“耳の聞こえない両親が駆け落ち”息子が知った過去とは

“耳の聞こえない両親が駆け落ち”息子が知った過去とは
「あなたのお母さんとお父さん、若い頃に駆け落ちしようとしたの」

耳の聞こえない両親のもとで育った男性は、祖母から聞いた言葉が心に引っ掛かり、当時、何があったかを知ろうと、手話を学び直して母親にインタビューを行いました。

そして、その内容をまとめた1冊の本を出版しました。

両親が出会い、結婚した時代。障害者どうしである2人には大きな壁が立ちはだかっていたのです。

両親の過去を知った男性が感じたこととは。

(仙台放送局 記者 藤家亜里紗)

母と向き合うため 本気で手話を学び直す

本を書いたのは、東京で作家やライターとして障害者や難病の人などの記事を書いている宮城県塩釜市出身の五十嵐大さん(40)です。
タイトルは『聴こえない母に訊きにいく』。

母親が育った環境や父親と出会い、結婚・出産に至るまでの経緯などを詳細に取材し、本にまとめました。
もともと手話が使いこなせず、幼少の頃から両親との会話が難しいと諦めてきた五十嵐さんは、今回の取材に向けて本気で手話を学んだといいます。
五十嵐大さん
「子どもの頃、両親が手話で話しているのを見て、見よう見まねで覚えましたが、深い話ができるほどではありませんでした。今回の取材のために短時間ですが手話を勉強しました」

“駆け落ちしようとした” 両親の過去を知りたい

“あなたのお母さんとお父さん、若い頃に駆け落ちしようとしたの”

五十嵐さんはこれまでも聴覚障害者の置かれている状況について執筆した経験がありますが、今回、耳の聞こえない両親について書きたいと思ったきっかけは、冒頭に紹介した祖母の言葉でした。

そして両親が駆け落ちしようとした背景に、障害者どうしの結婚を周囲から反対されていたことがあったと知ったのです。

家族の過去を知らずに生きてきた五十嵐さんは、両親の過去を知りたくなったといいます。
五十嵐大さん
「ショックでした。同時にそれほどの大変なことをする背景にどんな事情があったのか知りたくなりました。両親に聞くことで、もしかしたら傷つける瞬間もあるかもしれないけれど、そこも覚悟したうえで知りたいという気持ちに傾いていきました」
地元を離れてしばらく東京で暮らしてきた五十嵐さん。

家族と向き合うと決めてからは何度も地元に戻り、両親やそのきょうだい、それに周囲の人から話を聞いていきました。

すると、自分のイメージとは違った両親の人生が見えてきました。
母親は、地元の小学校に通っていました。

クラスの中で1人だけ耳が聞こえず、友達の会話や授業の内容がほとんどわからないまま、6年間を過ごしていました。

一方、中学でろう学校に入学し、手話を学んでからは、友人と会話を楽しめるようになったそうです。

中学時代について五十嵐さんの母親は次のように振り返りました。
五十嵐さんの母親
「友だちの会話の内容が手話を通じて理解できるようになり、おもしろくなりました。母親にも学校での友だちとの会話が楽しいとよく話していました」
その後、ろう学校の高等部で父親と出会います。

当時、父親は陸上部で足が速く、校内でも人気者。そんな父親に一目惚れし、母親の方から『友達になってください』と伝えたそうです。

2人の初めてのデートは、ボウリング場でした。
デート中、母親は緊張のあまり、喫茶店で砂糖をこぼしたというエピソードなども教えてくれたということです。

交際がスタートしてから2人はいつも一緒に過ごし、手話を通じて会話が盛り上がっていたそうです。
五十嵐大さん
「話を聞くまで、母の人生はつらいことばかりだったのではと勝手に想像していましたが、意外と楽しい思い出がたくさん出てきました。手話と出会ったのをきっかけに、楽しい青春時代を過ごしていました。それを知ることができてとてもうれしかったです」

ぼくは、生まれる前に“殺されていた”かもしれない

五十嵐さんの本には「旧優生保護法」に関する内容も書かれています。

旧優生保護法は、戦後まもない1948年から1996年まで48年間にわたって存続し、この間、障害などを理由に不妊手術が行われてきました。聴覚障害を理由に手術を受けさせられた人もいたということです。

当時、親の障害や疾患が、そのまま子どもに遺伝すると考えられていたことが背景にあり、宮城県内でもさまざまな障害を理由に数多くの手術が行われていました。

本にはこの法律を初めて知った時の、五十嵐さんの気持ちがつづられていました。
「もしかしたらぼくは、国によって生まれる前に“殺されていた”かもしれない」
五十嵐大さん
「怖いというか、吐き気がする感じでしたね。そんな法律がこの国にあったんだって」
五十嵐さんの本には、母が家族から言われた言葉も記されています。

“もしも聴こえない子どもが生まれたらどうするの?”

五十嵐さんの両親は、手術を受けることはありませんでしたが、周囲には耳の聞こえない人どうしの結婚や聞こえない子どもが生まれることを不安に思う声が強かったといいます。

五十嵐さんの母親は、当時、家族に言われた言葉をいまも覚えています。
五十嵐さんの母親
「耳が聞こえる人と結婚した方がいいのではないか。生まれた子どもがろう者になるのではないかとも心配していました。義理の姉から『生まれた子どもは私が育てる』とも言われました。私はとても嫌でした」
一度は駆け落ちまでしようとした2人。

周囲から反対されても2人は意志を貫き、20代で結婚。

その後、五十嵐さんが生まれました。

両親は五十嵐さんを大事に育て上げ、祖父母も育児を手伝ってくれたそうです。
五十嵐さんの母親
「一生懸命育てました。(大ちゃんを)守りました」

母を1人の人間なんだなって受け止める

耳が聞こえない両親のもとで育った五十嵐さん。

子どもの頃から学校で心ない言葉を言われるなど、何度もつらい経験をしてきました。両親とは簡単な手話で日常のやりとりはしてきましたが、複雑な感情を伝える手話ができなかったこともあり、両親にその悩みをぶつけることもできませんでした。

そして、両親と完全にわかりあえることはないと諦めていました。

しかし、今回の取材で手話を本気で学び直し、母親と向き合う時間をもったことで、その考えは大きく変わったといいます。
五十嵐大さん
「本当に心の底から相手のことをわかりたいとか、自分のことを伝えたいと思っていれば絶対理解しあえるんじゃないかと思えました。取材を通して、母を1人の人間なんだなって受け止められるようになった。より対等な、正しい形の親子関係が築けたような気がします」

取材を終えて

取材で塩釜市内のご実家に伺った際、五十嵐さんが母親と手話を通じて生き生きと会話している姿がとても印象的でした。

聴覚障害者の両親を受け入れられず距離を置いた時期もあったり、手話が苦手で家族と深い話をすることを諦めていた五十嵐さんですが、今回、母親と何度も対話を重ねるうちに、母親との関係も強まったと感じたそうです。

耳が聞こえる聞こえないに限らず、それほど自分の親と向き合うことは私もありませんでしたが、五十嵐さんからその大切さを教えてもらった気がします。
仙台放送局 記者
藤家亜里紗
2019年入局
石巻支局を経て夏から警察・司法担当
この本を読んで自分も両親のことを深く知りたくなりました