ただ盤上だけを見ている

ただ盤上だけを見ている
それは、わずか7年の出来事だった。
14歳の少年が将棋界に現れ、並み居るトップ棋士から、すべてのタイトルを奪った。

棋士・藤井聡太(21)が見せた、前人未到“八冠”の偉業。

7年にわたって間近で見つめたその姿、そのことばを振り返ると、藤井だけが“語らなかったこと”があった。

“八冠”のその先に、藤井聡太は何を見つめるのか。

(科学文化部記者 堀川雄太郎・名古屋放送局記者 河合哲朗)

死闘を終え 2人は笑った

死闘を終え、盤を挟む2人の表情には、笑顔さえ浮かんでいた。

勝負を制し、前人未到の“八冠”をその手につかんだ、藤井聡太。
タイトルを奪われ、“無冠”となった、永瀬拓矢。
勝負は、残酷なまでに勝者と敗者を分けた。

しかし、対局を振り返る「感想戦」でことばを交わす2人からは、戦いの終わりを惜しむ空気すら感じられた。

“運命の一手” 突然の逆転劇に

10月11日、朝。

王座戦第4局の会場となっている京都市のホテルの対局室に、先に入室したのは永瀬王座。着座するとすぐに目を閉じた。
タイトル保持者にもかかわらず先に現れたのは、この勝負への思いの表れだろうか。

「おはようございます」

続いて藤井七冠が朝のあいさつとともに対局室に。
駒も並べ終わり、室内には静けさと共に緊張感が漂う。

「きょうが“その日”になるかもしれない」

午前9時、盤の上に先手・永瀬の右手が伸びる。決戦が幕を開けた。
ここまでの五番勝負、星の上では藤井七冠がリードするも、棋士からは「永瀬王座が勝ち越していてもおかしくなかった」という評価を多く耳にした。

この日も、積極的な指し回しを見せる永瀬に対し、藤井の指し手は重い。
長考を余儀なくされ、戦いのペースは明らかに永瀬が握っていた。
午後に入ると、永瀬が攻撃態勢を整え、リードを広げる。

そして午後8時前、藤井が先に持ち時間を使い切り「1分将棋」に入った。藤井は1手を60秒未満で指さなければいけない。

午後8時半すぎ、永瀬も「1分将棋」に入ったが、優勢は明らかだった。
122手目、藤井が相手の玉に向かう「5五銀」と打った。
これにより、AIの評価値が永瀬王座に圧倒的に有利な「99%」を示す。

「きょうは、“その日”ではなかった」

その場にいた記者の誰もがそう思った。そして123手目、それが起きた。
ここで永瀬が「4二金」と打てば、藤井の「玉」には「詰み」があった。ところが、1分の考慮時間の中で永瀬が指したのは「5三馬」。棋士やAIの予想にはなかった選択だった。

このわずか1手で、AIの評価は一気に「永瀬不利」に傾く。
驚異的な終盤力を誇る藤井にとって、勝負をひっくり返すには十分すぎるチャンスだった。

終局の瞬間に備え、混乱したまま対局室の前に控えていると、間もなく永瀬王座が投了した。
わずか15分間。あまりにも突然の逆転劇だった。
屋外にある通路を通って終局直後の対局室へ向かう。
肌寒かった外の空気から一変、室内は熱気のなごりが立ちこめていた。

戦いを終えたばかりの藤井の顔からは、勝負で見せた険しさはすでに消えていた。
代わりに浮かぶのは、戦い終えたばかりの相手との「感想戦」を心から楽しむ無邪気なまなざしだった。

ひたむきに将棋に向き合う藤井さんが、これまで見せ続けていた表情だ。

誰もが語り 藤井さんだけが語らなかったこと

私(記者・河合)は、2015年から2021年まで科学文化部で将棋取材を担当してきた。担当となってからの6年間は、将棋界で大きな話題が続いた。

人工知能=AIを搭載した将棋ソフトが現役の名人を破るという“事件”。
羽生善治さんによる「永世七冠」の快挙。

そして、藤井聡太さんという棋士の登場だ。

プロ入り直前のあどけなさの残る“少年時代”から、「竜王」獲得で「四冠」を果たし“現役最強”となるまでを、記者として間近に見る貴重な機会を持つことができた。

当時の取材メモをたどってみた。初めての取材は2015年10月18日。
「関西奨励会に所属する中学1年生の少年が最年少で『三段』に昇段した」というタイミングだった。
棋士の登竜門「奨励会」では、「三段」の会員がリーグを戦い、上位2名に入った者だけが「四段」に昇段してプロ入りを果たす。

