福島第一原発が立地する地域の沿岸を漁場とする相馬双葉漁協の漁業者、石橋正裕さん(44)は政府の決定をテレビのニュースで知りました。
石橋さんは「放出の計画について漁業者の理解が進んでいない中でなぜ放出を決めたのか納得いかないし、ショックで受け止められない」とつらい心境を語りました。

「魚が売れなくなる」処理水の海洋放出で地元は懸念 対策は
東京電力福島第一原発にたまる処理水を薄めて24日にも海に放出するという政府の決定を受け、福島県の漁業者からは放出に納得できないという声や風評被害への不安が聞かれました。
水産庁は処理水の放出開始後は当面、毎日、福島第一原発の10キロ圏内で捕れた魚についてトリチウムの検査を行うなど、風評被害対策を強化することにしています。
漁業者 「風評に不安」


石橋さんは「常磐もの」として重宝されてきたカレイやシラスなどを水揚げしてきましたが、事故後、漁の自粛や水揚げの制限があった上、風評被害にも苦しんできました。
こうした中、地元の漁業の復興に向けて福島県沖でとれた魚の安全性を県外で消費者に訴えてきたほか、水揚げが増加しているトラフグをブランド化してPRする取り組みを続けてきました。
福島県の沿岸漁業の水揚げ高は回復を続けるなど明るい兆しが見え始めていて、石橋さんはことし6月、地元の若手漁業者の代表として西村経済産業大臣と会談した際、新たな風評被害が生じるおそれがあるなどとして放出に反対する思いを直接伝えていました。
漁業者 石橋正裕さん
「安心・安全な魚をとって売って食べてもらう仕事なのに風評で魚が売れなくなるのではないかと不安を感じている。福島の漁業に希望や未来を感じて漁業の道を選んでいる若者も多いなかで、若者の希望を失わせるきっかけになりかねない」
水産仲卸業者「風評被害いかに少なくするか」

水産物の流通業者からは複雑な心境が聞かれました。
いわき市の水産仲卸会社を経営する鈴木孝治さん(62)は地元の漁港で水揚げされる魚を中心に取り扱い、県内の鮮魚店や飲食店などに卸しています。
原発事故のあと、市場のほかの業者と協力して福島沖でとれる魚の魅力を伝える活動にも取り組んだり、国の担当者を招いて処理水の放出計画についての勉強会を開いて処理水の安全性や国の風評対策などについて知るための努力を重ねてきました。
鈴木さんは処理水の放出には反対の一方、廃炉を進めるために処理水の処分が必要なことは理解でき、複雑な気持ちを持ち続けているといいます。
水産仲卸業者 鈴木孝治さん
「風評被害というのは間違いなくあると思うので、それをいかに少なくするかが私たちの役目です。いわきの魚は厳しく検査されていて安全でおいしいということを伝えていきたいです」
10キロ圏内の魚 毎日検査へ

処理水の放出開始にあわせて、水産庁は風評被害を防ぐため、福島第一原発周辺の水産物の検査を強化することにしています。
現在、福島県沖では福島第一原発の10キロ圏内を除いて漁が行われています。水揚げされた魚は毎週県が検査を行い、基準を超える放射性物質が検出された場合は同じ種類の魚について国が出荷制限を指示することになっています。現在は去年1月の検査で基準を超える放射性物質が検出された「クロソイ」という魚のみ出荷が制限されています。
このほか地元の漁協も水揚げのあった日は毎日、出荷するすべての種類の魚について放射性物質に関する検査を行い、自主的に定めた値を上回った場合は出荷を自粛します。
さらに水産庁も去年6月から、北海道から千葉県までの東日本の太平洋側でさまざまな種類の魚を対象にトリチウムの検査を実施しています。これに加え処理水の放出開始後は当面、土日も含めて毎日、福島第一原発の10キロ圏内で捕れた魚について水産庁がトリチウムの検査を行い、翌日か翌々日には結果を公表することにしています。
水産庁は「処理水を放出する場所のすぐそばで実施した検査の結果を連日公表することで、消費者の不安を払しょくし安心して福島のおいしい水産物を楽しんでもらえるようにしたい」としています。
政府 風評被害対策に800億円

政府は風評被害などの漁業者への影響を最小限に抑えようと、あわせて800億円に上る2つの基金を設けています。このうち、おととし12月に設けられた300億円の基金は処理水の放出に伴う風評被害などへの対策が主な目的です。
放出の影響で卸売市場などでの水産物の取り引き価格が原則、7%以上下落した場合
▽漁業者の団体などが一時的に買い取って冷凍保管するための費用を上限なしで補助、
▽企業の社員食堂に水産物を提供する際にかかる費用などを最大1億円支援、
▽ネット販売など販路拡大の取り組みに対し、最大5000万円を補助するなどとしています。
一方、去年11月に設けられた500億円の基金は漁業者の事業継続を支援するのが主な目的です。
放出の影響で売り上げが3%以上減少した場合などは
▽新たな漁場の開拓などを支援するため、人件費や漁具の購入費用などに最大3000万円を補助、
▽省エネ性能にすぐれた漁船のエンジンなどの導入費用に最大2000万円を補助するなどとしています。
このほか政府は福島県産の水産物などの需要を拡大しようと流通業者への働きかけも行う方針です。
一方、東京電力も去年12月、処理水の放出に伴って風評被害が発生した場合賠償額をどのように決めるか基準を公表しています。この基準では期間や地域、業種は限定しないとした上で、風評被害による水産物や農産物の価格下落で売り上げが減少した場合や外国からの禁輸措置を受けた場合などに賠償の対象になるとしています。具体的な賠償額は事業者ごとに風評被害による影響を確認した上で損害額を算定する方針で、今後、関係者の意見も聞いた上で、詳細な基準を策定することにしています。
国際社会に情報発信 IAEAが報告書公表 韓国は現地視察も

