“言葉”の意味が変わっていく ウクライナを訪ねて

“言葉”の意味が変わっていく ウクライナを訪ねて
「風呂」は「避難場所」に変わり、「きれい」は「危険」を意味するようになった―。

戦禍のウクライナで、詩人が市民から聞きとった言葉が、今世界に広がっている。

「戦争語彙集」と名付けられた1冊の本。

その英訳をネットで目にした、日本文学研究者のロバート・キャンベルさんは「自分で翻訳して日本へ届けたい」という強い衝動に駆られた。

そして初夏、ウクライナへ向かい、編著者の詩人や証言した市民たちと対話を重ねた。

ロシアによる軍事侵攻から1年半。

キャンベルさんが現地で直面したのは、“戦争によって言葉の意味が変わる”という現実。

そして文学者の使命とは何かという問いだった。

2週間におよぶウクライナへの旅に、私たちは同行した。

(仙台放送局 ディレクター 堀越伶)

詩人が市民から聞きとったストーリー「戦争語彙集」

今年5月にウクライナで出版された「戦争語彙集」。

すでに10か国語での翻訳が決まるなど、異例の早さで世界に広がっている。

本を開くと、アルファベット順に「りんご(Apple)」「猫(Cat)」「夢(Dream)」「星(Star)」といった日常の言葉が目次のタイトルに並んでいて、まるで辞書のような形式。

それぞれの「言葉」には、市民が語った戦時下での体験が短編で記録されている。
いつもの職場や街角に交じる異様な光景、毎日の家事や会話の意味が変化した瞬間、非常事態を前に沸き上がってきた考察や空想・・・。

目に見える被害だけではない人々の内面が、身近な言葉を通じて伝わってくる。
キャンベルさん
「戦況を伝えるニュースからは知りえない、一番ゼロ地点を歩いている人たちの目線や経験を『戦争語彙集』は丁寧に積み上げています。ひとつひとつの語彙は、命の瀬戸際に立たされた人たちのある瞬間を、カシャっと写真のように切り取ったもの。数日後には同じことを聞かれても多分言えない。そのときだけの自分の景色や言葉を語っているのです。私が想像できる現実とは全く異なる、歴史的なドキュメントだと思いました」
「戦争語彙集」が記録しているのは、戦争によって身近な言葉の“意味”が変化していく様子だ。

「風呂」が、リラックスできる場所から「生き抜くための場所」へ変わっていく。
「きれいなこと」が、戦時下の性暴力と結びついて「命の危険」を意味するようになっていく
それまで大切な記憶や美しいイメージと結びついていた言葉が、別の意味を帯びていくという、戦争の一面。

日付や場所・状況といった情報ではなく、それぞれの人の中で特別な意味を持った“言葉”に注目して、体験が掘り下げられている。
キャンベルさん
「言葉が実際にひっくり返っているんですね。今まで“冷蔵庫”というものは、帰宅した後スイーツを取り出して食べるような安心するものだったんですけれども、今は2週間分の食料が冷蔵庫にないと、夜も寝られないぐらいに不安に感じるという人もいる。冷蔵庫が“生命維持装置”のようなものに変わったと。ひとつひとつの言葉が今までと異なる意味を持っていくんです。『戦争語彙集』は、私たちの周りにある当たり前のものを見つめて、その本質がどうなのかを掘り下げていきます。時間をかけて集めた言葉の網を縫って編んでいるような、刺しゅうのようにも思えます」

戦争語彙集はなぜ生まれた? ある詩人の“無力感”と“気付き”

キャンベルさんは「戦争語彙集」の編著者であるオスタップ・スリヴィンスキーさんに会うため、ウクライナ西部・リビウを訪ねた。

リビウは侵攻直後、国内から大勢の避難者が押し寄せた街。

駅のプラットホームは人であふれかえり、構内もバッグやスーツケースに座る人がひしめいていた。

当時、現実を表現する言葉が見つからず、詩人として無力感を抱えていたオスタップさん。

国内避難者をボランティアで支援していたとき、あることに気づいたという。
詩人 オスタップさん
「人々が必要としているのは、避難所や温かい飲み物だけでなく、自分の物語を誰かに伝えること。人に話を聞いてもらうことでした。私にできるのは耳を貸すことだったのです。私は今の状況を表現する方法を、他の方々の言葉を通して見つけることができました。その物語を記録することが私の義務のように思えました」
オスタップさんは、ロシアの侵攻後から1年半、仲間とともに市井の人たちへの聞き取りを続けてきた。

