関東大震災 被害を拡大させた“火の粉”の恐怖

関東大震災 被害を拡大させた“火の粉”の恐怖
今から100年前、1923年9月1日に発生した関東大震災。東京では震災後の火災によって、多くの人が命を落とした。火災による死者は、東京市(※注1)の死者・行方不明者6万8660人のうち6万5902人、じつに96%に及ぶ。

当時の映像を8K高精細カラー化すると、火の手が迫っているにもかかわらず、逃げ出す気配のない人々の姿が浮かび上がった。

なぜ、人々は逃げ出さなかったのか。なぜ、これほど多くの人が、火災に巻き込まれて命を落としたのか。(NHKスペシャル「映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間」取材班)

(※注1) 現在の千代田区、中央区、港区、新宿区(一部)、文京区、台東区、墨田区(一部)、江東区(一部)に相当する場所

3日にわたる火災で焼け野原となった東京

関東大震災の地震発生時刻は午前11時58分。相模湾沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震だった。東京大学の地震計はおよそ10分間、激しい揺れが続いたことを記録している。
その後、東京市の各地でほぼ同時に火災が発生。9月1日は土曜日かつ、火を使う昼食時だったことが災いし、出火地点は134か所(※注2)に上った。竃(かまど)や七輪など炊事用の火気が出火原因の半数という調査もある。

しかし、すべての出火点のうち、初期消火をすることができたのは57か所にとどまる。残りの77か所の火災は、その後どうなったのか。

震災後、震災予防調査会が火災の発生場所やどの方向へ広がっていったのかなどを詳細に記録した「火災動態地図」から分析してみる。
最初は出火点周辺で燃えていた火災がみるみるうちに拡大、46時間で東京市の4割を焼失させた。

地図を拡大し、より詳しく火災の広がり方をみてみると不思議な現象が見つかった。
地震発生から2時間後の火災の様子。赤い小さな丸印で示しているのが最初の出火点だ。

そこからじわじわと火災が拡大しているが、丸印から離れた地点でも新たな火災が起きていることがわかる。

出火点から離れた場所で、時間を置いて発生した火災。一体なにが起きていたのか?

「大量の火の粉」と「強風」

当時の火災の映像を高精細カラー化し、専門家に“謎の火災”の原因を尋ねた。

都市の防火が専門の水上点睛 主任研究員(建築研究所)が指摘したのは、空中に舞う大小さまざまな火の粉だった。
関東大震災が発生した9月1日午後、東京は台風の影響で10m/s前後の風が吹いていた。

火災によって燃えた木造家屋、そこからまき散らされる大量の火の粉が強風に乗って各地へ運ばれ、家屋の屋根に着火し、新たな火災を引き起こした――「飛び火火災」と言われる現象だ。
水上点睛 主任研究員
「普通の火災で建物から延焼するときは、隣の建物、近い建物の順番で燃え移っていくことが多いです。そのため、火災現場から離れたところにいた人は、この段階では命の危険を感じていなかったでしょう。強風時に発生する“飛び火”は、出火した建物から生じた無数の火の粉が、広範囲に飛び散る現象です。小さな火の粉であっても、状況によっては遠く離れた建物に火災を延焼させてしまうことがあり、関東大震災のときには、火の粉による広範囲な延焼が多く起きたと言われています」
しかし、飛散する火の粉は数ミリから数センチほどの大きさ。果たして、小さな火の粉がどのようにして家を燃やすほどの火災になってしまうのか。

そのメカニズムを検証してみた。

当時の屋根を再現して火災実験

まず、当時の瓦屋根を再現した。杉皮でできた屋根板に、接着剤の役割を果たす粘土質の土を筋状に塗っていく。その上に瓦を隙間なく重ねる。

「筋葺(すじぶ)き」と呼ばれる工法で、現在は行われていない。
当時、東京では地方から流入する人が急増し、その人たちを受け入れるため、多くの屋根でこうした安価で手っとり早い工法が用いられた。

そして、地震後の状態を再現するために、関東大震災のときと同程度の揺れを加えた。
すると、屋根のおよそ3分の1が崩落し、下地の屋根板がむき出しになった。
この状態で火の粉が飛んでくるとどうなるのか。

まず、3メートル離れた場所に木造家屋に見立てた木組みを建て、燃やした。
直径4メートルの巨大なファンで震災当日に近い風を起こしたところ、大小さまざまな火の粉が、瓦の落ちた屋根に向かって舞い始めた。
土や瓦が乗っている部分は火の粉がはじかれる一方、むき出しになった屋根板の上では、数か所で火の粉がとどまり、じりじりと下地の杉皮を燃やし始めた。

最初は焦げる程度だった屋根板も、次第に炎を上げて燃えるようになり、厚さ1cm弱の杉皮を貫通、家屋内部にも火の粉が侵入した。
屋根裏では温度がぐんぐん上昇し、一定の温度に達した瞬間、火がついていなかった天井一面に炎が一気に広がった。「フラッシュオーバー」と呼ばれる現象だ。

