リアル「下町ロケット」 心臓病の子どもを救え!

リアル「下町ロケット」 心臓病の子どもを救え!
作家・池井戸潤さんのベストセラー小説「下町ロケット」。
この続編では、地方の繊維メーカーが子どもの心臓手術に使う医療機器の開発に挑戦する様子が描かれています。
この物語、モデルとなったプロジェクトが存在するのをご存じでしょうか。
およそ10年にわたった開発までの道のりは、山あり谷ありと小説さながら。
困難に挑戦する企業や医師を支えたのは、病気の子どもたちを助けたいという強い思いでした。

(大阪放送局 記者 井上紗綾/福井放送局 アナウンサー 大谷舞風)

ベテラン外科医も避けられない“再手術”

小説では「ガウディ計画」と呼ばれたこのプロジェクト。

開発の発端となった外科医を訪ねました。
大阪医科薬科大学の教授、根本慎太郎さんです。

専門は小児の心臓血管外科で、30年近くにわたり第一線で執刀しています。

根本さんを長年悩ませていたのが、国内では100人に1人とされる「先天性心疾患」です。

これは、赤ちゃんのときに心臓や周りの血管に穴などが見つかる病気で、多くは手術が必要になります。

問題だったのは、穴などを塞ぐために手術で使われる医療用の「パッチ」でした。

子どもたちの多くは、成長すると、パッチを取り替えるために再び手術を受けなければならないのです。
取材に訪れた日、1歳の男の子の手術が行われていました。

男の子の心臓には穴が2か所あり、この穴を塞ぐための手術です。

心臓を開けて中にある穴を塞ぐには、いったん心臓の動きを止める必要があるため、手術では、心臓の代わりとなる「人工心肺装置」が使われます。

男の子の心臓を止める瞬間、手術室に緊張が走りました。

心臓の鼓動を示すモニターの音が消え、取材に入っていた私たちには手術の器具を操作する音が聞こえるだけになりました。

心臓が完全に止まると、血液が装置を通して循環し始めました。

手術はおよそ4時間に及びます。子どもの小さな体には負担の大きい手術です。
再手術の理由は、使われるパッチの素材にありました。

現在使われているパッチは、牛の心臓の膜や合成樹脂でできていて伸びないのです。

そのため、子どもが成長するとサイズが合わなくなって、貼り付けた部分の血流が滞り、心不全を起こすおそれもあるといいます。

加えて、パッチが劣化するという課題もありました。

どういうことか。

パッチを異物と認識した免疫細胞が攻撃し、素材が劣化したり、カルシウムなどが付着して石のように固くなったりするのです。
根本さんは、できるだけ再手術を避けられるよう工夫をしています。

この日の手術では、男の子の心臓を覆う心膜の一部を切り取ってパッチとして使いました。

ただ、心膜を切り取った部分を塞ぐために、結局は合成樹脂を使わざるをえません。
外科医として技術を高め、工夫をしても避けられない再手術。

子どもたちの中には、早ければ2年ほどで再び手術となるケースもあるといいます。
根本教授
「手術は心臓を停止して行うので負担が大きく、子どもたちのことを考えると、再手術はなんとか避けたい。原因がパッチの素材にあるなら、サイエンスの力でなんとかすべきなんじゃないかと、若い頃からずっと思っていました」
しかし、10年、20年と月日がたっても、パッチが改良されることはありませんでした。

これ以上は待てないと、2014年、根本さんは子どもの成長に合わせて伸びる新しいパッチを開発するため、協力してくれる企業を探し始めました。

社員6人だけの”極秘プロジェクト”

10社以上に断られる中で、唯一、話を聞きたいと返事をくれた会社が、福井県にありました。従業員90人の、創業80年になる老舗の繊維メーカーです。

編み物の技術を使って伸縮性の高いニットの生地を作り、スポーツウエアやインナーなどを生産しています。

会社は、海外製の安価な生地が台頭し、国内の繊維産業の先行きに不安を感じる中で、新たな分野に挑戦する必要に迫られていました。

新たなパッチの素材に、編み物の技術が応用できるかもしれない。そう考え、協力を申し出たといいます。
高木社長
「初めての挑戦じゃないですか。実現できるか心配だし、本当に大丈夫か不安はありました。でも、会社としての付加価値を高めて生き残るには、難しいことにもトライしなければならないと思っていて、ちょうどそれがメディカルの仕事だったということです。衣料から医療へ。20年後、30年後にも会社が伸びるような仕事に挑戦したいと、経営者として決断しました」
開発チームがまず行ったのは、ほこりや細菌を取り除く「クリーンルーム」をつくることでした。