「このまま四段に昇段すれば最年少棋士の誕生だ」と周囲からは期待の声も聞こえていた。
翌年の2016年9月3日、藤井少年は「三段リーグ」1期抜けを決め、史上最年少でプロ入り。期待を現実のものとした。

その日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で初めて藤井さんを目の前にした。
「あまりに落ち着いた14歳だな」と感じたことを覚えている。

四段昇段を決めた心境について、「自分の実力を出すことだけを考えました。過去に中学生で棋士になったのは偉大な方々ばかりなので、自分もそこに並べるように頑張りたいです」と話していた。

“期待の最年少プロ”として大きな注目が集まっていたが、謙虚に、そして慎重に、自分が語るべきことばを探している印象だった。今になって振り返ると、「八冠」というこの上ない偉業を達成したあとの記者会見に至るまで、この姿勢は一度も変わることがなかったことに気づく。
思えばずっとそうだった。デビュー戦から無敗の29連勝という大記録を打ち立てて以来、将棋ファンも、メディアも、時にライバルである棋士までもが、この先の藤井さんの活躍に大きな未来を描き、口々に期待を語った。

「きっと最年少でタイトルを取るだろう」
「竜王・名人の座だって遠くないはずだ」

ただ藤井さんだけが、そうした“大きなこと”を語らなかった。

当時の藤井さんは、“学業との両立”を理由に、1年に1回だけ各社30分ほどの単独取材の機会が与えられていた。

今、記者の手元に、プロ入り1年目を振り返る初めての単独インタビューの文字おこしがある。
この日、私が聞きたかったのは「タイトル獲得」という目標について。棋士にとってタイトルは、1つでも獲得すれば“トップ棋士の証し”となる。デビューから29連勝の大記録を達成した藤井さんがタイトルについてどう考えているのか、聞きたいと思ったのだ。
記者「早くも、“いつかはタイトルを”という期待の声も聞こえてきます」

藤井「プロ棋士になったからにはもちろん、その舞台に立ちたいという気持ちは強いですし、それに向けて努力していきたいと思っています」

記者「タイトル戦の舞台に立つ自分は、想像できるものですか?」

藤井「それはこれからの自分の成長にかかっているので、早くその舞台に立てるだけの実力をつけたいと思っています」
この日の取材の中で藤井さんは一貫して、私が質問した「タイトル」ということばを「その舞台」と言いかえた。

おそらく、プロ1年目の立場で「タイトル」を語ることに“畏れ多い”という思いがあったのだろうと思う。中学生とは思えない自制心に驚くとともに、そのような心中も想像しないまま力強いことばを引き出そうとした自分が恥ずかしくなった。

藤井さんが語ろうとしなかったのは、「八冠」もそうだった。
2021年、「三冠」達成時の会見で、今後の「八冠」の可能性を問われてこう話していた。
「まずは実力が今以上に必要になるので、現時点でそれを意識するのではなく、より実力を高めた上で、そういったところに近づくことが一つの理想なのかなと思います」
藤井さんは、ずっと語らなかった。
語らなかったが、周囲が想像しうるおよそすべてをその手で実現させてきた。

ただ盤上だけを見ている

では、藤井さんが“語ってきたこと”は何か。
記憶をたどる必要もないほどに、いつもぶれず、同じことを話していた。

「目の前の1局、1手に集中していきたい」
「今よりも実力をつけて、いい将棋を指したい」

2020年、初タイトルとなる「棋聖」を獲得したあとの記者会見では、こんな質問があった。
「AIが発達する今、人間の棋士の存在意義は?」
藤井さんは、ふだん通りの10秒ほどの“沈黙”のあとでこう語った。
今の時代においても、将棋界の盤上の物語は不変だと思います。その価値を自分自身、伝えられればと思っています」
おそらく、藤井さんはただひたすらに「盤上」だけを見つめているのだと思う。

積み上げてきた記録のあまりの“異次元さ”から、頂点に立つべくして立ったようにも感じてしまうが、そこに至るまでに費やしたものも“異次元”であるはずだ。

今回、「八冠」を許すことになった永瀬拓矢九段。藤井さんとはプライベートでも練習将棋を重ねる間柄であることから、2020年に藤井さんの番組を制作した際にロングインタビューを行わせてもらったことがあった。