戦争の最前線にいる人や避難者だけでなく、ボランティアで支援をする人、一見戦争と関係なく普通の生活を送る人々の話もある。

「戦争語彙集」を通して、表に出にくい感情を浮かび上がらせようとするオスタップさん。

さまざまな立場に置かれた人たちの「すべてのストーリーが平等であることが重要」と考え、言葉をアルファベット順に並べている。

“日常の言葉”は、戦禍で変化し続けている

「戦争語彙集」の証言者たちにも、キャンベルさんは直接話を聞くことにした。

どんな状況でストーリーを語り、その話が今どう変化したのかを知るためだ。

証言者のひとり、「熊」というストーリーを寄せたスタニスラフさん。

去年2月の侵攻直後、自宅のあるキーウへの攻勢が強まり、毎晩のように命の危険を感じながら眠りについたときのエピソードだ。
「熊」 スタニスラフ/キーウ在住(一部抜粋)

悲しくなると幼少期の中まで逃げていきます。

はじめは就学前の小さな時を順番に思い出します。

今はもっぱら熊のことを想起しています。

正確に言えば自分のテディベアと、もう一つ想像上の、あわせて二個のテディベアのことです。

小さい方をぎゅっと抱きしめているか、そうでなければ白い斑点が付いたデカいぬいぐるみの方がわたしを抱きかかえています。

頭の中は空想でぐるんぐるん、戦争などありません。

口に出して言ってみようかなー「空想」。

なんと素晴らしい響きでしょう、「空想……」。
幼少期から大切にしていたぬいぐるみの「熊」は、命の危険が迫る状況の中で、自分の精神を保つための“空想の対象”へと変化したのだ。
証言者 スタニスラフさん
「寝る前に何度か妻とお別れをしたことがあります。もしそれが最後の夜だとしても悲しむことはないと。この『熊』に関する短い文章も、そういった気持ちに基づいたものです」
しかし戦況が変わる中で、空想に支えられていた日々は一変する。

自宅からわずか20キロ先の街・ブチャで起きたロシア軍の虐殺で、400人以上が犠牲になり、拷問や性的暴行など残虐行為も横行。

スタニスラフさんは精神のバランスを崩し、その後「熊」を空想することはできなくなってしまった。
証言者 スタニスラフさん
「自分の中で何かが壊れ、言葉で遊ぶこともできなくなりました。きのうも悪いニュースを目にし、きょうも悪いニュースを読み、蓄積される。そのようにして想像力が壊されていったのかもしれない」
「戦争語彙集」に記録された言葉の意味は、今もなお変わり続けているのだ。

街角でも感じる言葉の変化 「平和」の意味も…

ウクライナの街を歩いていても、さまざまな“言葉”が目に入ってきた。

壁に貼られたポスターやステッカー、若者たちが着ているTシャツ、道路脇の看板。

ロシア軍やその不条理な暴力に対する抗議の言葉もあれば、戦闘員の募集や精神的なサポートを呼びかける言葉もある。
キャンベルさんは街の人に語りかけながら、その言葉にも耳を傾けた。

一見穏やかな風景。

破壊された住宅にはきれいなペンキが塗られ、子どもたちが大声で笑っている。

そんな日常の中にも、戦争がまざっていた。
キャンベルさん
「5分とか10分とか話をして心の扉をちょっと開きかけると、やっぱり自分たちは戦争の中にいるということが言葉の端々に出てくるんですね。例えば前線で戦っている兵隊たちのために何かを作っていたり、壊れた家を直すためDIYをしていたり。ミサイルがすぐ近くに落ちた動画を見せてくれる人もいました。僕に本当に淡々と語りかけてくれるんですね。力とか正義とか、自分は今何をすべきか、ということを常に問いあっている、確認しあっているということが言葉から伝わってくるのです」
ウクライナの人たちと語る中で、キャンベルさんは、戦争と対局に置かれる「平和」という言葉についても考えたという。

