守りたかった町で一軒のすし店 大雨被害から復活までの2か月

守りたかった町で一軒のすし店 大雨被害から復活までの2か月
秋田県を襲った記録的な大雨から2か月がたった9月中旬の夜。内陸の町でただひとつ営業するすし店に2か月ぶりに明かりがともりました。

常連客の笑い声が響き渡る店内。大雨から2か月を経て、戻ってきた見慣れた光景。

すべては“この場所”を守るため。

再建に取り組んだ店主と、再開を待ち望んだ人たちとの60日あまりの記録です。

(秋田放送局記者 志田陽一朗)

1日目 秋田県内を襲った記録的な大雨

7月14日、金曜日から降り始めた雨は、勢いを弱めず翌日の15日も降り続けました。

秋田放送局に着任して4か月目の私にとって、初めて経験する大規模水害。秋田市では48時間の総雨量が400ミリを超え、観測史上最大となるなど記録的な大雨となりました。
秋田駅に隣接する放送局周辺も大人の腰の高さまで冠水し、駅前の道路はどこからか流れ込んできたコイが泳いでいました。

「被害の全容が全くつかめない…」

2日間は局の外にも出ることができず、市町村への電話取材を繰り返すなか、不安だけが増していきました。

(※10月10日時点の秋田県内の浸水被害世帯数は、9100世帯あまりとされていますが、被害の全容はこの記事の公開段階ではわかっていません)

3日目 大雨に襲われた五城目町で取材

秋田市中心部の水が少し引いた7月16日。外に出て取材ができるようになり、私は大きな被害が出ていた五城目町に向かいました。

秋田市から車で北におよそ1時間。人口8000人ほどの内陸の町は大変な状況になっていました。

町内を流れる川はいたるところで氾濫し、数メートルもある木が橋桁に引っ掛かっていたのです。川は茶色い濁流となり、水中でモノがぶつかりあう“バリバリ”という聞いたことのない音を立てていました。

町ではこの日、水につかった車の中から男性1人が亡くなっているのが見つかりました。また約400世帯が床上浸水の被害にあい、町内のほぼ全域で断水も起きていました。

自然の猛威の前に、私は無力感を感じながらもなんとか被害の一端を伝えていきました。

32日目 再び町へ

記録的な大雨から1か月となった8月14日。過去に五城目町で取材経験のある先輩記者から、現地の話を伝えられました。

「五城目町に町内唯一の『すし店』があるんだけど、今回の大雨で、相当な被害を受けてしまったみたい」

どのような被害状況なのか。連日各地の被害を伝える地元の新聞記事にその記述は見当たりませんでした。私は、先輩から教えられた「沢寿し」の看板が掲げられた店を目指しました。
町の中心部の大通りから1本入った路地にその店はありました。

「どうも。よろしくお願いします」

声をかけてきてくれた店主の金野光明さん(58)は、Tシャツにスエット姿でした。
8月、五城目町は気温が連日35度を超えていました。そんな猛暑の中、金野さんは肩にタオルをかけ、泥水につかった調理器具を店外に運び出していました。

「なんで店の中に何もないんだろう」

そう口に出してしまうほど、店内には何もありませんでした。カウンターのいすや座敷に敷かれる畳も取り除かれて骨組みがあらわに。魚が泳ぐ水槽も、ネタを並べる冷蔵のショーケースも見当たりません。

店のすべてが泥水にまみれ、使えなくなったといいます。

「これがかろうじて残ったんです」
金野さんが見せてくれたのは、ところどころ泥が付いた、店の前に飾る“のれん”。大量の泥水が流れ込む中、なんとか車内に運び入れたといいます。

私はさらに話を聞くことにしました。

あの時 想定外だった“水かさが増すスピード”

「五城目町では去年も大雨が降り、近くの川が増水して店の玄関や車庫まで水が来たんです。だから、車庫の前や玄関に土のうを積むなど対策を取ったんですが、そんな想定を超える被害でした」
大雨への準備を進めていた金野さんの想定を超えたのは“水かさが増すスピードの速さ”でした。
「すしを配達しようと、夕方に歩いて外に出たとき、一面に水が来ているのを見て、『これは仕事ができる状態ではない』と思い店に戻ったら、もう店の中にも水が来ていました。とにかく逃げないといけないと思って、家族や板前さんを連れて、そばにあった食べ物をつかんで、隣にある家の2階に避難しました」
あわてて店の隣の住宅の2階に駆け込んだ金野さんたち。水の高さは結果的に1メートル以上に及んでいました。水が引かない中、小さなラジオと、ろうそくの小さな光を頼りに一夜を過ごしたといいます。
「水が2階に来ないかどうかが不安で、何度も1階の様子を見ていました。ほとんど眠れなかったですね」
一夜明け、金野さんが店内に入ると、店の中は大量の泥で埋め尽くされていました。
「田んぼの中を歩いてるような感じ。そういう状態でしたね。その辺にいろいろなものが落ちて、転がっているんですが、どこから手を付けたらいいかわからないくらいでした」