政府は漁業者の不安を払拭(ふっしょく)するとともに中国など周辺国からの理解を得ようと、安全性に関する情報発信などの取り組みを続けてきました。
おととし4月に政府が決定した基本方針では、処理水の放出にあたって▽トリチウムの濃度を国の基準の40分の1未満、▽WHO=世界保健機関が示す飲料水の基準の7分の1程度に薄めるとしています。
漁業者の不安を払拭するため、風評対策の徹底とともに放出の安全性について国民や国際社会から理解を得るための情報を発信し、風評被害が生じた場合には東京電力に賠償を求められるとしました。

さらに国際社会に透明性を示すためIAEA=国際原子力機関に協力を要請し、これを受けてIAEAは7月、専門家による検証の結果として「放出に対する日本の取り組みは国際的な安全基準に合致している」とする報告書を公表しました。
また、放出に強く反発する中国や懸念の声が根強い韓国などに対しては、福島第一原発への視察を積極的に受け入れることを表明し、韓国政府はことし5月に専門家を福島第一原発に派遣し、現地の視察を行いました。

こうした結果、韓国政府は7月になってIAEAの報告書を尊重するとした上で、韓国周辺の海域に及ぼす影響はほとんどないという見解を示しました。
8月に開かれたNPT=核拡散防止条約の準備委員会でも中国の代表が日本の計画に反対の立場を表明したのに対し、日本の代表がIAEAの報告書の内容を説明し、欧米やアジアなど10か国以上から理解と支持が表明されたということです。
ただ、中国は処理水を「汚染水」という表現を使うなど依然として放出に強く反対し日本側をけん制しているほか、韓国でも放出への懸念は根強くあります。
日本としては放出を開始したあとも安全性について科学的な根拠を示しながら国内外に丁寧に説明し、不安の払拭に努めていくことが求められています。
10か国語でSNS発信 偽情報対策も

外務省は国際社会に対して科学的根拠に基づく丁寧な説明を続けるほか、モニタリング調査の結果などを速やかに公表していくことにしています。
SNSを活用した情報発信にも力を入れ、旧ツイッターの「X」で英語・中国語・韓国語・スペイン語など10か国語で安全性に関する情報を発信しているほか、英語で解説したユーチューブの動画は500万回以上再生されています。
また、外務省はいわゆる「偽情報」対策を強化していて、ことし6月に韓国のインターネットメディアが「日本政府がIAEAに多額の政治献金を行った」などと報じると、すぐさまホームページなどで「事実無根だ」だと反論しました。
誤った情報を放置せず打ち消すことで正しい情報の拡散に努めたいとしていて、今後も事実に基づかない情報を見つけた場合には削除を求めたり、反論したりすることにしています。
食品の輸入規制 7つの国や地域で続く
東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに世界各地で日本からの食品の輸入停止など規制の動きが広がり、一時は世界の55の国や地域に及びましたが、これまでに48の国や地域でこうした規制は撤廃されています。
このうち、EU=ヨーロッパ連合では、福島、宮城、群馬など10県で生産される一部の水産物などを対象に放射性物質の検査証明書の提出を求める輸入規制を行ってきましたが、8月3日にこうした輸入規制は撤廃されました。これを受けて、EU加盟国ではないスイスとリヒテンシュタインのヨーロッパの2か国も8月15日に規制を撤廃しました。
一方で、7つの国や地域で輸入規制は続いていて、このうち、中国や韓国、香港など5つの国と地域はいまも輸入停止の措置を行っています。中国は、福島、宮城、東京、千葉など1都8県で生産されるすべての食品の輸入を停止するなどしているほか、韓国は福島、宮城、茨城など8県で、すべての水産物の輸入を停止するなどしています。さらに処理水の放出には、中国や香港政府が強く反対しています。
中国は7月7日、日本から輸入する食品について「100%の検査」を行う方針を示し、その後、日本から輸出された水産物などが中国各地の税関当局でこれまでよりも長い間、留め置かれていることが確認されています。政府はこうした検査の強化が処理水の放出計画への対応であれば容認できないとして、状況の確認を進めています。日本から中国への農林水産物や食品の輸出額は、去年(2022年)およそ2783億円にのぼり、日本にとって最大の輸出先なだけに影響が懸念されています。
香港政府は実際に放出が行われた場合、東京、福島、千葉、宮城など、10の都県を原産地とする水産物の輸入を禁止するとしています。日本から香港への農林水産物や食品の輸出額は、去年(2022年)およそ2086億円で、中国に次ぐ2位の輸出先です。
政府としては、個別の会談や国際会議などあらゆる機会をとらえて規制を続ける各国に対し、撤廃を働きかけていくことにしていますが、中国などが処理水の放出に強く反発する中で、日本産の食品の輸出に影響が出ることが懸念されています。