ロータリーエンジン 復活支えたエンジニアの執念と発想の転換

ロータリーエンジン 復活支えたエンジニアの執念と発想の転換
自動車メーカー・マツダの技術の代名詞とも言われるロータリーエンジンが11年ぶりに復活します。

かつて、燃費の悪さから生産が終了したエンジンが、なぜ復活することになったのか?そこには発想の大きな転換とエンジニアの執念がありました。(広島放送局記者 児林大介)

“夢のエンジン”復活 電動化戦略の一歩

おにぎり型のローターが回転してエネルギーを生み出す「ロータリーエンジン」。
ピストンが動いてエネルギーを生み出すエンジンとは一線を画す、マツダ独自の技術です。初めて搭載された市販車は、1967年(昭和42年)に発売された「コスモスポーツ」でした。
エンジンの大きさはそれまでの3分の2ほどとコンパクトであるにもかかわらず、パワーは抜群で、ローターの回転運動をタイヤに直接伝えることができる画期的なエンジンでした。加速感や特徴のあるエンジンサウンドに魅了されたファンも多く、“夢のエンジン”とも言われました。

しかし、環境意識が高まる中、燃費で劣っていたことから、11年前にロータリーエンジンを搭載した車の生産を終了していました。

そのロータリーエンジンが、動力としてのエンジンではなく、発電機として復活しました。
搭載した車は9月から予約販売が始まりました。

発電機としてのロータリーエンジンは、プラグインハイブリッド車に搭載されます。ロータリーエンジンは、ガソリンを燃やしてローターを回転させ、発電に徹します。
これによって発生させた電気や、バッテリーから供給される電気を使い、車はすべてモーターで走行します。

50リットルの給油と外部からの充電によって、総走行距離はおよそ800キロと、一般のガソリン車に引けを取りません。
小島岳二CSO(最高戦略責任者)
「今は電動化に行く道すがらの時期だと考えていますので、将来にわたってカーボンニュートラルを達成していく上での多様な選択肢の1つに位置づけられます。ロータリーエンジンのプラグインハイブリッド車を活用しながら、将来性を見ていきたいと考えています」

技術者の執念の歴史とは

ことし、11年ぶりに復活したロータリーエンジン。誕生からこれまでの歴史は、まさにエンジニアたちの執念の歴史とも言えます。

1967年の発売以降、徐々にロータリーエンジンの知名度は高まり、ピーク時の1973年に生産したロータリーエンジンを搭載した車は23万9800台。生産した車の3台に1台はこのエンジンが搭載されていました。

その後、1991年にフランスで行われた24時間耐久レースで優勝したことで、マツダの名前は世界にとどろきました。
しかし、バブルが崩壊し、車の販売は落ち込みます。会社は巨額の赤字を抱え、経営危機に陥りました。

その後、フォードの傘下に入ったことで、より高い収益性を求めるフォードとの共同開発を優先せざるをえない状況になり、1996年、ロータリーエンジンの開発は、事実上凍結されます。

この時、ロータリーエンジン設計課の50人のうち、大半が異動を命じられました。残った人たちも、設計管理などを細々と担っていたといいます。

清水律治さんも異動を命じられた1人です。ロータリーエンジン一筋のエンジニアは、悔しさでいっぱいだったといいます。
エンジン設計部 清水律治さん
「異動させられるのはなんで俺なんだと、納得いかないものがありましたね。『マツダの宝が消え去る』ということを口にする同僚もいました」
それでも、技術者たちは諦めませんでした。

ロータリーエンジンの進化を終わらせてはいけないと、課に残ったメンバーでひそかに研究・開発を進めていました。

さらにそこに、課を去った10人が加わりました。清水さんも「手伝わせてくれ」と声をあげたといいます。

限られたメンバーで、業務外の時間を使って試作車を製作。課題だった燃費を20%改善した車をつくりあげ、経営陣に認めさせます。

こうして、消えたと思われたロータリーの火が、技術者の執念で再び燃え上がることになります。そして2003年、搭載した車の販売が再び始まったのです。
しかし2012年、搭載した車の生産を再び終了しました。時代が進み、環境意識が高まる中、開発が進む通常のエンジンに比べてロータリーエンジンは燃費で劣ったためです。

ところが、搭載した車の生産を終了したあとも、新たな使いみちの可能性を求めて研究は続けられました。世界で唯一の技術を未来にいかすことはできないかと、模索が続けられたのです。

復活のカギは発想の転換

「一定の高速回転をする場合は効率がいい」というエンジンの特性とコンパクトさを生かせないか。

その答えが、発電機として生まれ変わらせるという「発想の大きな転換」でした。

開発にあたっては、大型化と軽量化の両立を実現しました。発電の出力を高めるため、ローターの半径は、これまでの105ミリから120ミリに、1割ほど大きくしました。
さらに、ローターを挟み込む「サイドハウジング」という部材を、これまでの鋳鉄からアルミに変更。これによって、およそ15キロの軽量化を達成しました。

