開するこの大手スーパー。従業員の8割にあたる4万4000人がパート従業員です。

従業員に話を聞くと“年収の壁”意識して、働く時間を抑えているという声が。
パート従業員
「働くのは週3回、1日5時間にとどめています。物価高で生活はぎりぎりなのでできればもう少しゆとりのある生活ができるように、長く働きたいのですが。大学生になって一人暮らしを始めた息子の仕送りにもあててあげたいし…」

壁を意識して「就業調整」する人が6割にも

野村総合研究所の調査では、配偶者がいてパートタイムやアルバイトとして働く女性のうち、およそ6割が壁を意識して「就業調整」をしていると回答しています。
さらに“年収の壁”を超えても手取りが減らないのであれば、年収が多くなるように働きたいか尋ねたところ「とてもそう思う」「まあそう思う」が、合わせて8割近くにのぼりました。
厚生労働省の試算では“年収の壁”を意識している可能性がある人は全国で60万人にのぼるとしています。

国の支援パッケージはどんなもの?

こうした状況の中で政府が打ち出した「年収の壁 強化支援パッケージ」。
内容はどんなものなのでしょうか?
そもそも“年収の壁”は、厚生年金や健康保険に加入している会社員などの扶養に入っている配偶者、例えば夫がサラリーマンの妻などが対象です。

国民年金の「第3号被保険者」と呼ばれ、みずから保険料を支払わなくても基礎年金を受給できます。

この人たちがパートなどで働いた場合、一定の年収を超えると、“みずから保険料を支払う必要”が出て、手取りが減ってしまいます。

その年収ライン“年収の壁”と呼ばれ、今回、その壁を超えて働いても、手取りが減らないように支援しようというのです。

《「年収の壁 強化支援パッケージ」主な内容》

【106万円の壁】
従業員が101人以上の企業などで働く人
▽年収が106万円(月8万8000円)超え
▽週の労働時間20時間以上など

・壁を超えると配偶者の扶養外れ、厚生年金や健康保険の保険料の支払いが発生。
・おおむね年収125万円になると手取り収入が戻る。
・残業代や休日手当などを除いた所定内賃金が月額8万8000円以上が適用の基準。
 このため、それを超えなければ就業調整を行う必要はない。
<支援パッケージ>
賃上げや社会保険料を補う手当を設けるなど従業員の収入を増加させる取り組みを行った企業に3年間で最大50万円を支給。
(10月20日~企業から申請受付を開始)
【130万円の壁】
従業員が100人以下の企業などで働く人
▽壁を超えると扶養を外れ、国民年金や国民健康保険の保険料を支払う。
▽残業代や休日手当、不動産収入など、すべての収入を基準に判断される。
<支援パッケージ>
「一時的な収入変動だ」と事業主が証明すれば、壁を超えても原則、連続2年まで扶養にとどまれる。
いずれも今回の国の支援策をどこまで利用するのか、企業側の姿勢が問われることになります。

ただ“年収の壁”がなければ本当はもっと働きたいという人にとっては、壁を超えるチャンスが訪れたのかもしれません。

女性の社会進出と人手不足で変わる環境

では、なぜい“年収の壁”がこれほど注目されているのか?
それには社会環境の大きな変化があります。
国民年金の「第3号被保険者」制度が作られたのは1985年(昭和60年)。

「男性は仕事、女性は家庭」の考え方が現在より強かった時代です。
夫がサラリーマンの専業主婦も、将来、年金を受給できるようにすることを念頭に作られました。

しかしその後、女性の社会進出が進みます。

夫婦共働きの世帯が増える中で、女性“年収の壁”を意識して働く時間を抑えるケースが相次ぎ、女性のキャリアを抑制しているなどという意見が出てきました。

自営業の夫の妻は保険料を支払わなくてはならないのは不公平だという声もありました。

そして最近、特に指摘されはじめたのが、企業の「人手不足」です。
▽労働時間 
2013年 月91.1時間

2022年 月79.6時間
▽時給 

2013年 1039円

2022年 1242円
ここ数年、物価高騰などを背景に、企業が最低限支払うべき賃金「最低賃金」が過去最大の引き上げ幅で上昇し、パート従業員の時給を押し上げています。

ところがパートタイムの労働時間はこれに反比例して、去年までの10年で13%減少しています。
時給の引き上げで“年収の壁”に到達しやすくなったことが、働く時間の減少につながり、ひいては人手不足につながっているというのです。

