関東大震災からきょうで100年 防災や復興の教訓学ぶきっかけに

10万人以上が犠牲となった関東大震災から1日で100年です。専門家は、地震で想定されるあらゆる災害や被害が起きたのが関東大震災だとして、改めて防災や復興の教訓を学ぶきっかけにしてほしいと呼びかけています。

1923年9月1日、神奈川県西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生し、死者・行方不明者は10万5000人余りにのぼりました。

長年、歴史の資料をもとに過去に起きた地震を研究してきた立命館大学の北原糸子客員研究員は、首都がかつてないほど大規模に被災した国レベルの災害であり、津波や土砂災害、大規模な火災など地震で想定されるあらゆる災害や被害が起きたのが関東大震災だと指摘しています。

そのうえで、最近になって分かった事実もあることを踏まえると、関東大震災は終わっていないと考えるべきだとして、100年を機に改めて防災や復興の教訓を学ぶきっかけにしてほしいと呼びかけています。

北原客員研究員は「地域や被災した人の年齢層など、見方によって震災から読み取れる教訓はさまざまだ。関東大震災に関心を持ってもらえれば100年たったことの意味はかなり大きくなってくる」と話していました。

激しい揺れ 津波 土砂災害 東京・横浜などで甚大被害に

今から100年前の1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、近代化した首都圏を襲った大地震により激しい揺れや、津波、土砂災害、それに大規模な火災などが発生し未曽有の被害となりました。

午前11時58分に関東南岸の「相模トラフ」を震源とするマグニチュード7.9の地震が起き、当時の震度階級では、東京、神奈川県、千葉県、埼玉県、山梨県で震度6の激しい揺れを観測し、北海道から四国にかけての広い範囲で震度5から1の揺れを観測しました。

内閣府の報告書などによりますと、神奈川県のほか東京や千葉県など関東南部を中心にあわせて10万を超える住宅が全壊しました。

また、神奈川県鎌倉市では鶴岡八幡宮の拝殿など歴史ある神社や仏閣が倒壊したほか、重さ121トンもある鎌倉大仏が30センチ以上ずれ動きました。

相模湾を中心に津波も発生し、静岡県熱海市で12メートル、千葉県館山市で9メートルを観測しました。

震源に近い神奈川県の山間部を中心に土砂災害も相次ぎました。

なかでも現在の神奈川県小田原市根府川では大規模な土砂災害が発生して駅に止まっていた列車がホームごと海に流され、200人が死亡しました。

東京の埋め立て地や神奈川県の川沿いの低地では地盤の液状化が起き、地割れや建物の沈下なども発生して地下水が吹き出す現象も起きました。

犠牲者の多くを占めたのは火災

関東大震災の死者・行方不明者は10万5000人余りにのぼり、このうち9割が火災による被害です。

地震の発生時刻が昼食の時間帯に重なり、かまどやしちりんなどを使っていたこともあって同時多発的に火が出て次々と延焼し、焼失面積が38平方キロメートルと大規模な火災となりました。

地震の揺れで断水したことや強風が吹いていたことも被害を拡大させた要因と考えられています。

特に被害が大きかったのが現在の東京・墨田区にあった「被服廠跡」と呼ばれる工場跡地です。周囲から火の手が迫り、炎や煙が竜巻のようになる「火災旋風」も発生して、避難していた人の大半のおよそ3万8000人が死亡しました。

また、内閣府の報告書では朝鮮人が武装したり放火したりするなどといった根拠の無いうわさを背景に、各地で殺人事件が多発したとされています。

関東大震災では住む家を失い、避難を余儀なくされた人も膨大な数にのぼりました。

推計で100万人を超えるとされ、現在の千代田区や港区、台東区などにあたる「東京市」の人口のおよそ40%にあたり、上野公園には50万人以上が避難しました。

その後、「帝都復興計画」をもとに東京や横浜市では土地区画の整理や河川の改修、「昭和通り」など舗装された幹線道路の新設も進みました。また、震災を教訓に「隅田公園」など数多くの公園が整備され、災害時の避難や防火の役割を担いました。

こうした復興事業を通じて新しい町並みが誕生し、東京の銀座や京橋は「晴海通り」の拡幅で次第ににぎわいを取り戻しました。