表面には、特殊な金属を溶かして吹きつけた薄い層を作り、強度を高めました。

先人の資料がヒントに

ただ、開発は必ずしも順調とは言えませんでした。

効率的な燃焼を実現するため、燃料の噴射方法も見直したところ、開発メンバーは課題に直面します。

メンバーを悩ませたのは、回転を続けると、ローターが接する内壁にしま模様の溝=「チャターマーク」が出てくることです。
溝が深くなると、ガス漏れが起き、燃費の悪化につながります。

この時に役立ったのが、昭和30年代から40年代の資料でした。部署の棚にひっそりと眠っていたものです。

初めてロータリーエンジンを開発した先人たちが取り組んだことや、途中経過、今後の対応策などが図表も駆使して克明に記されていました。

かつての技術者も「悪魔の爪痕」と呼ばれた内壁をえぐる傷に苦労していました。
参考にした資料の1つが、エンジンオイルに関するものでした。

ローターが回転する時、オイルがうまく内壁に広がれば、摩擦が減り、溝がなくなるのではないか。

先人の知恵もヒントに、オイルを注入する位置を10パターンほどパソコン上でシミュレーション。実際に複数の装置を作って実験を行ったといいます。

さらに、噴射するオイルの量も検討を重ね、解決に結び付けました。
先ほど登場した清水律治さん。発電機としての活用が構想として持ち上がった当初、開発部門の責任者を務め、定年を迎えた今も、嘱託社員として開発のサポート役を担っています。

その清水さん、こうした資料の存在や先人たちの思いが、ロータリーエンジン復活の大きな力になったと語ります。
エンジン設計部 清水律治さん
「ロータリーエンジンをやっている者からすると、ヒントになるものが少ない中、あの資料は宝だと思っています。先人たちの悩み抜いた末の事柄がそこに書かれいるということで、われわれもそれに負けないように開発を進めなければという大きなモチベーションにつながりました。そして、ここにしかない世界初の問題を、われわれが解決しているという達成感は非常に大きいものがあります」

“真の復活”はあるのか?

ロータリーエンジンの復活を待ち望むファンやユーザーの声は根強くあります。

復活したといえ、直接の動力ではないことから、「再び動力としてロータリーエンジンが使われる車を運転したい」という声は少なくありません。

こうした声があることはマツダも当然、認識しています。その可能性があるのか、尋ねてみました。
小島岳二CSO(最高戦略責任者)
「動力源としてロータリーエンジンが使われる車が出せる状況になったら、われわれの夢である、そういった車を出していければと考えています。それはたぶん、エンジニアも含めて、みなが考えていることだと思っています」
どうやら、可能性がないわけではなさそうです。

現時点ではっきり言えるのは、発電用ロータリーエンジンには、ガソリン以外の燃料に、次世代のエネルギーとして注目される水素などが活用できないか検討されていることです。

また、さらなる軽量化などにも取り組んでいるということです。

スモールプレイヤーに必要な“独自の価値”

取材を始めた当初、ロータリーエンジンの復活は話題作りではないかと思っていました。しかし、取材を進めていくと、それが誤りであることに気付かされました。

モーターやバッテリー、発電機などを搭載する必要があるプラグインハイブリッド車には、コンパクトで発電効率がいいロータリーエンジンは、相性がいいということがわかりました。
マツダは2030年にはガソリンだけで走る車の販売をゼロにし、すべての車をハイブリッド車や電気自動車などにする計画を掲げています。

世界的な大手自動車メーカーと比べると開発予算も限られる中、今後も独自の技術を使いながら、電動化を進めていくとしています。
小島岳二CSO(最高戦略責任者)
「われわれは、自動車業界の中では比較的規模が小さなスモールプレイヤーだという認識をしています。そんな企業の車を選んでもらうためには、独自の価値が必要になってくると考えています。今まで培ってきた商品や技術、ブランドといった資産をうまく活用しながら、次のステップに1段ずつ登っていくことが必要だと認識しています」
海外での電気自動車への急速なシフト、そして、電動化が一段と加速する中、世界シェアでわずか2%の自動車メーカーが生き残るために、どう存在感を示していくのか、これからも注目です。
広島放送局記者
児林大介
2006年入局
鳥取→和歌山→東京→盛岡→広島 5つの放送局で勤務。
ニュースウオッチ9リポーターとして全国のさまざまな現場を取材したほか、各地の夕方6時台ニュースなどでキャスターも経験。
現在、記者として経済を担当