独自補助で“年収の壁”を超える

もし、パート従業員が“年収の壁”を意識せず働けるようになったときに、何が起きるのか。

国に先駆けた独自の取り組みで“年収の壁”を乗り超えてきた会社があると聞き訪ねました。
大阪に本社を置く、従業員240人余りの包装フィルムメーカーです。

この会社ではかつて“年収の壁”を意識して、働く時間を抑えるパート従業員が相次ぎ、人手不足が課題となっていました。

そこで設けたのが、壁を超えて手取りが減ったとしても、その分を会社が独自に負担する制度です。

制度を導入して18年、今ではこの会社では、26人のパート従業員のうち、17人が“年収の壁”を超えて働いています。
クリロン化成 栗原清一 会長
「人手不足の中で会社としては従業員1人1人の会社への貢献度を上げてもらいたいと思っても、手取りが減ってしまうのでみなさん働かない。それでどうしようかと社内で話しあって、壁がなくスムーズに昇給や時給アップが進み会社にも貢献してもらおうと社会保険料を補助する制度を始めたんです」
会社の制度を利用してきた村田悦子さんです。

18年前にパート従業員として働き始めた村田さん、いま“年収の壁”を大きく超えて働いています。

村田さんは壁を超えて働けることで、パート従業員から契約社員に働き方を変えました。自分のキャリアアップにもつながっているといいます。
村田悦子さん
「入ったばかりの時は単純作業が多かったんです。もし会社の制度がなかったら、できる仕事は限られていました。でも、いまは新しい作業にどんどんチャレンジできるようになっていて、会社に貢献できていると思えています。働く意欲がある人がスキルアップして、よりよい仕事ができるようになっています」
この会社では、壁を超えて働きたいというパート従業員たちのために年間およそ150万円を負担してきました。

それでも結果として、社員の働く意欲は向上し、会社の売り上げアップにもつながっています。

深刻な人手不足の悩みも解消し、効果は大きいといいます。
クリロン化成 栗原清一会長
「制度を導入してよかった。今は“年収の壁”を意識して働いている人は社内にいなくなったと言えます。壁を少し超えればいいということではなくて、働いている一人一人が貢献度の高い仕事をして大きく収入を伸ばし、会社も売り上げを上げていくことが大切です。年収の壁の付近で働く人がキャリアアップできるように国も企業も努力していかないといけないと思っています」

年金制度の抜本的な改革が必要

“年収の壁”を乗り越えるために始まったチャレンジ。

いずれも2025年に実施される予定の年金制度の見直しまでの時限的な措置とされ、年金制度をどう見直すか、議論が続いています。

専門家はようやく動き出した対策に一定の評価をしながらも、今後の制度改革に向けた議論がより大切だと指摘します。
“労働経済学が専門”東京大学 山口慎太郎 教授
「国が問題意識として解決しなければならないと対策を打ったこと自体は評価できます。一方で支援が『時限措置』ということで、その先が分からない中、労働者がどういう働き方にしていくかを決めるのは難しい。“年収の壁”をめぐる年金制度を根本的に変えていく必要があります。問題となっている国民年金の『第3号被保険者』の制度ができたころは、夫がサラリーマン、妻が専業主婦というのが当たり前の時代だったが、現状にはそぐわなくなってきている。労働意欲を妨げるようなものは撤廃していかなくては、日本の経済社会にとって問題が大きいまま続いてしまう。抜本的な改革が必要です」

働く人たちが報われる制度を

今回の取材でパート従業員に話を聞いていると、時給が上がっているのに「全くうれしくない」とか「生活が豊かにならない」という声が数多く聞かれました。

中には「あえてボーナスを受け取らなかった」と答える人までいて驚きました。

その一方で、多くの人たちが「本当は物価高でモノの値段が上がっていて、生活は苦しい。もっと長く働いて稼ぎたい」と話していました。
“年収の壁”をめぐる国や企業の動きが、この大きな矛盾を解消するすべになるのか。

そして、壁を超えて働きたいという人たちが、収入だけでなく、キャリアアップも含めて働くことで満足を得ることができるのか。

これからも注視していきたいと思います。
全国で広がる人手不足や働き手が直面するさまざまな課題を「働き手クライシス」として、みなさまからの情報やご意見を募集しています。

こちらからお寄せ下さい↓↓↓
厚生労働省は“年収の壁”相談窓口を設けています。

厚生労働省 年収の壁突破・総合相談窓口

電話番号:0120-030-045

受付時間 平日 8:30~18:15
※土日・祝日・年末年始(12/29~1/3)は利用できません。
(10月13日「おはよう日本」で放送)
社会部 記者
平山 真希
2015年入局 仙台局から現所属
社会部で検察担当を経て現在は厚生労働省担当
労働政策・問題について幅広く取材