その後、あっという間に家屋は炎につつまれた。数センチの火の粉が屋根板に落ちてから燃え上がるまで、わずか10分ほどだった。
関東大震災の当時の映像を見てみると、実験と同じように、瓦が落ちてしまった部分の屋根板が激しく燃えていた。
都市の防火を専門とする水上さんは、関東大震災での飛び火火災は、当時の人々にとって盲点だったのではないかと言う。
水上点睛 主任研究員
「東京では大きな火災が江戸時代から続いたので、平時の火災に対しての備えは他の地域に先駆けて瓦屋根、要するに燃えないもので屋根を葺くということが進んでいました。ただ一方で、関東大震災のときは地震によって燃えない瓦が落ちてしまい、あらわになった杉皮など燃えやすいものに着火するという、地震時特有の問題が生じていたのかなと思います」
普段は火災に強い瓦屋根だが、地震によって瓦が落ちてしまうと、その防火性は意味をなさなくなってしまう。このような飛び火火災は、関東大震災で240か所(※注3)にのぼったという記録が残っている。

出火点から徐々に広がる火災だけではなく、飛び火によって想定外のところで新たな火災が発生する。それが繰り返されるうちに、人々の想像を超える速さで火が燃え広がり、気づいたときには炎に包囲されてしまう。

関東大震災がもたらした教訓、現代に残るリスク

この関東大震災の教訓を生かすため、震災翌年の大正13年、市街地建築物法改正施工規則において、「瓦葺き屋根にありては、引掛け桟瓦の類を使用し、又は野地にて緊結すべし」と法律が改正された。

瓦を土で接着するのではなく、釘などで固定する工法が推奨されるようになった。地震の揺れで落ちる瓦を少なくして、屋根を火災から守ろうとしたのだ。

しかし、現代においても、飛び火火災の危険性がゼロになったわけではない。7年前、新潟県糸魚川市では飛び火によって延焼が拡大し、147棟の建物が全半焼するなどした。
出火元はラーメン店で、店主が気づいたときには、炎は消し止められないほどの大きさになっており、風に乗った火の粉は、15か所で飛び火火災を引き起こした。

じつはこの日も、関東大震災が発生した日と同じように、10m/sの強い風が吹いていた。写真からも煙が強風で流されている様子がうかがえる。たった1棟の火災が、147棟に燃え広がってしまったのだ。

しかし、糸魚川では地震も起こっていないし、瓦も落ちていない。屋根板は瓦に覆われたままだ。では、どうして飛び火火災が起こったのか。

じつは、大規模火災が発生した地域には、昭和初期に建てられた木造建築が密集していた。当時用いられた瓦は寸法が不揃いだったり、ねじれがあったりすることで、瓦と瓦の間に指1本ほどの隙間ができており、そこから火の粉が侵入したのだ。
国土技術政策総合研究所が、昭和初期の建物の瓦屋根を再現して飛び火実験を行った。すると、瓦同士のわずかな隙間から火の粉が入り込み、屋内に燃え抜ける様子が確認できた。

一方、寸法の狂いが少ない現代の瓦屋根で同様の実験を行ったところ、屋内への燃え抜けは確認されなかった。
糸魚川の他にも、全国には古い瓦が用いられた木造家屋が密集している地域が多々ある。東京でも山手線の外周部を中心に数多く残っている。地震によって瓦が落ちなくても、飛び火によって大規模な火災が起こる危険性は十分あるのだ。

飛び火火災を起こさないために、我々ができることは何か。大震災が起こったときには、建物の倒壊や道路の遮断などで、常時の消防力が発揮できないことも考えられる。

そんなとき、我々がすべきことは「火を出さない」という出火防止だ。さらに「もし火事になっても、火が小さいときに消す」という早期覚知・初期消火が重要になってくる。

具体的な対策として、総務省消防庁は下記を挙げている。
出火防止の対策
・住まいの耐震性を確保
・感震ブレーカー(一定以上の揺れを感知すると、電気が自動的に止まる機器)の設置
・家具類の転倒防止対策
・安全装置などを備えた火気器具の使用
早期覚知・初期消火の対策
・住宅用火災警報器の設置
・住宅用消火器等を設置し、使用方法を確認しておく
どれも事前に備えることのできるものばかり。いつの日に来るか分からない巨大地震に備えて、一人一人が今日から備えをしておくことが、大規模火災を封じる一歩につながる。
※注2 ※注3 内閣府中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 第一編第5章より
プロジェクトセンター ディレクター
三木健太郎
2010年入局
大阪局、ガッテン班を経て現所属。新型コロナやプラスチック汚染、南海トラフ地震などのNHKスペシャルを制作
第2制作センター ディレクター
足立絵梨
2019年入局
京都局を経て、ことしから科学番組を担当
学生時代に建築の防火に関する研究を行う