医療機器を扱うために欠かせないものですが、繊維メーカーであるこの会社には当然ありませんでした。

かかった費用は7200万円。会社が設備投資に使う額のおよそ2年分にあたるということです。
チームが目指したのは、体の成長とともに伸びるパッチです。

さらに、時間が経過しても劣化しないよう、心臓の組織に一体化する製品を作ろうと考えました。

困難な課題を克服するため、糸や生地についての知識や技術が豊富な6人を、社内から選抜してチームに加えました。

外部に情報が漏れないよう、その他の従業員に一切知らせなかったといいます。

まさに、6人だけの極秘プロジェクトでした。

“伸び縮み”と“生地の強度” どうする

環境と態勢を整え、ようやく始まった開発。

最も大きな壁となったのは、伸び縮みする生地の強度をどう保つかということでした。
試作品の第1号です。心臓に貼り付けることを想定して伸ばしてみると、強度が足りず、ほつれて糸の状態に戻ってしまいました。

伸びる生地は強度が足りない。一方で、強度を上げれば生地が伸びない。

何度も失敗を繰り返しながら、糸の種類や編み方などを少しづつ変化させ、作った試作品は20個以上に上ります。

およそ10年かけて、ようやく伸縮性と強度を両立する方法を確立しました。
こうして完成したパッチは、子どもの成長とともに伸びるよう、2種類の糸を編み込んでシート化しています。

シート化には、大手化学メーカー、帝人の協力が不可欠でした。

このメーカーが持つ特殊な加工技術を使うことで、血液が漏れないような強度を備えつつ、心臓や血管の動きに合わせてしなやかに曲がるシートが実現しました。

糸とシートの一部には体の中で吸収される素材が使われていて、時間の経過とともに心臓の組織と一体化するため、劣化する心配も少ないといいます。
開発チーム 山田英明 生産技術部長
「新しいパッチのアイデアはすぐに浮かんだので、簡単にできるんじゃないかと思っていましたが、考えが甘かったです。試作品づくりに徹夜で没頭したこともありました。最終的にできたのは努力の賜物だったという感じがします。人の体に入るものなので、一番に安心・安全を心がけました。人の命を助けられる製品には夢がありますね」

始まった臨床試験 効果は

新しいパッチの効果と安全性を確かめる臨床試験は2019年に始まり、1例目の手術は岡山大学病院で行われました。

この手術を受けたのは、当時4か月だった稲田優陽(ひなた)くんです。
優陽くんは、「心室中隔欠損」という心臓に穴がある病気でした。

4歳になった優陽くんの心臓には、今も手術で入れたパッチが残っています。

体重は13キロと手術当時の4倍以上になりましたが、今のところ再手術の必要はないということです。

両親は当時、臨床試験への参加を一度は断ろうかと考えたといいます。
優陽くんの父親
「はじめは、従来の製品のほうがデータがあるのでいいんじゃないかと話していたんです。でもこの子が大きくなって負担のかかる手術をもう一度しなければならないのなら、新しい治療をしてみようと決めました。この子が兄弟と笑って走り回ったりしているのを見て、あの時の選択でよかったんだなと感じています」
臨床試験では30人あまりがこのパッチを使用し、これまでのところ、パッチが原因で再手術となったケースはないということです。
岡山大学 心臓血管外科 笠原真悟教授
「症例数はまだ限られますが、再手術の発生は少ないです。僕ら小児の心臓血管外科医にとっては、本当に光があるというか、将来性のある素材だと思います」
根本教授
「子どもたちには、心臓の手術を受けたからハンディキャップがあるとか、あるいは再手術があるから私はこれができない、あれができないとか思わせたくない。『好きなことやれよ、大丈夫だから』と言えるようになるとうれしいです。子どもたちやその親の人生が少しでも健やかになってくれるのなら、こんなによいことはない」

池井戸潤さん“未来を開き 光を当ててくれると確信”

新たなパッチは、ことし7月、厚生労働省から製造販売承認を取得しました。

今後、公的な医療保険の適用について国の審査が行われる見通しで、会社では今年度中の販売開始を目指しているということです。
1人の外科医の思いに、企業が共感して実現した、リアル「下町ロケット」のプロジェクト。

池井戸潤さんがコメントを寄せてくれました。
「この心臓修復パッチは、心臓病に苦しむ子供たちを救おうとする人たちの、真剣な努力と情熱の結晶です。このパッチが、病気で苦しむ子供たちの未来を開き、光を当ててくれることを確信しています」
大阪放送局 記者
井上 紗綾
和歌山局を経て2019年より大阪局で医療取材を担当。
1歳の子を育てています。同じ年の子が手術を頑張っている現場は胸に迫るものがありました。

福井放送局 アナウンサー
大谷 舞風
2020年入局。福井が初任地。今回初めて記者と共同で取材しました。
4年前から福井の繊維産業を取材していて、好きな生地はベルベットです。
ニットのように、強度と伸びしろがあります。