関東大震災から100年「防災の日」に各地で慰霊や訓練

100年前の1923年9月1日に発生した関東大震災は、死者・行方不明者は10万5000人余りにのぼる未曽有の被害となりました。

「防災の日」の1日、各地で慰霊の式典や防災訓練が行われました。

東京 丸の内 都心での大地震を想定し訓練

多くの企業や商業施設が集まる東京・丸の内で大地震を想定した大規模な訓練が行われました。

訓練は、関東大震災の発生から100年になるのにあわせ、東京駅近くの行幸通り周辺で大手不動産会社が警視庁や東京消防庁などと合同で行ったもので、およそ1000人が参加しました。

このうち、オフィスビルで火災が起きたという想定の訓練では、消防隊員が高さ30メートルのはしご車を使って取り残された人を救助する一連の手順を確認していました。

このほか、警視庁の警察官が地震による多重事故で車内に残された人を救助したり、ドローンを使って上空から道路の被害状況を確認したりしていました。

首都直下地震想定し訓練 2600人が参加

相模原市では、首都直下地震を想定した大規模な防災訓練が行われました。

訓練は東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県と、5つの政令指定都市が毎年合同で行っていてことしは相模原市を震源とする震度6強の首都直下地震が発生し建物の倒壊や火災などの被害が広い範囲で出たという想定で消防や警察およそ2600人が参加しました。

このうち、高層ビルでの火災を想定した訓練では市の消防局が出動して消火活動を行い、民間企業のコンクリートミキサー車で放水用の水を補給する手順を確認していました。

また、住宅の倒壊を想定した訓練では、神奈川県警や自衛隊が家の屋根や壁を壊して、中に取り残されていた人を素早く救出していました。

このほか自衛隊や海上保安庁のヘリコプターでけが人や救援物資を搬送する訓練が行われるなど、関係機関が連携して行う対応も確認していました。

給食に非常食のごはん「アルファ化米」

埼玉県羽生市で中学生が災害用に備蓄している非常食のごはんを給食で食べました。

市立東中学校の3年生のクラスではことし12月に賞味期限になる、「アルファ化米」のわかめごはんが1袋ずつ配られ、生徒たちは午前中の休み時間に水道水を入れて準備しました。

わかめごはんはおよそ1時間で出来上がり、生徒たちは給食のおかずといっしょに味わっていました。

3年生の男子生徒は「どんな味かと思ったけれどおいしかったです。関東大震災は100年前なのであまり実感がわきませんが災害はいつ起こるかわからないので日頃からしっかり備えたい」と話していました。

当時6歳の女性 “『地割れが起きて危ない』と声をかけられた”

当時、栃木県那珂川町で地震の被害にあった106歳の女性がNHKの取材に応じ、「みんなが震災を忘れないよう、定期的に昔の話をして地震に備えてほしい」と訴えました。

現在106歳の箱石シツイさんが6歳の時に起きた関東大震災では宇都宮市で当時の震度で5の揺れを観測したほか住んでいた那珂川町でも強い揺れが起きたとみられています。

この時の体験について箱石さんは「家の中でひとりで遊んでいた時に揺れが起きました。近くにいた大人から『地割れが起きて危ない』と声をかけられたのを覚えています」と振り返りました。

揺れは長く続いたと記憶していて、土の中に根を張り巡らせて地割れが起きにくい竹やぶに避難する際にも「移動しようとすると、地面が上下に揺れている感覚があり、庭や畑にひび割れが出来ている光景を覚えている」と話しています。

その上で、箱石さんは「関東大震災以降、大きな地震があると、建物を出て太い根が張っている木の下に逃げるようになった。みんなが震災を忘れないように定期的に昔の話をして、地震に備えられればと思います」と過去の教訓から学び続けてほしいと訴えています。

震災で生まれた「震生湖」 小学生が犠牲者悼む

神奈川県秦野市では大量の土砂が崩れて「震生湖」と呼ばれる湖もできました。

こうした被害を語り継ごうと、地元の小学生が現地を訪れ当時の状況を学びました。関東大震災で秦野市では揺れによって斜面が崩壊して川が塞がれ湖が生まれ「震生湖」と名付けられました。

下校中だった子ども2人が行方不明になりました。きょうは市内の本町小学校の児童29人が震生湖を訪れ、地域の被害に詳しい小泉勉さんから被害の状況や、当時の様子について学びました。

