ことしの「秋の褒章」を受章するのは、
▽人命救助活動で功績のあった人に贈られる「紅綬褒章」が5人。
▽ボランティア活動で功績のあった人や団体に贈られる「緑綬褒章」が10人と26の団体。
▽長年にわたって、その道一筋に打ち込んできた人に贈られる「黄綬褒章」が235人。
▽芸術や文化、スポーツ、それに学術研究の分野で功績のあった人に贈られる「紫綬褒章」が11人。
▽公共の仕事で顕著な功績があった人に贈られる「藍綬褒章」が423人です。
このうち「紫綬褒章」は、長年にわたってミステリー小説を中心に執筆し代表作の「秘密」や、直木賞を受賞した「容疑者Xの献身」など数々のベストセラーを発表してきた東野圭吾さんや、歌集「サラダ記念日」で短歌ブームを起こし、作詞や戯曲、コラムなど、多彩な創作活動を続けている歌人の俵万智さんらが受章します。
褒章の受章者は、今月9日、10日、13日の3回に分けて、皇居で天皇陛下からお言葉を受けることになっています。
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「秋の褒章」東野圭吾さんや俵万智さんら684人と26団体が受章
長年にわたって、その道一筋に打ち込んできた人や、芸術やスポーツの分野で功績のあった人などに贈られる「秋の褒章」の受章者が発表され、小説家の東野圭吾さんや、歌人の俵万智さんら684人と26の団体が受章することになりました。
小説家 東野圭吾さんとは
紫綬褒章を受章する小説家の東野圭吾さんは、大阪府生まれの65歳。
大阪府立大学工学部を卒業したあと、1985年、27歳のときに「放課後」で江戸川乱歩賞を受賞し、デビューしました。
ミステリーを中心に数多くの娯楽作品を発表し、1998年に第1作が刊行された「ガリレオ」シリーズは、天才物理学者が専門知識を駆使して謎に挑む人気作品で、「容疑者Xの献身」は2006年の直木賞を受賞しました。
豊富なトリックと深い人間描写に定評があり「白夜行」や「加賀恭一郎」シリーズ、それに「マスカレード」シリーズなど次々とベストセラー作品を手がけ、ことし4月には国内での著作の累計発行部数が1億部を突破しました。
また、およそ40の国と地域で作品が翻訳されるなど海外でも人気を集めています。
東野さんは受章について「頭の中にあるのは、読者を楽しませるものを書く、もっと読みたいと思ってもらえる作家を目指す、ということだけです。その感覚は山登りに近く、とにかく地道に前に進んでいけば、いずれは頂点に辿り着けるはずだと信じています。このたびの受章は、これまでにおまえが辿ってきた道は間違っていない、という励ましと受け取らせていただきます。今後も精進し、頂点を目指し続けたいと思います」などとコメントしています。
東野圭吾さんコメント
紫綬褒章の受章について、東野圭吾さんはコメントを発表しました。
以下その全文です。
「小説家としてデビューしたのは今から三十八年前、二十七歳の時でした。それ以後、頭の中にあるのは、読者を楽しませるものを書く、もっと読みたいと思ってもらえる作家を目指す、ということだけです。その感覚は山登りに近く、とにかく地道に前に進んでいけば、いずれは頂点に辿り着けるはずだと信じています。ただし山の頂点がどこにあるのかは、わかっておりません。今、自分が山のどのあたりにいるのかも把握できておりません。果たしてこのルートで合っているのだろうか、おかしな道に迷い込んでいるのではないか、と不安になることもあります。そんな中、このたびの受章を知り、驚きました。視界不良の険しい山道を登っていたら、突然目の前に予想外の道標が出現したようなものです。文学性は追わず、ただひたすら娯楽性を求めて書き続けてきました。自分が作家として生き残っていくには、そこにしか活路はないとわかっていたからです。その覚悟だけが信用できる唯一のコンパスでした。しかしそれに従って進むかぎり、生涯巡り会うことのない道標もあるだろうと思っていました。紫綬褒章は、まさにその一つです。夢想さえ、したことがありません。このたびの受章は、これまでにおまえが辿ってきた道は間違っていない、という励ましと受け取らせていただきます。今後も精進し、頂点を目指し続けたいと思います」。
歌人 俵万智さんとは
紫綬褒章を受章する歌人の俵万智さんは、大阪府生まれの60歳。
