“何度も変革に向き合ってきた”元自動車エンジニアが語る

“何度も変革に向き合ってきた”元自動車エンジニアが語る
“100年に1度の変革期”と呼ばれる自動車業界。

日産自動車の創業の地でもあり、88年の歴史を持つ「横浜工場」も、その姿を大きく変えようとしています。

今回、32年にわたってエンジン開発に打ち込んできた元エンジニアを取材。

語ったのは100年に1度ではなく、これまで何度も変革に向き合ってきた歴史でした。

(経済部記者 榎嶋愛理)

歴史ある横浜工場でも変革期

1935年、日本初の自動車の一貫生産工場として稼働を始めた横浜工場。

ダットサンに、フェアレディZ、スカイライン、それにGT-R。

歴史を飾った数々のエンジンを生産してきました。

ことし7月には、生産したエンジンの累計が4000万に達しました。
現在は、EV=電気自動車やハイブリッド車向けのモーターの生産も手がけ、
昨年度の生産台数はモーターが全体の4割を占めるようになりました。
横浜工場の一角にあるエンジンミュージアムを訪ねました。

工場の一角には、歴代のエンジンがずらりと並んでいます。

出迎えてくれたのは学芸員の皆川俊一さん(63)。

1986年に日産に入社し、一貫してエンジンの開発に携わってきた生粋の元エンジニアです。
皆川俊一さん
「エンジンが大好きでエンジンを作りたいと入社しました。はじめはエンジン実験部に所属して、仕事の面白さにのめり込んでいきました。入社から4年かけて、北米向けのインフィニティのフラッグシップ車「Q45」の開発に携わりました。エンジンの異音の問題などに直面しましたが、なんとか解決して発売にたどりついた思い出があります。当時の上司には、できない理由を探すのではなく、できるようにするための方法を探してこいとよく言われたことを覚えています。どんなに難しい課題でもクリアするためにエンジニアたちは必死に開発を続けてきました」

繰り返されてきた変革

どんなに難しい課題もクリアしようとエンジン開発に取り組んできたという皆川さん。

その話からは、何度も変革に向き合ってきたエンジンの歴史が見えてきました。
1970年代、世界中のメーカーが直面していたのは排気ガスの規制です。

アメリカでは排ガス規制=マスキー法が導入され、従来の10分の1にまで排ガスのレベルを下げるよう当局は要求しました。

どのメーカーも対応するのは不可能だと受け止めるなか、規制をクリアした日本メーカーと言えばホンダが開発した「CVCCエンジン」が知られています。

日産も1960年代から進めてきた電子制御技術と新たに開発した触媒の技術などを組み合わせて、規制をクリアしました。

1980年代

日本メーカーが飛躍する1つのきっかけとなったアメリカの排ガス規制。

1980年代に入ると、規制だけでなく、燃費の競争から“走る楽しさ”の追求まで、日本メーカーがエンジン開発を加速。

こうしたなか、皆川さんのエンジニアとしての半生が始まります。

当時、会社では“901活動”と呼ばれる1990年に世界一の車を作るという社内目標が掲げられました。
皆川さんら若手のエンジニアが活躍し、国内初の280馬力のエンジンを搭載したフェアレディZや、スカイラインGT-RのR32型などの車が誕生します。
皆川俊一さん
「当時は海外メーカーとの性能の差っていうのが明らかでした。そうした中で若手のエンジニアが中心になって徐々に機運が高まり、開発を加速させることになりました。全社的に熱気のある雰囲気で、社の中でも競い合うというか、切磋琢磨していましたね。隣の開発チームを横目でみながら、問題があれば早く解決してやるという思いがありました。ここで飛躍的に技術力も伸びたように思います」

1990年代半ば~2000年代

90年代後半に入ると、日本メーカー各社が開発に力を入れたのが燃費やエコ技術でした。

1997年にはトヨタ自動車が世界初の量産ハイブリッド車として、初代のプリウスを発売します。

2000年には日産も「ティーノ」という車種をベースに100台限定でハイブリッド車を発売しました。

2000年代後半~

さらに、2010年に量産型の電気自動車「リーフ」を世界で初めてグローバルで発売。

皆川さんは当時の決断に驚いたといいます。
皆川俊一さん
「当時は充電スポットなんてほとんどない時代。航続距離を伸ばすためにはバッテリーを多く積まないといけないですが、そもそもバッテリーのコストも高い。会社としてあの時期に凄い決断をしたなと思っていました。今ではEVの販売を始めて10年以上、年月がたつなかで、蓄えられた技術が強みとしてあると思いますし、EVにはこれまでエンジンで培ってきた技術が蓄積されているように思います」
そして2000年代後半になると、低燃費と力強さを兼ね備えた技術の開発へ。

エンジンは長年の技術の結晶を受け継いだ“成熟期”に入ります。

エンジニアたちは、2016年には世界で初めて圧縮比を可変できるターボチャージャーつきのエンジンの量産化を実現。

低燃費で高出力な一方、開発にあたっては高強度の部品や加工技術が求められたといいます。

極めて難しい開発で、量産化にたどり着くまでに要した時間はおよそ20年。

発電機用のエンジンとしてSUVのエクストレイルに搭載されました。

30年以上エンジニアとして働いてきた皆川さん。

上司のある言葉が強く印象に残っているといいます。
皆川俊一さん
「開発のトップは、『今までできなかったことや諦めていたことをできるようにするのがエンジニアの仕事だ。何も新しいものを生み出さなかったら意味がない』と言っていました。私もエンジニアとして長く働いてきましたが、不可能と言われていることでも1つ1つの阻害要因をどうやれば排除できるのか、考えていけば不可能なことはないと思い開発にあたっていました。やはり、技術に対する自負とともに、こうした言葉がエンジニアたちの心にはあると思います」
最後に、エンジンを作りたいと入社した皆川さんたちエンジニアにとって、エンジンが発電機として使用されること、電気自動車の開発が加速してくことをどのように思っているのか率直に聞いてみました。
皆川俊一さん
「エンジニアって技術の力でどれだけいい商品を提供できるのかっていうのを日々考えていると思うんです。技術の力で今までできなかったもの、諦めていたものをクリアしていきたい。その時代、その時代に色んな課題に直面していて、それを解決してきました。その解決する対象が変わるだけで、エンジニアとしての仕事は変わらないと思います」

次の変革の時代へ

エンジンミュージアムの学芸員となった皆川さん。

現在は、見学者に会社の歴史などを説明する仕事をしています。

その見つめる先にある横浜工場では、エンジニアたちが次の変革の時代に向けた開発を続けています。

1000点もの部品を使うエンジン。

時代とともにさまざまな課題をクリアしながら、大きな技術革新を実現してきた時代を受け継いだエンジニアたちです。
いま横浜工場では、EVなどで欠かせない次世代の蓄電池「全固体電池」の技術開発を行うパイロットラインの整備を2024年に計画しています。

取材を終えて

いまの“100年に1度の変革期”では、中国の台頭だけでなく、新興メーカーや異業種の参入も相次ぎ、日産自身も20年にわたり続いてきたフランスの自動車メーカー・ルノーとの資本関係を見直す歴史的な節目を迎えました。

変革に挑む先人たちのDNAが今後どのように受け継がれていくのか注目したいと思います。
経済部記者
榎嶋 愛理
2017年入局
広島局を経て現所属