父に会える場所 慰霊碑が忘れられていく

父に会える場所 慰霊碑が忘れられていく
「戦没」「忠霊」「鎮魂」…。

そんな言葉が刻まれた戦争の慰霊碑。

あなたの住む地域にもあるはずです。

第2次世界大戦の犠牲者をまつる慰霊碑は、実は全国におよそ1万6000以上。

しかし、長い年月が経過し、老朽化に直面しているものも珍しくありません。

戦争の記憶を伝える慰霊碑を、どう継承していくのか。一緒に考えてみませんか。

(大阪放送局 宗像玄徳)

この塔、いったい何?

大阪・堺市の大仙公園。

仁徳天皇陵とされる大山古墳に近く、多くの市民でにぎわっています。
ここにひときわ目立つ大きな塔が。

高さはおよそ60m。

20階建てのビルに相当します。

「平和塔」と名付けられています。

入り口の扉は閉ざされ、入ることはできません。

いったい何の塔なのか。

公園を訪れた市民に尋ねてみましたが…。
40代女性
「高い塔だなと思っていたんですけど、何かは知らないです」
60代男性
「平和塔という名前は知っているけれど、どうしてそんな名前なのかは知りません」

平和を願う慰霊碑です

この塔は、戦争の犠牲者を悼む慰霊碑。

平和を願う場として、堺市が昭和46年に礼拝堂とともに建設しました。

戦地や空襲で犠牲になった市民およそ8300人がまつられ、銘板に名前が刻まれています。
建設費は当時の金額でおよそ1億円。

その3割は当時の市民の寄付でまかなわれました。

巨大な慰霊碑は、かつての堺市民の平和への思いが形となったものでした。
堺市長寿支援課 杉中淳志課長
「終戦から時間がたち、街の復興や経済の建て直しも一段落して、ある程度財政的に余裕があったのではないでしょうか。当時は、多くの人に戦争の経験があり、犠牲になった人たちを悼もうという思いも高まって、これだけの高い塔に至ったのではないでしょうか」

中に入ってみると…

しかし、建設から50年余り。

平和塔が直面しているのは老朽化です。

ふだんは非公開の塔の内部に、市の担当者と入りました。
階段が続く、薄暗い空間。

小さな窓はあるものの開けることはできません。

暑さですぐに汗だくになります。

たどりついた塔の一番上にあるのは「英霊奉安所」。

扉を開けると、その奥にはガラスケースに入った黒い大きな箱が。
箱の中には、ひとりひとりの戦没者がいつどこで亡くなったのかを記した名簿が収められているということです。

しかし、市の担当者も見たことはないそうです。

実は、長い年月による腐食のためか、ふたが固まってしまったとみられ、ケースを開けることができなくなっているのです。

堺市民が経験した戦争の貴重な記録。

今、どんな状態になっているのか、確認できなくなっていました。

進む老朽化

よく見ると、塔の内部の壁もひびが入っています。

市は耐震診断の結果、安全性に問題はないとしていますが、コンクリートがはがれて鉄筋があらわになっているところもありました。

今後さらに老朽化が進んでいく中で、塔をどうしていくのか今のところ具体的な計画は立っていません。
堺市長寿支援課 杉中淳志課長
「建築物なので劣化は避けられないと考えています。今後、20~30年の間には塔のあり方を検討すべき時期が来ると考えています。建て替えるのか別の形に造り替えるのか、いろいろな選択肢のなかから判断することになると思います」

思いを寄せる遺族

ほとんどの人が通り過ぎるこの場所に、思いを寄せる遺族がいます。
堺市に住む高倉正達さん(78)です。

高倉さんの父・修さんは軍のパイロットでした。

昭和19年11月、フィリピンで戦死しました。

マニラに向かって戦闘機で飛び立ったあと撃墜されたとみられています。

34歳の若さでした。
高倉さんに父との思い出はありません。

生まれる1か月前に、父は亡くなったからです。

会ったことのない父、修さんの名前は銘板に刻まれ、平和塔にまつられています。

高倉さんにとって平和塔は父を感じることができる大切な場所です。
高倉正達さん
「親父の肩幅はどんなに広かったのかなあとか、どんな声だったのかなあとか。ここにまつられているから供養もできるし、多くの戦没者の供養もできます。こんなにありがたいことはないと思っています」