永瀬さんが重ねて強調していたのは、藤井さんの“強さ”の背景にあるのは、持って生まれた才能だけではないということだった。
永瀬拓矢九段(当時二冠)
「藤井さんの強さの理由は“謙虚さ”だと思います。藤井さんほど強ければ、将棋について“人の話は聞かない”というやり方でもいいはずだと思います。でもそうじゃない。人から得るものによってまだまだ強くなれると感じ取り、成長を止めることなくずっと歩み続けている。勝負に負けても、それに反発するのではなく、受け入れて栄養にする。藤井さんの強さは、努力の結晶です」
今、記者は科学文化部の将棋担当を離れ、名古屋局で藤井さんの地元・愛知の盛り上がりを取材している。藤井さんを間近に取材する機会は減ったが、「八冠」達成後の記者会見を見て、ちょっとした感慨を抱いてしまった。

ああ、やっぱり藤井さんは、盤上だけを見ている。
藤井聡太八冠
「今回も苦しい将棋が多く、実力としてまだまだ足りないところが多いということは変わらず感じている。その地位に見合った実力をつけられるように、今後いっそう取り組んでいかなくてはいけない。まずは実力をつけて、おもしろい将棋を指したい」

棋士が語る“藤井時代”

私(堀川)が将棋担当となった2022年の時点では、メディアが藤井さんに単独で取材できる機会はほとんどなくなっていた。

それでも、異次元の強さの秘密に迫りたいと、多くの棋士を取材し、藤井さんについて、そして“藤井時代”とも言われる将棋界のこれからについて語ってもらった。

同時代に生きる棋士からすれば、藤井さんの存在はあまりにも大きすぎる“脅威”と言えるだろう。それでも、藤井さんを語るその表情からは、1人の棋士としての尊敬の念、そして藤井さんが追い求める将棋にわくわくしているような雰囲気が感じられた。
森下卓九段
「今の藤井さんは、誰が見てもナンバーワンであることは間違いなく、神がかっているところがあります。ブラックホールのようにタイトルを吸い寄せて、念力としか言いようがないほどに勝ちを引き寄せる。その力がやっぱりすごいと思います。勝つことに対する執念や執着心が違いすぎる」
深浦康市九段
「藤井さんはこれからまだ伸びてくるはずです。多くの棋士が研鑽を積み重ねて、タイトル戦の挑戦者争いは今後さらにしれつになっていくと思います。ベテラン陣では羽生九段、藤井さんにタイトルを奪われたトップ棋士も奮起するでしょうし、藤井さんと同世代かまたは下の世代、これからの少年少女たちが、藤井さんとの対局を夢みていくのだと思います」
27年前の1996年、羽生善治九段に「七冠」を許した、谷川浩司十七世名人。

今のトップ棋士たちには、藤井と渡り合い、高めあっていくことを期待しているという。
谷川浩司十七世名人
「勝負の世界は長く、30年、40年と現役で戦い続ければ、主役の立場になることもあれば、脇役にまわることもある。脇役にまわるのも大変なことで、それなりの実力・実績がないと脇役にさえなれません。今後は誰が藤井さんに最初に土をつけるかということが大きな注目になると思いますが、ほかのトップ棋士にも奮起してもらって、同じ景色を見て、その中でぶつかり合い、対話をするということが、藤井さんの好奇心をいっそう刺激することになると思います」
そして、「七冠」独占を果たした羽生九段。

どれだけ時代が変わっても、人と人が向き合って生まれる将棋の魅力は変わることがないと強調する。
羽生善治九段
「将棋の定跡も戦術も当時と今とではかなり変わったところはあります。ただ、お互いに一生懸命研究し、分析して、1局1局に臨んでいくという姿勢は変わっていないと思います。人間と人間との対局ですから、相手の雰囲気や迫力、考え方、そして駒がぶつかり合って1局の棋譜が生まれる。そこは普遍的で、100年前も今も変わらないところだと思っています」

まだ見ぬ盤上の物語を

将棋界の歴史を塗り替え続ける、藤井聡太さん。

「八冠」を達成してもなお、「まだのびしろはある」「実力を高めたい」と語っていた。その表情を見て、藤井さんはまた、新たな景色を見ようとしているのだと感じた。

これから先はすべての棋士が“打倒藤井”を目指して、その背中を追ってくるのだろう。
81マスの盤上に棋士たちが描く物語を、これからも追っていきたい。
科学文化部記者
堀川雄太郎
2014年入局 岡山県出身
山形局、鹿児島局を経て2022年から科学文化部
現在は将棋のほか出版やロケットも担当
名古屋放送局記者
河合哲朗
2010年入局
前橋局・千葉局を経て、2015年から科学文化部で将棋取材を担当
藤井八冠は2016年のプロ入り当時から取材を続けた
2021年から名古屋局、遊軍キャップ
趣味は地方のサウナとレコード屋巡り