明豊の試合が行われた甲子園球場。
厳しい練習や学校生活、苦楽をともにした仲間の姿がありませんでした。
一塁側のアルプス席に置かれた遺影。
ベンチに入ることが出来なかった野球部員の座席の一番前から試合を見守っていました。
去年11月に亡くなった今の3年生と同学年の選手です。
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「孝成、見てたか?」友の死と向き合って
「孝成、頑張ったよ」
「一緒に戦えてよかった」
大分代表の明豊高校の選手たちがチームメートが写っている写真に声をかけました。
大切な仲間を失い、深い悲しみと向き合いながら憧れの甲子園の舞台に立っていました。
(大分放送局 記者 中野克哉)
仲間のいない甲子園
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ムードメーカーの吉川孝成さん
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吉川孝成さん。
小学3年生から野球を始め、憧れのプロ野球選手はソフトバンクの今宮健太選手でした。
その今宮選手の出身校、大分県別府市にある明豊に甲子園出場を目指して進み、中学を卒業して野球部の寮で生活を始めました。
ポジションは守りの要のキャッチャー。
明るい性格で笑顔が絶えず、まさにムードメーカーでした。
アルプス席から甲子園出場を誓った2人
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大阪出身の吉川さんは、地元が同じで中学生の時に対戦したことのある高橋佑弥選手と一緒に行動することが多かったといいます。
全国各地から選手が集まり学校とグラウンド、そして寮の間を往復する日々。
15歳で親元を離れ地元が同じということもあり、吉川さんの存在が何より心強かったといいます。
高橋佑弥選手
「明豊に入ってからは初めて会う人ばかり。自分は人見知りなところがあって、あまりすぐには人と話して打ち解けることができなかったので、同じ大阪出身で話したこともあった孝成とは、たくさん話すことができました。練習もしましたし、学校でも一緒の時間が多かったです」
去年8月、2年連続で甲子園に出場したチームは、3回戦で愛知の愛工大名電に敗れました。
吉川さんと高橋選手はともにアルプス席から声援を送りました。
憧れの舞台を目の前にして来年こそは2人であのグラウンドに立とうと誓い合いました。
新チームの遠征先で…
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甲子園で敗れた3年生が引退し、自分たちの学年がチームを引っ張っていく存在になりました。
“レギュラーになって、来年こそは憧れの舞台に立つ”新チームが日本一を目指して動き始めた直後でした。
8月下旬、宮崎県で練習試合が行われました。
チームは2つに分かれ、吉川選手と高橋選手は別々の場所で試合に出場しました。
この試合で、吉川さんはキャッチャーとして出場していましたが、ファウルチップが鎖骨近くに直撃。
その場で倒れて意識を失い、病院に搬送されました。
高橋選手たちはその日の練習試合が終わったあと、ミーティングで、倒れたことを知らされました。
「意識がなくても声は届く!」
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新チームの最上級生は全員が寮生活をする決まりです。
およそ30人で共同生活をしていました。
選手たちの私生活をキャプテンのようにまとめていた高橋選手は寮長になりました。
吉川さんが倒れてから2日後、チームメートの声を届けたいという思いを副寮長の2人に提案しました。
きっかけは高橋選手の経験からでした。
高橋佑弥選手
「以前、身内が孝成と同じように意識がないような状態になったことがありました。そのとき、親から『意識がなくても声は聞こえている』と言われたことがあったので、みんなの声だけでも孝成に届けようと始めました」
3人を中心に、チームメートは毎日、吉川さんを励ますメッセージを動画に撮って送り続けました。
学校行事のときや秋の九州大会に出場した際は、試合が行われた沖縄から同学年の全員が集まってメッセージを届けました。
毎日送られた 吉川さんへのメッセージ
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「孝成、帰って来いよ!」
「孝成、ブルペンで待ってるで!早く俺の球、受けてな!」
「孝成、元気になって部屋戻ってきてまた消灯後、いっぱい2人で語ろうや!」
「孝成、早くご飯作ってね。大好き!帰ってきてー!」
「孝成、体育祭、優勝したで!あとひとふんばり、頑張れよ、孝成!頑張れ!」
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11月4日のメッセージ
「孝成、おはよう。修学旅行の班も決まって、修学旅行もだいぶ近づいてきてみんなめっちゃワクワクしてるで。孝成も修学旅行までには帰って来いよ。頑張れ、孝成!」
翌日11月5日の早朝に吉川さんは息を引き取りました。
打球が当たってから2か月半がたっていました。