早稲田大学に在学中、歌人の佐佐木幸綱さんと出会い、短歌を作り始めました。
大学を卒業したあと、高校で国語の教師をするかたわら1987年、24歳のときに手がけた初めての歌集「サラダ記念日」が異例のベストセラーになります。
“「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日”という句をはじめ、みずみずしい感性で詠まれた作品の数々は幅広い世代の人気を集め、短歌ブームを巻き起こしました。
その後も「チョコレート革命」や「未来のサイズ」など、恋愛や子育てといった日常生活の中で感じたことを表現した歌集を次々と発表し、還暦を迎えた現在も歌人の第一線で活動しています。
また、SNSなどを通して現代短歌の魅力を若い世代に伝えているほか作詞や戯曲、コラムなども手がけています。
受章にあたり会見を開いた俵さんは「短歌を作り始めたのが二十歳のころで、40年という月日が流れたことを感慨深く思います。短歌を作ることで自分の人生が豊かになった実感があるので『短歌よ、ありがとう』という気持ちでいっぱいです。これからも表現者として、その年齢にしか詠めないものを詠んでいきたい」と話していました。
俵万智さん会見
紫綬褒章の受章にあたって俵万智さんが開いた記者会見での主なやり取りをご紹介します。
歌人としての40年を振り返り、短歌の魅力を語りました。
小さな日常のときめきにも敏感に 短歌に感謝
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Q.「サラダ記念日」でのデビューから36年。これまで短歌を詠むうえで大切にしてきたことは。
A.短歌というのは、特別な体験やすごい経験がないと詠めないものではないと、私自身は信じています。
日々の暮らしの中で小さなときめきというのは誰もが持つことができるものであって、それに気付かせてくれるのが短歌じゃないかなと思うんですね。
私自身も歌の作り方としては、日常の中での心の揺れというものをつかまえて、歌にしていくということを大事にしてきました。
逆に言うと、短歌を作っているからこそ、本当に小さな日常のときめきにも敏感になれるところがあって、短歌に感謝しています。
20代の頃は20代の頃の視線で日常を詠みますし、30代、40代、50代、60代というふうにその年齢年齢でしか詠めないときめきがたくさんありましたので、それを一つ一つ丁寧にことばに紡いできたという感じです。
その土地に暮らし詠む歌のよさ
Q.これまでいろいろな土地に移り住まれてきたが、それぞれの場所で創作することはどのような体験だったか。
A.振り返ってみるといろんなところに住んできまして、生まれは大阪で中学・高校は福井県で過ごしました。
そのあと東京に来て、それから仙台、石垣島、宮崎、そしてまた今仙台です。
それぞれ自然な理由があって引っ越してきたのですが、やはり旅では味わえないその土地のよさというのが、住んでみて初めて分かることってたくさんあるんですね。
石垣島でしたら、常に青い海と青い空ばかりではないですし、仙台には仙台のよさ、宮崎には宮崎のよさ、それぞれ住んでみないと分からないものを、まさに日常がある場所として、その土地を体験できたことはよかったかなと思います。
新しい歌集の中に仙台を詠んで「看板にDATEとあればおおかたはダテと読ませる仙台の店」というのがあります。
最近、店で「デイト」かなと思って見るとだいたい「ダテ(伊達)」と読ませているんですよね。
そういうのって暮らしてみると「ふふっ」と気付くようなことがあって、そうやって土地土地の方言やおいしいものを含め楽しんでいる感じです。
デビュー時にかけられたことばを胸に
Q.40年間ずっと第一線で活動する中で、大変だったことや転機は。
A.歌についてはずっと作り続けてきていて、今40年を振り返ったときに思い出されたのは、サラダ記念日でデビューしたときに「あなたがこのまま40歳、50歳になったときの歌を読んでみたいものだ」と言われたことを思い出しました。
それはいろんな意味にとれるんですね。
「これからもずっと続けていきなさい」という励ましともとれるし「この文体でどこまでやれるか見物だ」というふうな、ちょっと突き放したようなことばにもとれます。