幅およそ250メートルにわたって土砂が崩れたことを学んだ子どもたちは近くの供養塔の前で黙とうし、犠牲者を悼みました。

小学3年生の男の子は「きょう初めて震生湖に来ましたが、びっくりしました。これから地震が起きたときに犠牲者が出ないように行動していきたいです」と話していました。

小泉勉さんは「この100年間で何度も大きな地震が起きています。震生湖での学習を通じて命を守るすべを考え、今後の地震に備えて欲しいです」と話していました。

東京都慰霊堂 秋篠宮ご夫妻も参列され犠牲者を慰霊

東京・墨田区の東京都慰霊堂には、100年前の1923年9月1日に発生した関東大震災で大規模な火災や住宅の倒壊などによって犠牲になった10万5000人あまりのうちおよそ5万8000人の遺骨が納められています。

毎年9月1日に、太平洋戦争の東京大空襲の犠牲者とあわせて法要が営まれていて、1日午前、秋篠宮ご夫妻も参列されてことしの法要が行われました。

遺族など130人が参列する中、ご夫妻は、祭壇に焼香したあと、静かに手を合わせられました。

法要のあと、関東大震災で親族を亡くした五関光昭さんは、「あの時祖父まで亡くなっていたら、私は生きていないので、こうして生かされていることに感謝を込めて手を合わせました」と話していました。

震災の混乱で殺害された朝鮮人犠牲者を追悼

震災の混乱で殺害された朝鮮人犠牲者を追悼する式典が東京・墨田区で行われました。

ことしも東京都の小池知事から追悼文は送られず、主催した実行委員会は「都知事の対応はとても恥ずかしいことで、歴史から逃げている」と批判しました。

関東大震災の混乱で殺害された朝鮮人犠牲者を追悼する式典は毎年9月1日に開かれていて、震災から100年の1日も墨田区の都立横網町公園で開かれました。

はじめに宮川泰彦実行委員長が「二度と同じ悲劇が起こらないように後世に歴史を伝えていくことがとても大切だ」などとあいさつしました。その後、参加者たちは黙とうを行い犠牲者を追悼しました。

朝鮮人犠牲者の追悼式をめぐっては、主催する民間の実行委員会と朝鮮総連・在日本朝鮮人総連合会などが都に対して、小池知事の名前で追悼文の送付を求めていましたが送られませんでした。

式典に参加した70代の男性は「日本人として100年前の歴史を忘れてはいけないという気持ちで参加した」と話していました。

式典のあと、宮川実行委員長は、「都知事の対応はとても恥ずかしいことで歴史から逃げている。今後も抗議をしていきたい」と話していました。

小池知事「法要において全ての人々へ哀悼」

東京都の小池知事は記者会見で、東京都慰霊協会が開いている法要を踏まえ「毎年、法要において都知事として、関東大震災などで犠牲になった全ての人々へ哀悼の意を表している。震災による極度の混乱のもと犠牲になった人々も含め、慰霊する気持ちを改めて表すことで、私自身対応してきており、この考えは引き続き変わらないものとしている」と述べました。

関東大震災をデジタル技術で解析 “揺れ幅2倍以上か”

100年前の関東大震災について当時の地震計の記録を専門家がデジタル技術などを活用して解析した結果、東京では揺れ幅がこれまで考えられていたよりも大きく、最大で2倍以上に達していた可能性があることがわかりました。

1923年9月1日、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が起き、死者・行方不明者は10万5000人あまりにのぼりました。

当時、東京帝国大学には地震計が複数ありましたが、激しい揺れで地震計の針が振り切れたため、複数の研究者が復元を試みてきました。

このうち、地震工学が専門で東京工業大学の翠川三郎名誉教授と、早稲田大学の山田眞名誉教授、広島大学の三浦弘之准教授は、レコードのように回転する円盤型の地震計が比較的多くの記録をとどめていたことに着目し、
▽新たに見つかった文献をもとにこれまで考えられていた円盤の回転の速さを見直すとともに
▽デジタル技術を活用して波形を精密に解析するなどして当時の揺れを推計しました。

その結果、揺れ幅は過去にほかの複数の研究者が推計したよりも大きく、最大で2倍以上に達し、大学があった場所では震度6弱相当に及んでいた可能性があることが分かりました。

また、長くゆっくりとした「長周期地震動」も起き、建物の1階部分では端から端までの揺れ幅が最大で1メートル20センチに達した可能性があるということです。

「長周期地震動」は建物の高層階を大きく揺らし、柔らかい地層で揺れが増幅される特性があるため、同じような地震が起きた場合50階建てのビルではおよそ2メートル揺さぶられ、埋め立て地が広がる東京や神奈川などではさらに揺れが大きくなる可能性があるとしています。

翠川名誉教授は、「関東大震災をもたらしたような地震は過去に繰り返し発生していて今後も起こるとされている。この100年の間に東京をはじめ首都圏は高層ビルも増えたため、揺れを抑える構造を採用したり家具の転倒防止を徹底したりするなど、対策をとっていく必要がある」と話しています。