再建を目指す強い思い そのわけは

1か月近くかけてようやく泥をかき出し、畳なども取り替えたことなど、これまでの経緯をとつとつと話す金野さん。この間の収入は絶たれる一方で、人件費など少なくとも360万円が必要になっていました。

さらに、店や家の復旧にかかる費用がどこまでかかるのか見当がつかない状況です。店の再開を優先し、家の片づけはまだ十分に手をつけていないと打ち明けてくれました。
「大雨があったから(すしの)ネタが落ちたとかモノが悪くなったとか、そういうことを言われないように頑張っていきたい」
そう話し終えた金野さんは、タオルで目もとを拭っていました。

赤字を抱えても、住宅の復旧を後回しにしても、先の見えない状況に涙が出るほどつらくても、金野さんが店の再建を目指す理由とは。金野さんが抱く思いの一端に触れた私は、店の再建までの道のりを取材したいとお願いし、快諾してもらいました。

生まれ育った五城目町で

金野さんがすしの道に踏み出したのは、19歳の時。五城目町で生まれ育った金野さんは料理人を目指して、隣町の飲食店でアルバイトをしていたところ常連だったすし店の親方に誘われてすしの道へ進みました。
13年の修行を経て、32歳となった平成9年7月9日、地元の五城目町に「沢寿し」をオープンさせました。屋号の「沢」は、婿養子に入った金野さんの旧姓「沢田石」から一文字取りました。

「『沢田石』は五城目町に多い名前なんですよ」

地元の人にとって親しまれるすし店に。そんな願いを込めた店名を付けてから26年。

開店当時は町に4~5店舗あった五城目町のすし店は、いつの間にか金野さんの「沢寿し」ただ1軒となっていました。
「この町には親戚、同級生、友達、つきあいのある人がいっぱいいます。『おいしくいただきました』『ありがとうございました』ということばがいちばん力になるし、その声を聞きたくて頑張るんです」
五城目町で「沢寿し」の営業を再開させることは、地元の人、そしてみずからの日常を取り戻すため。そのためなら、どんな苦労も犠牲もいとわない。
金野さんのことばから“強い覚悟”を感じ取りました。

“復活”に向け支えとなった「力」とは

再建に取り組む金野さんの背中を支えたのも、多くの人たちの優しさと支援の「ことば」でした。

町内から水が引き始めると、多くの人が店の手伝いに訪れてくれました。ある人はシャベルで泥をかき出し、ある人はおにぎりや飲み物を差し入れてくれました。
金野光明さん
「周りの人の支えやことばがあったのでやれるという思いが強かったです。再開を悩む間もなく、大勢の人が手伝いに来てくれたので、頑張って片づけて、直して再開しようという思いがありました」
復旧の手伝いに行けないからと、メールや手紙で励ます人もいました。

支援する人の話を聞いているとき、金野さんの目は潤んでいるように見えました。
「ありがたいという気持ちで涙が出てくるときもある。落ち着いてきたら、そういうことを考えるようになるんですよ」

再建支える地元の職人

金野さんの店の再開を支える地元の人がいると聞き、会いに行くことにしました。

建具店を営む小玉順一さん(78)です。

「沢寿し」が五城目町にできた26年前、ふすまなどの建具を取り付けました。
小玉順一さん
「大雨から1週間後、『店のふすまなどを直してほしい。いま大工さんも店に来ているから来てほしい』と連絡がありました。たいがいの人が大雨で心が折れているなか、店を再開するという意気込みはすごく感心します」
生まれも育ちも五城目町の小玉さん。

町で唯一のすし店の明かりを消してはいけないと26年前と同様、店のふすまなどの建具を取り替えました。
「いい品物を作るためには、基本になる仕事が一番。そういう意味では建具の仕事も寿しの仕事も一緒です。金野さんには五城目のために頑張ってほしいので、私もできることをしたい」

強く再開を待ち望んだ地元の“常連さん”

もうひとり、店の再開を心待ちにしている人にも出会いました。

隣町の八郎潟町に住む土濃塚宏幸さんです。週に1~2回、「沢寿し」で晩酌をする生活を25年近く続けてきました。
土濃塚宏幸さん
「小食な自分に配慮してくれて、魚の好みも何も言わなくても出してくれる。今の時代、自分のように晩酌を目的にすし店に行く人は少ないだろうけど、そんな自分を受け入れてくれる。店主の人柄も良いし、ないと困るんです」
金野さんが選んだ刺身の盛り合わせに、最初はサワー、2杯目以降はウイスキーの水割りがお決まりのメニュー。