そのことを久しぶりに思い出して「いや私40、50の頃から60になっても作っていますよ」とちょっと言いたいなという気持ちを持ちました。
あの時はそれこそブームみたいな形になって、ブームというのはどこかで一過性というふうなニュアンスを持ちますし、非常に恵まれたスタートではありましたけど、いきなり注目されるという形の出発でしたので、そこをどれだけ平然と続けていけるかというのが自分にとっては課題だったのかなと思いますね。
読んだ人の心のお守りに
Q.俵さんにとって短歌はどのような存在か。
A.自分にとって短歌というのは生きることと並行してあるという感じです。
短歌を作っていて一番いいなと思うのは、忙しい日常の中で小さなときめきがあったときに、しっかり立ち止まる時間が生まれるんですね。
たぶん短歌を作っていなかったら「あっ」て思っても「あっ」と思いっぱなしで過ぎていくと思うんですが、その「あっ」っていうときめきは何だろうというふうに立ち止まってしっかり味わい直す。
そしてそれがことばになって残っていくことで、自分にとっても残っていきます。
さらに例えばその作品を読んだ方が、その方の心のお守りみたいな形で大事にしてくださっているということを知ると、歌人冥利(みょうり)に尽きるなと思いますね。
「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」という歌を作って、それは自分自身が子育ての中で実感したものなんですけど、子育てでテンパっているお母さんたちが、この歌を見るとなんか頑張ろうというか、改めて子どもを大事に思う、その時間を大事にしなきゃと思うということを言っていただきました。
さらに子育てとは関係なく例えば介護している人とか、あるいは恋人同士の時間とか、それぞれの方が最後とは知らず最後は過ぎてゆくかもしれないかもと思って過ごすことの大事さみたいな形で受け取っていただいて、すごく幸せな歌だなと思います。
私自身はことばにしてとっておきたいと思ったことを短歌を通して多くの人と共有できるというか、それもすごくすてきなことだなと感じています。
人生そのものがそうなんですね。
最後とは知らず最後は過ぎていって、あとから最後と気付くというかな。
最初はだいたい意識するんですけど、そういったことがすべて自分にとっての短歌のよさっていう感じがあります。
短歌の素材は誰もが持っていることば
Q.これから短歌を実際に詠んでみたいという人に向けてコツやアドバイスは。
A.考えてみてください。
何か楽器を演奏しようとか、絵を描こうとか思ったら、まず道具が必要だし、その道具を扱う技術がいりますよね。
短歌に技術がいらないとは言わないですが、まず道具というか素材はことばですから、誰もが持っているものです。
そして、とりあえず日本語が使えれば楽器の音は鳴る状態なんですね。
だからいろんな表現手段がある中で、短歌って本当に入り口が広いというか、思い立ったらきょうからでも始められるというところがあると思います。
五七五七七だけが決まりなんですけど、これは面倒なものではなくて、形があるから楽という感じかな。
何文字でもいいよと言われたら私も困っちゃうんですよ。
五七五七七という型がとりあえず支えてくれるので、そこにことばを何とかいれていけば短歌であるという姿は形が保証してくれるわけです。
そういう気持ちで取り組んでいくと本当に楽しいですよ。
SNSと短歌の相性よい
Q.今は空前の短歌ブーム。短歌界の変化をどのように見てきたか。
A.短歌界というと1300年以上の歴史があるわけですけれども、私が歌を作り始めた頃は、サラダ記念日という歌集を多くの人に読んでいただいて、あの時は口語、自分たちがふだん日常で使っていることばで表現していいんだということを多くの人が気付いて短歌を身近に感じてもらえた、そういう波が1つあったかなと思います。
今、短歌ブームと言われるほど若い人たちが短歌を作ってくれている。
1つはSNSとの相性がすごくいいということは大きな背景としてあるかなと思うんですね。
短いことばで発信するということを日常的にみんなが行うようになって、短いことばで発信する、まさに短歌がそうなんですね。
あ、短歌ってそんなにハードルの高いものじゃないじゃないと若い人たちが気付いてくれたのかなと感じています。
だから短歌ってすごいんですよね。
