社会
特攻教官はなぜ妻子と自決したのか 遺書に見た終戦3日後の悲劇
理想の上司、誠実な夫。
しかし、今から78年前の8月18日、終戦3日後のこと。
妻と生後間もないわが子とともに、命を絶ちました。
「我れにその力すでになし」
遺書には、悲劇の理由が記されていました。
(長野局記者 長山尚史)
目次
ある一家の死
山の斜面を少し登ったところに、その名前は刻まれていました。
「遊佐卯之助 准尉(ゆさ・うのすけ)」
かつて、ここ長野県上田市にあった陸軍の飛行学校で教官を務めていました。
終戦から3日後の1945年8月18日。
遊佐准尉(30)は8歳年下の妻の秀子さん(22)と、生後27日の久子ちゃんとともに、みずから命を絶ちました。
その11年後、地元・上田市の住民たちは、一家のエピソードを知り、私財を投じてまで慰霊碑を立てました。
“理想の上司” 遊佐准尉は殴らない
遊佐准尉はいったいどんな人物だったのでしょうか。
その人柄を語ってくれる人がいました。
准尉のおいにあたる森田敏彦さん(65)。今も亡くなった3人の供養を続けています。
森田さんによると、遊佐准尉は当時の軍人らしからぬ態度だったといいます。
おいの森田敏彦さん
「陸軍は厳しかったが、当時教え子の間では『遊佐准尉は殴らない』と有名だったそうです。しかも、殴らないからといって、教え子の腕が悪くなるわけではない。Aくんにあった教え方、Bくんにあった教え方をしていた。今の時代なら、理想の会社の上司だったと思います」
死の真相を探る人物
8月上旬、森田さんを訪ねたとき、私(記者)は村山隆さん(76)と一緒でした。
村山さんは、准尉のいた上田市の在住。
仲間とともに、准尉の死の真相を探っていました。
遊佐准尉を調べている村山隆さん
「身近なところでこんな事件が起きたなんて、とてもひと事とは思えない。ただ、地域社会の中ではこの事件はまったく伝わっておらず、自分自身が勉強して広めていかないといけないと思ったのです」
多くの関係者から話を聞いたり、資料を集めたり。
地元で起きたという以外に、村山さんには、事件を調べる理由がありました。
戦時中、上田市には陸軍の飛行場があり、パイロットを養成する「熊谷陸軍飛行学校上田教育隊」が置かれていました。
遊佐准尉は昭和15年に教育隊に赴任し、少年飛行兵の指導にあたっていました。
教育隊では戦局の悪化に伴って特攻隊の訓練も行われるようになり、遊佐准尉も携わりました。上田市によると、教育隊で学んだ10人余りが特攻隊員として戦地へ飛び立ったとされます。
実は村山さんの父親は、整備担当としてこの飛行場に勤務していました。そのときに、遊佐准尉とも親交があり、村山さんは縁を感じていたのです。
約束と愛
これまでに、遊佐准尉の教え子たちの証言なども調べてきた村山さん。
遊佐准尉が命を絶った背景が、少しずつ見えてきたといいます。
村山さん
「教え子たちの証言で、遊佐准尉は指導の中で『君たちの命がなくなるときは自分の命もない』と語っていたそうです。特攻隊の指導でも『自分もあとで必ず逝く、君たちだけを死なすことはしない』と話していました。結果的に生き残ったが、教え子たちとの約束に殉じたのではないでしょうか」
けれど、優しく誠実であった夫がなぜ、妻と幼子と死をともにしたのか。
村山さんは、准尉の妻・秀子さんをよく知る人物を訪ねました。
秀子さんの実の妹、野村信子さん(93)です。
信子さんは、姉一家の悲報に接した時のことを、涙ながらに振り返りました。
野村信子さん
「70何年もたっているが、いつ思い出しても悲しい。当時はどうしていいかわからず、悲しくて学校をずっと休んでしまった。命日には必ず仏壇にお線香をあげてお祈りをしています」
村山さんはこの日、秀子さんが両親にあてて書いた遺書を持ってきました。調査の過程で見つかり、預かったものでした。
当時15歳だった信子さんは読んだことがありませんでした。
「本当に泣ききれないくやしさ
お互いに覚悟していながら
こんな事になりました
戦わずして死す身の悲しき
卯之助と共に久子と共に参ります」
実は遊佐准尉は、みずからも特攻隊員として戦地に赴くことを志願していました。
しかし、認められなかったといいます。
自分だけ生き延びてしまい悩み苦しむ夫・卯之助。
「戦わずして死す身の悲しき卯之助と共に」
その様子を見るに忍びなかった妻の姿が浮かび上がります。
遺書を読んだ信子さんは、姉にまつわる1つのエピソードを明かしつつ、一家でともに命を絶った理由を次のように推測しました。
秀子さんの妹・信子さん
「遊佐准尉と結婚するときに父が姉に短刀を持たせてあげた。姉の死後、父は『それが悪かったかな』と言っていた。ふだん姉はおとなしいが、いざとなり覚悟を決めたのではないか。それとともに、姉はやっぱり本当に卯之助さんのことが好きだったんじゃないか。だからこそ一緒に逝くことを選択したのでは」
「我れにその力すでになし」
3人が命を絶った現場には、遊佐准尉の手帳が落ちていました。
そこには、上司にあてた遺書が走り書きされていました。
「決して血迷ったのでもなければ
のぼせたのでもありません
皇統三千年の歴史を失ひて
なんの生き永らへん
今後の建設ちょう大なる事業はあれ共
我れにその力すでになし」
従来の価値観が崩れ去り、焼け野原を見た遊佐准尉。
戦争で力尽きてしまい、戦後の新たな生活を思い描くことができなかったのではないか。
村山さんはそう考えています。
村山さん
「生き残ったのであれば、その次の時代に努力して貢献し、新しい時代をつくったらいいじゃないかと頭の中では思った。ところが遺書を見ると『我れにその力すでになし』、エネルギーがないと書いてある。生身の人間だから、すぐ切り替えて『さあ民主日本だ』とはならなかったんだと思います。遊佐准尉は誠実であるがゆえに、こんなことになってしまった」
戦後日本の姿を見ることなく、命を絶った一家の悲劇。
村山さんは、今後も調べ伝えていかなければならないと感じています。
村山さん
「戦争がもたらしたこの悲劇を忘れてはならない。これは検証して伝え、この事件が持つ本当の意味を一人一人考え、新しい平和な社会をつくりあげるような努力をしていかないといけないと思っている」
悲劇を後世に
8月18日、村山さんたちは慰霊碑の前にいました。
3人の命日である毎年8月18日に、この場所で「慰霊の集い」を開いていますが、年々、当時を知る人が少なくなってきました。
ことしは新たに遊佐一家の「慰霊の会」を立ち上げました。若い世代にも事実を伝えていきたいという思いからでした。
この日の集いには、遺族や地域住民など、50人ほどが集まってくれました。
中には、近所に住む女の子も来ていて、こんな言葉を口にしました。
中学生1年生の女の子
「自分より小さい子が亡くなったと考えると、いま生きていられるのは幸せだと思います」
誠実さゆえに苦悩した特攻教官と、そんな夫を愛した妻。
一家の死は“生き延びてしまった”がゆえの結末と言えるかもしれません。
本来は祝福されるべき「生」がまるで「罪」のように感じられてしまう悲劇。
それを招いた戦争の残酷さを、私たちは決して忘れてはならないと感じました。