父を思い続けた家族

古い手紙の内容が残されています。

高倉さんの7歳年上の姉、瑛子さんに、戦地に向かう父の修さんから送られた手紙です。
「エイコサン オトウサマハ エイコトワカレテ ヒトリサビシクコノテガミヲカキナガラ エイコサンノコトヲカンガエテイマス オトウサマハ ゲンキデハタラキマス デハサヨウナラ オテガミヲトキドキチョウダイネ(一部抜粋)」
手紙の実物は、今は存在しません。

姉の瑛子さんが9年前に77歳で亡くなった際、その棺に入れられたからです。

瑛子さんはこの手紙を生涯大切に保管し続け、「自分が亡くなるとき棺に入れてほしい」と遺言していたのです。

亡き父に愛された幼い日の記憶。

父への思いを抱きながら、家族は戦後を生きてきました。
高倉正達さん
「姉はつらい時も苦しい時も、父からの手紙を読んで自分を励ましていたんじゃないかな。『お父さん、頑張るよ』って。だから手紙がボロボロになっていたのかな。ずっと手紙を大事にしていたと思います」

“来られるのもあと5年” 見守る遺族も高齢化

そんな父の名前が刻まれた平和塔。

高倉さんはこれまで、地元の遺族会の活動として清掃を行ってきました。

しかし、遺族会は高齢化によって、おととし解散しました。

今は高倉さんを含めて7人のみが、自主的に毎月清掃を続けています。

メンバーの最年少が78歳の高倉さんです。

「来られるのもあと5年程度でしょう」

見守る遺族がいなくなると、平和塔そのものが忘れ去られるのではないかと不安を抱いています。
高倉正達さん
「名前が刻まれている亡くなったひとりひとりに未来があって、夢があって、楽しい家庭があったと思います。平和塔はそういうことを考えさせる場所です。平和について考える場所がなくなってしまうのではないか、それだけが心配です」

新たな形で残す取り組みも

戦争の記憶をつなぐ慰霊碑が直面している老朽化。

建て替えや修繕には、多額の費用がかかります。

そんな中、新たな技術で別の形で慰霊碑を受け継いでいく取り組みもあります。
静岡市清水区にあった慰霊碑です。

昭和34年に建てられましたが、老朽化でおととし撤去されました。

撤去される直前、静岡県と地元の測量設計会社が連携し、データとして慰霊碑を保存するプロジェクトが立ち上がりました。

ドローンを飛ばして慰霊碑や周辺を計測。

およそ5000万の点で形を記録しました。

ここにカメラで撮影した色を合成すると、3次元の立体的な慰霊碑がよみがえりました。
あらゆる角度から慰霊碑を見ることができます。

今後はインターネットでこのデータを公開し、VR=バーチャルリアリティーを使った見学もできるようにしたいと考えています。
静岡県デジタル戦略局 杉本直也参事
「戦後長い時間がたって老朽化が進む中で、3次元データの記録として残すことは今の時代にとって良いと思います。地区ごとに亡くなった人の名前が書かれた板も見ることができます。最新のデジタル技術で残すことも選択肢のひとつになると考えています」

まずは知ることから

5年前、国が行った戦没者慰霊碑の調査では、全国780の慰霊碑がひびが入っていたり、倒壊のおそれがあることが分かっています。

専門家は、慰霊碑について「地域と戦争の関わりをいまに伝えるもの」として、その重要性を指摘します。
大阪電気通信大学 小田康徳名誉教授
「慰霊碑が失われると地域にとっての戦争の記録や記憶が消えてしまいます。どのような思いで慰霊碑が建てられたのか。碑に刻まれた人たちは地域のどんな人だったのか。そういったことを知ると碑を身近に感じ始め、何らかの形で受け継いでいこうという気持ちにつながっていくはずです」

あなたの身近にもあるはず

私は以前、高知放送局に勤務していたとき、山に囲まれた村で戦没者の慰霊碑を見たことがあります。

“こんなに小さな村からも戦争に巻き込まれ、犠牲になった人がいるのか”

住む場所や個人の意思など関係なく、誰もが飲み込まれていく。

戦争を知らない私に、戦争の悲惨さを突きつけました。

慰霊碑のあり方は、遺族だけの問題ではありません。

みなさんも身近な場所の慰霊碑にほんのちょっと足をとめて、思いをはせてみてはいかがでしょうか。
大阪放送局 記者
宗像玄徳
2015年入局
大阪局では司法取材を担当
初任地の高知局では毎年、戦争について取材していました