日本で私たちがふだん使う「平和」という言葉から、想像できないような現実が目の前にあった。
キャンベルさん
「(ウクライナと日本では)平和に対する考え方、感触が違うんだと感じました。是非とか優劣ではないです。ウクライナに来ると“けんか両成敗”とか“話し合えば解決できる“といった“平和”はほぼナンセンスというか、ウクライナの中で言葉としてはもう成立しないくらい不条理な残虐(行為)が多発している。平和を願うことも、平和に対して絶えずそれに向けて備えることも、語り合うことも僕は不可欠だと思うのですが、ただこれはウクライナとロシアの間の戦争ではないなということはやっぱりすごく感じました。平和をどう実現しようか、テーブルについて話し合いましょうねという、そんな生やさしいことをウクライナにいる人たちには言えないと思いました」

表現者の使命は「言葉の意味をあいまいにしないこと」

詩人のオスタップ・スリヴィンスキーさんは、「戦争語彙集」の取り組みを通じて、言葉の意味が変わる過程を記録し続けたいと考えている。

まだ発信されていない物語があり、まだ終わっていない物語もあり、まだ始まってすらいない物語もある。

戦争が続く中で、表現者は“言葉”とどう向き合うべきなのか。
キャンベルさん
「戦争は言葉をねじ曲げてしまうから、変化しようとする言葉を今とどめることが大事だと、オスタップさんは語っています。まず人々の現実をできるだけシンプルな言葉でとどめて、アーカイブして証言として共有する。そういう営みが表現者に求められているということを言い続けている。オスタップさんはストイックに、ひとつひとつ余計なものをそぎ落として原型を追い求めていると思うのです」
あいまいな言葉を使っていると、相手に都合良く解釈され、ときに命の危険にまで及んでしまうとオスタップさんは話す。

今必要なのは、言葉を詩的に飾ったり遠回しに表現したりしないこと。

「怒り」や「侵略」といった一見強い言葉もむき出しにしていかないと、それ自体が存在しないことになり、戦争が何を奪ったのかが見えづらくなってしまう。

そんな危機感があることを、ウクライナでキャンベルさんは感じていた。
キャンベルさん
「本来文学者の言葉は、余白やあいまいなことに表現の生命線があると思うんですけど、“今はそうではない”とオスタップさんたちは言います。すごく生々しい、むきだしの言葉から広い世界が見えるという可能性があると今は感じています」

“言葉”は武器にもなり、シェルターにもなる

世界各国で翻訳が始まり、これからさまざまな人の手に渡っていく「戦争語彙集」の言葉。

ウクライナ国内ではブックイベントが開催され、詩人のオスタップさんも登壇した。

「本の存在が、お互いの物語を伝えあうコミュニティーになってほしい」と語るオスタップさん。

会場では「戦争語彙集」のストーリーに触れた読者たちが、自らの体験を語り合う姿がみられた。
読者
「この本は、私たちが自分の感情や戦争体験を潜在意識のどこかに隠してしまうのではなく、それに名前をつけて、再現してくれるのです。そうすることで私たちはこの現実をありのままに直視し、それに対処するのを助けてくれるのです」
キャンベルさん
「『戦争語彙集』の中には固い鋭い言葉もあれば、ほっとする言葉もあり、フッと笑う言葉もあるんですよね。言葉の力は多面的なものであって、弱まってこそ、あるいは変化してこそ実は力が発揮されることもある。激しく切り立って武器になったりすることもあれば、人の重力を受け止めるクッションみたいになったりすることもあります」
証言者の中には「気持ちを言葉にしたことで、痛みが和らいだ」「戦争語彙集の取り組みは私を救ってくれた」と話してくれた人もいた。

大切な言葉の意味が変化してしまった現実。

それでも“その言葉を語る場所”があることは、人々の支えになっていた。

ウクライナに滞在した時間、キャンベルさんは“言葉”の存在感を改めて感じたという。
キャンベルさん
「言葉はシェルターにもなっているんじゃないかなと思うんですね。語り合える場所や人や事柄があるということは、自分たちをやっぱり守ってくれている。お互いに問答を繰り返したり話をしたり。何でもない話ではあるけれども、話しているうちにだんだんと笑顔になったりするということを目の当たりにしました。自分の言葉が持っているエネルギーを、自分のためにも人のためにも使えたらいいなと思いましたね」
【放送】2023年8月23日(水) 【出演】ロバート・キャンベルさん
仙台放送局ディレクター
堀越伶
2019年入局。
ウクライナで教えてもらった乾杯のお酒「ホリルカ」。
豚の脂身「サーロ」と合わせて飲むと疲れも吹き飛びました。