父は本当は特攻隊員だったのか?

父は本当は特攻隊員だったのか?
始まりは父親の遺品から見つかったマフラーだった。

そこに書かれていたのは特攻隊の文字と父親の名前。

生前「戦争には行っていない」と語りみずからの体験をひた隠しにしていた父親。
本当は特攻隊員だったのか。

その足跡をたどった息子がたどりついたのは、想像もしなかった父親の姿だった。

(国際放送局World News部 上野大和)

「振武隊特別攻撃隊 天翔隊」の文字が…

大阪市に住む建築士の山本一清さん(74)は、父親琢郎さんから戦争の話は一切聞いたことがなかったという。

定年まで当時の営林署に勤めた琢郎さん。
生真面目で、自分にも子どもにも厳しく、食事時には必ず「いただきます」と言うようにしつけられた。
そんな父親は18年前に死去。

遺品を整理する中で見つけたマフラーに記されていたのは「振武隊特別攻撃隊 天翔隊」という文字と父親の名前だった。
山本一清さん
「マフラーを見たときの最初の印象は『へえ~』というものでしたね。60歳近くになってから車の免許を取ったくらいですから、飛行機の操縦ができるなんてことは全く想像がつかなかったですね」

父の経歴には空白の2年間

さらに名古屋市に住む妹が、父親の経歴が記された書類を保管していたことがわかった。
初めて目にする父親の経歴。

そこには年代ごとの勤務先や住所、給料の額まで細かく記されていた。
しかし、戦時中の部分は
「昭和18年10月1日 仙台陸軍飛行学校二入隊」と
「昭和20年8月18日 召集解除ヲ命ゼラル」というわずか2行だけ。

21歳から23歳の間の空白の2年間に何があったのか?
なぜ父親は戦争について語ろうとしなかったのか?

折しも新型コロナの感染が広がっていた去年、自宅にこもり自由になる時間がふんだんにあった山本さん。父親の足跡をたどることにした。

短期間の訓練で特攻隊員に

まず、山本さんは父親や部隊の名前を手がかりにインターネットで調べた。

検索結果から父親が所属していた「振武隊」の部隊編成をまとめたホームページを発見。

そこには琢郎さんが旧陸軍の戦闘機の操縦士を短期間で育成する特別操縦見習士官として訓練を受け、その後、特攻隊に組み込まれたことが記されていた。
サイトの運営者に問い合わせると、特別操縦見習士官=特操出身の隊員たちが寄稿する会報などの存在も判明。

取り寄せると、父親が訓練のために栃木県や長野県、それに青森県など全国10か所を転々としたことや、訓練中に事故に遭い一命をとりとめたことも明らかになった。
山本一清さん
「わずか半年ぐらいで飛行機に乗れるようになって、1年足らずで実戦に向けられるということなので、よほど過酷な訓練だったのかなというのは想像がついた。無理やり自分を殺して、みんなと一緒に死にに行くんだという訓練を繰り返していたんじゃないかな」

父は”遺書”を残していた

さらに調査を進めると、佐賀県吉野ヶ里町の「西往寺」という寺で父親が終戦間際まで過ごしていたことが分かった。

山本さんは早速、寺を訪ねた。
寺によると、戦時中、ここは出撃する直前の特攻隊員たちの宿舎となっていて、53人の若者が戦地へ向かったという。

父親もここでおよそひと月を過ごし、近くにあった旧陸軍の「目達原飛行場」で訓練を受けていた。

驚くべきことに父親の遺書ともいえるものも残されていた。
そこに記されていたのは「後に続くを信ず」という言葉。

そして「国の為散れと示せし神鷲の御跡慕いて我も行くなり」という短歌だった。
先に出撃した仲間たちを思い、自分もその後に続いていくという覚悟がつづられていた。
山本一清さん
「後に続く人間がいなかったら、自分のやっていることが正しいのだろうかと思いますよね。みんな続いていくから、自分もやれるんだという部分もあるのかなと思いますね。だから、こういう言葉を自分自身の心のよりどころにしていたのかもしれません」

少女に贈った父の自画像

この寺で、山本さんは父親の意外な一面も知ることになった。
当時14歳の少女に贈った絵やはがきが残されていたのだ。
父の書いたはがき
「一日楽しく遊んで、兵隊さんはとても嬉しかったです。浜には子供たちが遊んでおり、波が岩に押し寄せる景色が目に浮かんで参ります。この次に行ったらまた遊びましょう」
持ち主は、伊藤玲子さん(92)
8年前、寺に寄贈していた。

昭和20年、家族で山形県の旅館に疎開していた時に琢郎さんと出会ったという。
伊藤さんは特攻隊員の生きた証を残したいと、自画像を描いてほしいとせがんだという。
伊藤玲子さん
「すてきな方で、親切で優しくて、面倒見がよかった。少女ながらに、こんないい青年が命を捨てちゃうのはもったいないと思いましたが、戦争中にそんなことを言ったら怒られちゃいますから、心の中でお祈りしました。どうぞ無事で、お帰りになりますようにと」
2人のやり取りから見えてきたのは、厳格だった父親とは異なる、やさしい、普通の青年の姿だった。
父親が特攻隊員だったと知ったときに感じた『別世界の人間』という感覚は無くなっていた。

父は死に場所を求めていた

父親は戦後、知り合いを頼って移り住んだ長野県で山本さんの母親の洋子さんと出会って結婚。
ことし4月に亡くなった母親は戦中、戦後を振り返り400ページを超える手記を残していた。
父親の足跡を調べる中、山本さんは、改めて母親の手記を読み進めたところ、戦後の父親の状況を記したページを見つけた。
「九州の基地で飛行訓練中に部下が墜落して亡くなった。翌日がくしくも敗戦宣言だったという。部下の死を目にして無念と責任感が錯綜し基地の周りの山野に死に場所を求めたという」
生き残ったこと自体が命を失った仲間たちを、そしてあの頃の自分を否定することになるとして、口を閉ざしたのかもしれない。山本さんはそう推測している。

そして、父親が様々な葛藤の中「生き残る」ことを決意したからこそ命がつながり、自分や子ども、孫も存在しているのだと平和のありがたさを感じているという。
山本一清さん
「特攻隊の生き残りの方が自決したという話は聞いたことがあったので、よく踏みとどまって生き残ってくれたなと。多くの犠牲を払う戦争が二度と起こらないように、一人一人が考えられるようになれればと思います」
空白の2年を埋める旅を終えた山本さん。
様々な偶然がつながり父親の姿がおぼろげながら見えてきたと感じている。

山本さんは調べたことを本にまとめ、父親が語らなかった戦争を伝えていこうと決意している。
World News部
上野大和

2012年入局。
長野、大阪、埼玉で事件取材を担当。2022年からWorld News部。日本やアジアのニュースを英語で発信している。