その日も高橋選手は1人でメッセージを撮影して送っていました。
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11月5日のメッセージ
「孝成、11月5日の朝やで。この冬を全員で乗り越えてまたいちから頑張るから、孝成も一緒に頑張ろうな。頑張れ!!孝成」
このメッセージは届くことはありませんでした。
18回目の誕生日
ことしの4月17日。
吉川さんの両親宛てに新しいメッセージを送りました。
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4月17日のメッセージ
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア孝成。ハッピバースデートゥーユー。おめでとう!孝成、誕生日おめでとう!夏は33人、全員で甲子園行って優勝しよな!頑張るぞ!」
この日は吉川さんの誕生日、18歳になるはずでした。
チームメートの3年生全員が、3か月後に始まる甲子園出場がかかる大分大会に向けて、選手たちの決意を込めて、みんなで贈った誕生日プレゼントでした。
バッティングマシーンが届く
厳しい冬のトレーニングを終えた春ごろ。
3年生を中心に打撃が不調となり、試合で結果を出せずに練習試合の先発メンバーとして2年生が多く出ていて、県外への練習試合に出場する選手の半分以上が下級生という状況になっていました。
チームの立て直しを図る中、大型連休の練習中にバッティングマシーンが届きました。
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吉川さんの両親がチームに贈ってくれたのです。
毎日、動画で励ましてくれた感謝の気持ちからでした。
「『甲子園に出場して日本一になる』という吉川さんの夢をみんなでかなえて欲しい」と伝えられました。
孝成が投げている!
このバッティングマシーンでひらすらバッティング練習を続けました。
毎日1時間半以上マシーンで打ち込み打撃を鍛え直した選手たち。
まるで吉川さんが投げてくれているように感じています。
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高橋選手
「孝成が投げる球だと思って。3年生の調子が悪い中で孝成がしっかりしろよと言っていると思って、打たないといけない」
『孝成とともに』という合言葉で臨んだ大分大会。
打撃が威力を発揮して決勝に進み、先制のチャンスで打席を迎えたのは寮長の高橋選手でした。
レフトへの先制タイムリーヒット。
これが決勝点となり明豊高校は3年連続の夏の甲子園出場を決めました。
甲子園でも一緒に
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今月2日、甲子園に出発したチームはバッティングマシーンも一緒に持って行きました。
大舞台でも吉川さんとともに戦うためです。
現地に入りバッティングマシーンを使って、打ち込みました。
試合を翌日に控えた高橋選手は「あすは大事な初戦。孝成きょうも練習よろしくね、という思いで打席に立ちました」。
迎えた初戦の日。
試合前のミーティングで「試合に入れば相手との戦いだから、孝成も一緒に戦ってくれているけど意識にせずに戦っていこう。相手としっかり向き合って勝負して、それで勝って孝成に勝利を届けよう」と監督から言われ、選手たちは吉川さんの思いを胸に試合に臨みました。
1回戦の相手は南北海道の北海高校。
全国最多となる40回目の出場です。
アルプス席にはベンチに入れなかった吉川さんの遺影が見守りました。
そしてバッティングマシーンを贈ってくれた両親の姿もありました。
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吉川さんの父・聖哉さん
「孝成をここまで連れてきてもらって感謝しかありません。自分らしく明豊らしく大暴れしてほしい。孝成はなにも言わずにここで見ていると思うので、一緒に最後まで戦ってくれたらいいかなと思います。全力でプレーしてほしい」
打線はバッティングマシーンで打ち込んできた力を出して、ヒット15本を打ちました。
しかし、延長10回タイブレークの末、惜しくも敗れました。
高橋選手(7番で先発出場、ヒット1本を打つ)
「孝成と一緒に甲子園で戦えたことは本当に一生の財産です。大阪に来てからも孝成のバッティングマシーンを使って、毎日練習を続けて、チームでヒット15本を打てたのは、孝成が最後に力を貸してくれたと思います」
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高橋選手
「孝成、本当にここまでありがとう。日本一になって報告をしに来るつもりだったけど甲子園では一勝も届けられなくてごめんね。でも、孝成の力無くしてはたどりつかなかった場所だよ。自分たちは大好きな野球で戦えることがほんとに幸せだなと孝成が命を懸けて教えてくれました。苦しかったよね。本当に頑張ってくれてありがとう」
【NHK特設サイト】夏の甲子園2023
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