午後6時ごろから飲み始め、8時ごろに代行か妻の迎えで帰るまでの2時間が土濃塚さんにとって至福の時間であり、25年続けてきたルーティンでした。

大雨の被害があった7月15日も、店に行こうとしていた土濃塚さん。しかし、雨が強まり帰宅し、金野さんに安否を問い合わせたところ、短くメッセージが帰ってきました。
「店床上(浸水)です。家も。」

それからの2か月、土濃塚さんは再開をひたすら心待ちにしていました。

大変な状況にある金野さんの気を悪くしてはまずいと思い、連絡も控えました。

それでも9月に入り、いよいよ我慢できなくなった土濃塚さん。金野さんにSNSでメッセージを送りました。
「旨い刺身で晩酌したい。開店はいつ頃?」

返信にはこう書かれていました。

「今月中頃になります」

再開の日取りを聞き、いつも座るカウンターの席の予約を入れた土濃塚さん。
「我慢できなくなっちゃってね。やっぱりいちばんの店だから」

あの日から64日目 “復活”

大雨被害から2か月後の9月15日。

「沢寿し」が2か月ぶりに再開することになりました。
金野光明さん
「9月上旬には再開するつもりだったんだけど、ちょっと手間取っちゃってまさか、大雨からちょうど2か月で再開するなんて何の因果だろうね」
エプロン姿の金野さんはどこかうれしそうでした。

新しくなった店内には、胡蝶蘭などのたくさんの花。町内外の人たちが届けてくれたのです。
「本当に多くの人の応援や支えがあってここまで来たと思っています。やっと仕事ができる喜びと、来てくれる人に感謝しながら、一貫一貫思いを込めてすしを握ります」
花の送り主には、店のふすまなどの建具を取り替えた小玉さんの名前も。その小玉さんが店を訪れたのは、午後5時すぎ。
「店の再開おめでとう。きょうはすしを買って帰るね」
「お花ありがとうございます」

短いやり取りのあと、小玉さんはマグロやエビ、そして季節の白身魚が入った1人分のすしをうれしそうに持ち帰りました。

そして店を最初に訪れたのは、カウンター席に予約を入れていた土濃塚さんでした。
「いつものください」

金野さんは小さくうなずき、お決まりのサワーと、おすすめのマグロの刺身を、土濃塚さんに手渡しました。

「しこたま(=かなり)、長かったよ」

サワーを片手に、2か月ぶりの至福の時の喜びを語ってくれました。
その後も、店内は常連客がひっきりなしに訪れ、おすしや刺身、天ぷらなどの料理を楽しむ人たちの姿が。店の中はみんなが笑顔でした。

「“心待ちにする”ってことばはこういうことを言うんだろうな」

町に唯一あるすし店が地元の人たちにとって、どれだけ大切な居場所だったのか。温かな笑いに包まれた景色を見て、金野さんが再建を目指す理由を理解できた気がしました。

=取材後記=83日目 この日も店には多くのお客が

店の再開から、3週間あまりがたった10月上旬、「沢寿し」の復活へ向けた動きをまとめたリポートが放送されました。私はお礼も兼ねて再びお店を訪れました。

店に伺ったのはお昼の時間帯。この日もお店は客で埋まっていました。そしてカウンターには、新たに花が飾られていました。
「リポートの放送後に届いたんだよ」

金野さんが笑顔で教えてくれました。
「去年の同じ時期に比べても、明らかに忙しいですね。皆さん口々に『待ってた、よかった』と言ってくれます。お店がやれて、お客さんがきてくれることが本当に幸せだし、ありがたいことだと思います」
店はようやく再開にこぎつけました。しかし、課題がすべて解決したわけではありません。

再開のために急いで用意した釜やコンロの買い替えや、細かい泥が入った食器をすべて取り替えるとなるとさらに出費はかさみます。壁の隅に泥の跡が残っていたり、床の目地が汚れていたりするなど、本当の「元どおり」にはまだもう少し時間がかかるともいいます。

それでも金野さんは、すしを握ることの喜びが大きいと笑顔で話してくれました。
「これだけ忙しいと、悩む暇もないね。大変だけど、これからも頑張っていきます」
(10月10日 「おはよう日本」で放送)
秋田放送局 記者
志田陽一朗
令和4年入局
現在は警察・司法・サブカル担当
父の実家は福島県の食堂 久しぶりに食べに帰りたくなりました