猫の街の「アイツ」 20年の生涯

猫の街の「アイツ」 20年の生涯
駅の裏に住み続けた猫。

落ち込んだとき、ふと手を差し伸べてくれました。いつしか、みんなにとって、かけがえのない心の支えになっていました。

「猫の街」尾道で、約20年も愛され続けた「アイツ」。地元の人が、その生涯をたどり、絵本にすることにしたのです。

(広島放送局 尾道支局 昇遼太)

猫の街 尾道の名物猫「アイツ」

ことし9月、「猫の街」と呼ばれる広島県尾道市から、一冊の絵本が生まれました。

題名は「駅裏のアイツ」。A4版31ページで、一匹の猫の生涯が温かいまなざしで描かれています。
路地を歩くと、いたるところで猫を見ることができる尾道市。絵本の舞台はJR尾道駅の北口、通称「駅裏」でした。
そこに、絵本のモデルとなった一匹の猫がいました。その名も「アイツ」。メスの三毛猫です。

近所の人や通勤通学客らに愛され、2018年にこの世を去るまでの約20年間、この駅裏に住み続けました。

“ニャン相”の悪い「アイツ」

絵本の原案と企画を担当したのが、尾道市に住む緒方智子さんです。
10年ほど前に駅裏でリラクゼーションサロンを開業するとき、初めて「アイツ」に出会いました。友達との何気ない会話から、「アイツ」と呼ぶようになったと言います。
緒方智子さん
「10年ぐらい前に駅裏を歩いていたところ、足元に、“んぎゃー”と来たんです。ぱっと見たら、すごい“ニャン相”の悪い、人なつっこい猫が足にスリスリ、スリスリって。友達に『駅裏にかわいい猫いるよね』と言うと、『いるいる、アイツでしょ』って。私が『そうそうアイツ!』と言ったのが始まりです」

「人が入ってるの!?」

アイツはいつも駅裏にいました。ふらふらと散歩をしたり、暑い日はベンチの陰に隠れて涼んだり。
緒方さんが近寄って話しかけると、いつも鳴いて返してくれました。それはいつしか、日課のようになりました。

緒方さんにとって、忘れられないふれあいがあります。それはとても落ち込んでいた日のこと。緒方さんの手に、そっと手を置いてくれたのです。
緒方智子さん
「落ち込んでいた日にアイツがそっと手を置いてくれて、『にゃあ、大丈夫にゃあ』みたいな。『温かい』と思いました。アイツにはそういう、そのときどきに合わせてくれるところがありました。写真撮ろうとしたら、ちゃんとポーズしてくれたり。『人の状態を見て態度を変えているんじゃないの?』『実は、人が入ってるんじゃないの?』みたいなところがありましたね」

この世を去った「アイツ」

しかし、5年前の2018年6月13日、アイツはこの世を去りました。少しずつ痩せて、心配していたときのことでした。

緒方さんが最後に会ったのは、2日前。声がかすれて、「にゃー」といういつもの鳴き声は出ませんでした。それでも、しっぽは緒方さんに反応してくれていました。なぜか、「最後なのかな」と思ったと言います。
2日後、近所の人が、アイツがこの世を去ったことを知らせる貼り紙を、駅裏に貼ってくれていました。

緒方さんは、人目もはばからず号泣しました。家族を失ったような気分だったといいます。

「アイツ」のことを知らせたい

しばらくたって、緒方さんは「アイツの生きた証を残したい」と思うようになりました。そして、絵本を作ることを決めます。

作画は地元出身の作家の中本ちはるさんに、装丁はデザイナーの平川楓子さんに依頼しました。さらに、20人近くからアイツとの思い出を聞いて、中本さんとストーリーを練っていきました。

合わせて、資金集めです。「駅裏のアイツ」というプロジェクト名のクラウドファンディングで、「ご支援受付中!!」と呼びかけました。
2023年1月からの1か月半で、109人から76万円余りの資金が集まりました。緒方さんは、アイツが多くの人に愛されていたことを実感します。

絵本で描いた「アイツ」の日常

こうしてできあがった絵本が、「駅裏のアイツ」です。
絵本では駅裏にいたアイツの日常と、地域の人との交流を描いています。のんびり昼寝をしたり、子どもとふれあったり。

実は、いろいろな人からいろいろな名前がつけられていました。「ミイ」「タマ」それに「にゃじら」まで。

アイツの生態を調べるために、半日ずっと密着したというファンもいました。「アイツ特集」なんていう記事も生まれたのです。

「アイツ」を世話した男性

絵本の最後のページは「ああ、いい一生だったにゃ…」という文とともに、男性の後ろ姿とのツーショットにしました。
男性は、駅裏近くに住む高橋幸孝さんです。今回、話を聞くことができました。

高橋さんは「アイツ」を「ミイ」と呼んでワクチンを打つなど、飼い猫並みの世話をしていました。
この世を去るまで10年以上、家に入れて世話をしてきたとい言います。初めて自宅に入ってくれた日のことを、今も思い出します。
高橋幸孝さん
「寒い日だったと思う。2月のちょうど雪が降りよったんかね。帰り道にミイがついてきたんですよ。玄関に来たら入らんと思ったけど、家に入りました。たまげましたね。布団に寝とりました、横になって」
いつも駅裏に自転車で行き、夕方には連れて帰っていたという高橋さん。「ミイ」とともに帰った道のりを、一生忘れることはないと話しました。

「アイツ」は宝だった

緒方智子さんが絵本に込めたこと。それは一匹の猫が、これほど多くの人の心に残っているということです。この絵本を通して、アイツに寄せたみんなの思いも知ってほしいと考えています。
緒方智子さん
「絵本に出てくることには、作り話が一つもないんです。アイツのことを大切に思っている人たちがいました。高橋さんに『どんな存在ですか?』と聞いたら、『宝かのぅ』と言いました。そして、アイツと私の間には、悲しいこと、つらかったこと、さみしかったこと、そういう嫌な思い出が何一つないんです。思い出すのは、楽しいとか、かわいいとか、心がホクホクする感じのことが多いんですよ。この絵本は『アイツ』の日々の話と思って、読んでもらいたいです」

みんなの「アイツ」

約20年、尾道で愛され続けた「アイツ」。それぞれの人にそれぞれの思い入れがありました。一匹の猫がこれほど多くの人の心を動かしていたことに、私自身も心が動かされました。
その愛きょうあるしぐさゆえの人気。でも、長年、愛きょうがあって暮らせたのも、ひとえに尾道の駅裏の人たちの存在があったからだと思います。

相手を思う気持ち、優しい気持ちに触れることができた取材でした。

(10月11日「お好みワイドひろしま」で放送)
広島放送局尾道支局 記者
昇遼太
令和2年入局
広島放送局で警察や広島市政の担当を経て、今年8月に尾道支局に。
犬派でしたが、今回、猫派の気持ちもわかりました。