学徒出陣から80年 都内で追悼式 記憶と教訓どう伝え継ぐか課題

太平洋戦争中、多くの学生たちが戦地に赴いた学徒出陣の壮行会が行われてから80年となったのに合わせて、都内で追悼式が開かれました。
当時を知る人が少なくなる中で記憶と教訓をどう伝え継ぐかが今後の課題となっています。

太平洋戦争中の学徒出陣では戦況の悪化によって10万人ともいわれる学生たちが召集され、1943年10月21日に今の国立競技場がある東京の明治神宮外苑競技場で壮行会が行われました。

壮行会から21日で80年となったのに合わせ、22日は国立競技場の敷地内に設置された学徒出陣を伝える碑の前で追悼会が開かれました。

遺族や関係者などおよそ50人が参列し、全員で黙とうをささげ、学業の志半ばで命を落とした若者たちを悼みました。

追悼会にはおととしまでは元学徒も参列していましたが、ことしは去年に続いて元学徒の参列はなく、当時を知る人が少なくなる中で記憶と教訓をどう伝え継ぐかが課題となっています。

父親が元学徒の玉川博己さんは「当時を知る人はほとんどいなくなってしまったが、学徒が残してくれた証言や記録を通じて、学徒出陣の記憶を次の世代に引き継いでいかないといけない。戦争を起こさないためにどうすればいいのかを考え、行動していくことが必要だ」と話していました。

旗手で参加した元学徒は

宮城県仙台市で暮らす川島東さん(99)は80年前、明治神宮外苑競技場で開かれた壮行会に専修大学の旗手として参加しました。

女子学生がスタンドを埋め尽くしたという当時の様子について「先頭の東京大学の学生が『われわれは国のために』って代表で答辞をしたが、最初は悲壮な様子で声が低かったけど、だんだんと燃えるような声になっていった。それで行進が始まった時に女子学生がワーッと「海ゆかば」を合唱し、何とも言えない悲壮な覚悟をもった。いまでもうまく表現できないが、われわれは捨て石の時代であとの時代の若い連中のためにわれわれが命も体も全部投げ打っていくしかないという、悲壮な覚悟だった」と振り返りました。

川島さんは壮行会のあとも召集がかからず、1944年9月に大学を卒業し就職した直後に陸軍の予備士官学校への入校を命じられます。

そして、翌年の1945年の春に陸軍の部隊に配属となり、アメリカ軍が相模湾から上陸することに備えて横浜気象台の班長として気象伝達の任務の準備を進めていたときに終戦を迎えました。

川島さんは当時の心境について「日本が勝つという気にさせられていたので、負けたことへの悔しさはあったが、毎日のようにあった爆撃がもうこないんだと思うとほっとする部分もあり、いろんな感情がミックスした気持ちだった」と話していました。

そのうえで「こうして生き残ってこれまでの人生を真剣に考え、亡くなった友を思い出しながら平和がいかに貴重なものかが心にしみている。戦争は勝っても負けても、不安と恐怖と失望をもたらし、すべての情熱を失わせてしまう。学業を国の力で中断させる学徒出陣はとんでもないもので、教育が中断されないかぎり、自信と希望と勇気がまた出てくるんだということを次の世代に伝えていきたい」と話していました。

陸軍の船舶部隊だった元学徒は

当時、早稲田大学の1年生で20歳だった保倉進さんは、学徒出陣で陸軍の船舶部隊に配属され、主に海上で人員や物資の輸送に当たりました。

学業半ばでの入隊について保倉さんは、「いやおう無しに『20歳なったら兵隊!』。死ぬという前提で兵隊に行くから、生きて帰ってくるなんて思わなかった。『もっと人生を、いろんなことを楽しんでからいきたい』という希望はありました」と当時の胸の内を語ります。

保倉さんが出征する時点で兄も戦場に出ていて、母親は保倉さんの出征に当たり「二人の子等を捧ぐうれしさ」といった歌と手作りの日の丸を渡して送り出しました。

この母親の姿について「息子を戦場に送り出すことに悲しい、さみしいとは言えない。喜んで息子たちを送り出したとしないと憲兵がうるさかった。でも『国のために死んでくれ』というのは、母にとっては相当つらかったと思う」と話します。

フィリピンのセブ島などで訓練を受けたあと、物資輸送に当たっていた保倉さんは1945年の夏、朝鮮半島から日本に物資を運ぶ輸送船に乗り込んでいたところアメリカ軍機から機銃掃射を受けます。

保倉さんは「当たらないでくれ、当たらないでくれ」と必死に隠れてなんとか無事でしたが、乗組員の1人が犠牲になりました。

保倉さんは戦後、復学して卒業したあと、アメリカやイギリスの会社で働きながら、異なる文化圏の人たちをつなぐ異文化交流にも励んできました。

戦争と異文化交流、対極ともいえる経験をした保倉さんは今も各地で起きている戦争について「理由はどうであろうとも殺し合いはすべきではない。何回も何回も話す、話す努力をして徐々に心の扉を開かせて『じゃあ話してみようか』とさせることが解決のワンステップだ。話せばわかる。書いてみようでもいい」と訴え、世界が平和になることを心から願っています。

学徒出陣 伝えようとする大学生も

80年前の学徒出陣を経験した人が少なくなり、当時の記憶の継承が課題となる中、学徒出陣を伝えていこうとする大学生もいます。

東京大学4年生の岡夏希さんは、去年、大学の授業で戦争で犠牲になった学徒の遺書などを展示する「わだつみのこえ記念館」を初めて訪れ、学徒出陣に関心を持つようになったといいます。

岡さんは「歴史上の出来事としては知っていましたが、遺書や遺品を見ていくことで、一人ひとり人生を持っていた学生だったんだということを改めて感じました。今自分が勉強している時間に訓練をしていたり、出陣して戦地にいたりしたんだろうかと思うと胸が詰まるような感情がわき起こってきます」と話していました。

岡さんはことし5月の大学祭で東京大学の戦没学徒の遺稿を展示する企画でチラシや動画を制作し、20日から東京 有楽町で開かれている学徒出陣の手紙や遺品などを展示する企画展にスタッフとして携わっています。

岡さんは「どれだけ『戦争はひと事ではない』とか『平和のために活動していかなくてはいけない』ということを言っても、根本的な意識はなかなか変わらないと思う。日本にも平和じゃない時代があって、学生たちが戦場に行かなくてはいけなかったことを知ることで、自分自身で平和とは何かを考え続ける必要があると思います」と話していました。