1000年以上前からあって、それこそ万葉集の時代もあって、源氏物語にも700首以上の和歌が登場します。
その頃は和歌が恋愛のツールとして活躍していたわけですし、サラダ記念日のときは口語で大丈夫だよというふうに、なんか短歌の側が時々私たちに発信して再発見を促してくれているんじゃないかなとさえ感じます。
そしてSNSという、本当に短歌の世界から一番遠いような、古典とか古くからあるものとは遠いようなところにも、ひょこっと顔を出して短歌が「もしもし私のすばらしさに気付いていませんか」と言っているような。
そしてまんまと若い人たちがそれに気付いて楽しんでくれているというふうに、今はその風景を眺めています。
一方で、SNSの時代ってことばのインフレというんですかね、誰もが簡単にたくさんのことばを発することができるし、受け取る方も大変なくらい洪水のようにことばが流れてきている。
そういう中でことばの重みが軽くなっているような一面もある気がするんですね。
その中にあって、短歌というのは短いことば、表現の中にじっくり腰を据えてひと言ひと言選んで表現する。
ことばでしっかり思いを伝えることの大切さをこの時代にあって教えてくれるツールになっているのかな。
そういう意味でもとても今の時代にとって大切な表現方法の1つになってくれているんじゃないかなと感じます。
AIが作る短歌に思うこと
Q.今、AI=人工知能によって小説を書いたり、短歌を作ったりすることも行われている。AIは驚異と思うか。
A.自分としてはAIができないことの一番最後が短歌を作ることになってほしいと思いますし、きっとそうじゃないかなと思います。
実際、新聞社で研究している短歌を作るAIをさわらせてもらったんですね。
ちょっと下の句を迷っていて上の句を入れると100首くらい出てくるんですよ。
それを見たときは何かがっかりというか、これに太刀打ちできるのかなと思ったんですけれども、それなりの歌も交ざっていたんですね。
でもその歌がすてきな歌かどうかを判断する力は、まだAIにはないみたいというのを聞いて、ちょっとホッとしました。
私たちにとってAIは無視できない存在ではあるんですけども、AIというのはことばからことばを紡ぐことしかできないんですよね。
でも私たち人間は心からことばを紡いでいる。
そこは譲れないところだし、AIにはまねのできないところかなというふうに感じています。
バレエダンサー 上野水香さんとは
紫綬褒章を受章するバレエダンサーの上野水香さんは神奈川県生まれの45歳。
5歳でバレエを始め、15歳のときに若手ダンサーの登竜門とされるスイスのローザンヌ国際バレエコンクールで「スカラシップ賞」を受賞し、モナコのバレエ学校に2年間留学しました。
卒業後に帰国し、2004年に東京バレエ団に入団すると、20年間にわたって最高位の「プリンシパル」として古典から現代まで数々の作品で主役を務めたほか、世界のトップダンサーとも数多く共演してきました。
また、世界的な振り付け師であるモーリス・ベジャール氏から直接指導を受け、ベジャール氏が振り付けた「ボレロ」を踊ることを許された世界でも数少ないバレエダンサーです。
1メートル70センチの長身に加えて、体の柔軟性を生かした豊かな表現力は高く評価され、去年は芸術の分野で優れた業績をあげた人たちに贈られる文化庁の「芸術選奨文部科学大臣賞」に選ばれました。
上野さんは「受章したことは夢のようです。バレエはすばらしい芸術で、深く美しいものですが、気が付いたらバレエを習いここまで来ていたというのが正直なところです。私の踊りを皆さんが喜んでくれることが私の喜びにつながっていて、バレエを踊ることは私の使命だと感じています」と話していました。
上野水香さんインタビュー
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紫綬褒章の受章にあたって、上野さんはNHKのインタビューに応じました。
主なやりとりをご紹介します。
「夢なのかな 覚めるのかな」
Q.おめでとうございます。受章が決まったことへの受け止めは。
A.最初は本当に信じられないことで「夢なのかな。覚めるのかな」と思ったくらいでした。
去年、芸術選奨文部科学大臣賞をいただいたばかりだったので、こんなにすばらしい名誉ある章をこんなに早くいただけるなんて、正直驚きました。
それと同時に胸がいっぱいになって、今まで私を支えてきてくれた方や出会ってきた方たちへの感謝の気持ちがあふれてきて涙が出て、しばらく泣いてしまいました。
これから少しずつ受章の実感も出てくるのかもしれませんが、ふさわしい人物になっていきたいと思っています。
たぶん私は運がいい
Q.自身の歩みを振り返って思うことは。
A.とにかく運がよかったと思っています。
いろいろな先生が私を導いてくれたほか、私のバレエと才能を信じて支えてくれるたくさんの人たちとの出会いにも恵まれました。
キャリアについても「だめかも」と思ったところで、すっと助けの手が差し伸べられるなど恵まれていて、本当に運がいいですね。
ローザンヌ国際バレエコンクールも「調子もよくないから、来年また挑戦しよう」と思っていましたが、すぐに賞をいただけました。
また、思ってもみなかったような大役が来たり、ラッキーなこと、すばらしいことがありすぎて、たぶん私は運がいいのだと思います。
2人の恩師がもたらした個性
Q.特に影響を与えてくれた人をあげるとすればどなたですか。
A.幼い頃から習っている先生であったり、海外で習った先生など、先生方はもちろん全員すばらしい方でした。
また、東京バレエ団に来てからも芸術監督に導かれました。
皆さんすばらしい影響を私に与えてくれて助けてくれて感謝しています。
そのうえで、振り付け家のローラン・プティさんとモーリス・ベジャールさんの2人が、ほかの人にはない私だけのキャリアであったり、私だけの個性と踊りをもたらしてくれたと思っています。
「自分らしさ」というのは言葉にするのが本当に難しく、簡単な言葉では言い表せないものですが、踊りの中にある柔らかさやしなやかさ、そして、空気感みたいなものが、私の個性だとこのごろは思っています。
バレエは“私の使命”
Q.バレエとはどう向き合ってきましたか。
A.バレエはすばらしい芸術で、深く美しいものですけれども、気がついたらバレエを習って踊り、舞台にいて、気がついたらここまで来ていた、というのが正直なところです。
ずっと一緒に歩いてきたものであると感じています。
それと同時に、私が踊ることで周りの人が喜んでくれたり、お客様が拍手してくれたり「よかったよ」「元気をもらえた」と言ってくれることで「私は生きていていいんだ。踊っていていいんだ」と思えます。
その点で、バレエは私の存在理由につながっているものです。
私の踊りが皆さんの力になり、役に立っているというなら、バレエを踊ることは私の使命なのだと感じています。
そして、お客様が喜んでくださることが、そのまま、私の喜びにつながっています。
いずれ次世代に伝える役割も
Q.今後の目標や抱負は。
A.まずは、目の前のことを精いっぱいやることです。
舞台などのいろいろな仕事、私に来た大切な機会の一つ一つを、120%の力でやっていくことだと思っています。
現在所属している東京バレエ団は、来年で創立60周年を迎えます。
そして、私も来年で東京バレエ団に在籍して20年となるので、バレエ団にとっても私にとってもメモリアルイヤーとなります。
そこを盛り上げていく一員になりたいと思っています。
また、踊りに関しては、これまで歩んできたキャリアや学んできたこと、研究してきたこと、自分のレパートリーなど、大切なものがあります。
私もいつか踊れなくなってしまう時が来ます。
一方で、バレエとそのすばらしい作品はこれからもずっと残って伝え続けられていくものだと思っています。
そういったものを、大切に次世代に伝えていくようなことも、いずれはしていくことになると感じています。
その時期や形がどのようなものになるのかは、今は分かりませんが。
不安もあるが楽しみに変えたい
Q.そういった将来のことを考えて感じることは。
A.芸術家はあすが分からないし、終わりもありません。
深めたら深めただけ、新たに壁が見えてくる。
「もっとこうしたい」とか「もっとこうするべきだ」といったことが、次々に現れてきます。
「よりよくなりたい」「よりお客様に喜んでもらいたい」という中で、あす、けがをしたら踊れなくなってしまう。
そういった、いろんな闇と隣り合わせというか、とにかくあすが分からない。
だから、不安もたくさんあります。
しかし、その中でもベストを尽くすことで、あすを楽しみにできるような人生にしていきたいと思っています。