“日本人を殲滅せよ” アメリカ従軍記者は何を見たのか

“日本人を殲滅せよ” アメリカ従軍記者は何を見たのか
80年前の太平洋戦争で、戦場に身を置きながら日米の戦いを記録した人物がいる。タイム誌の記者、ロバート・シャーロッド。彼は、日本兵が命をかえりみずにアメリカ軍に突撃する様子や、勝てないと悟ったときにみずから命を絶つ姿に衝撃を受けた。

シャーロッドが伝えた日本兵の姿は、アメリカ国民にも衝撃を与え、やがて容赦のない激しい攻撃へとつながっていく。当時、アメリカ人ジャーナリストの目から、日本兵はどう見えていたのか。シャーロッドが残した膨大な文書からたどる。

(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」取材班 村山世奈)

※本文では戦時中の事実を忠実に伝えるため、当時使われていた差別的な表現を原文のまま掲載しています

戦場の日本人を記録した膨大な取材記録

ニューヨークにあるシラキュース大学。ジャーナリスト志望の学生が学ぶ大学院があることで知られている。ここに、ロバート・シャーロッドの資料が所蔵されている。
資料は、1964年にシャーロッド本人が寄贈したもので、42箱にのぼる。タイム誌などに掲載された記事だけでなく、草稿段階の原稿や、友人へ送った手紙の写しも含まれている。

シャーロッドが太平洋戦争のさなか、1944年1月に知人へ送った手紙に、こうつづられている。

「我々アメリカ人は-陸軍も海軍も国民も-、誤解のもとにこの太平洋戦争に突入したと思う。私たちは、日本人の強さについて全く知らなかったのだ」

当時アメリカでは、戦意高揚のために作られた戦争映画などで、強く勇敢なアメリカ兵と、劣った日本兵という対比で描かれることが多く、日本との戦争は早く終わると考えていた国民も少なくなかった。

しかし、シャーロッドはこの前年、2つの戦場で日本兵の衝撃的な姿を目の当たりにしていた。その経験が、彼の日本人観を大きく変えていく。

目撃した自決 「西洋人の心では理解しがたい」

34歳だったシャーロッドが初めて日本兵と対峙したのは、1943年5月の「アッツ島の戦い」だった。北太平洋・アリューシャン列島の一角をなすアメリカ領の島で、ここを占領した日本軍から島を奪い返す作戦だった。
アメリカ時間5月11日(日本時間の12日)、アメリカ軍は1万人を超える兵力で上陸し、日本軍の守備隊2600人を追い詰め、大部分を壊滅させていった。勝敗はもはや明白だった。日本軍には援軍も補給も来ず、まもなく戦闘は終結するかに思われた。しかし…。

シャーロッドの原稿
「逆上し、やり場のない気持ちを抱えた800から1000名のジャップ(原文ママ)が狂ったように支離滅裂な言葉を吐きながら軍刀と旗を振りかざしながら突撃し、死んでいった」

「そればかりでなく、500人以上と推測される多くのジャップが自害した。まだアメリカ人を殺すことができたかもしれないのに、自らの腹部に手りゅう弾を押し当てて内臓を吹き飛ばして死んでいった」

「大量のグロテスクな死体を見て、動揺した若い将校が言った。『これは正常な軍務じゃない』」
上陸から2週間以上たった5月28日(日本時間の29日)、アッツの戦いは終わった。生き残っていた日本兵100人ほどが、わずかな武器を手に、死を覚悟の上でアメリカ軍に総攻撃をしかけてきたのだ。

5月31日の原稿
「島に残っているほとんどすべての日本人が団結し、自分たちが死ぬ前にできるだけ多くのアメリカ人を殺そうと、最後の決死の努力をした。この狂信の結果は想像を絶するものであった。少なくとも半数の日本人が自殺している。その暴力的な光景は、西洋人の心では理解しがたいものである」

日本兵の心のうちを探る

シャーロッドの目には「死に固執している」と映った日本兵。一方で、別の一面も記録している。負傷してアメリカ軍に捕らえられた日本兵の姿だ。

「食事が与えられ、暖かい衣類も得られると知って、多くの捕虜が喜んでいる――感謝の気持ちがかなりあふれ出ている。大尉が『あなたはアメリカの戦争捕虜であるから、国際法の定めに従い最良の扱いを受けることになる』と言うと、一人のずんぐりとした小さなジャップが、飛び上がって敬礼し、満面の笑みを浮かべ、自分を捕らえた兵士らにしつこく握手を求めた」

「ほとんどの人は、生きていてよかった、と思う普通の人である」

突撃や自決を繰り返す日本兵と、食事に歓喜する日本兵。その乖離にシャーロッドは関心をひかれたようだ。
アメリカ軍は、日本側の機密情報や士気を探るために、日本兵の日記を収集して翻訳していたが、シャーロッドも熱心に読み込んでいる。そして、不平や不満が記されていないことに驚いている。

「あらゆるみじめさや失望の中で、日本人は不平を言わないのだ。ジャップは『いったいどうして増援をよこさないんだ』とか『また大失態だ。この凍てつく塹壕の中で食料も毛布もない』とは言わない」

「自分の頭で考えられることを示す証拠すら見せない。上官に対して決して声を荒げたりしない。なぜならそれは確立された権威に逆らうことになるからだ」

シャーロッドは「ジャップ」という差別的な言葉を用いて、日本人を「だまされやすく、ひたむきな小さな兵士」と表現している。

そして、こう記している。

「ジャップを制圧するのはたやすいことではない」

恐怖のタラワ

アッツ島の戦いを目撃し、日本兵の姿を伝えようとしたシャーロッドだったが、その思いを十分に果たすことはできなかった。検閲によって、日本兵の日記に関する部分は削除され、原稿が掲載されたのは1か月後。その間に、アッツ島での大勝利が報じられ、シャーロッドの記事は埋没してしまったのだ。
その一方で、アメリカ政府も国民の対日戦への危機感の薄さに懸念を持っていた。軍需産業ではストライキが起き、戦争継続の資金集めのために発行した公債も、思うように売れていなかったのだ。そこで国民の意識を変えようと、戦場でのアメリカ兵の奮闘を積極的にメディアで報道する方針を打ち出す。そして1943年11月、シャーロッドは再び、海兵隊を中心とした大規模な作戦に同行できることになった。

作戦の舞台は、赤道近くに浮かぶ小さな環礁、タラワ島。日本が4601人の守備隊を置いて占領していた。

この戦いが、シャーロッドの、そしてアメリカ国民の対日観に大きな影響を与えることになる。
アメリカ軍が1万8600人の兵力で島に押し寄せたのは、11月20日(日本時間21日)。上陸に先立って艦砲射撃と空からの爆撃で日本軍の陣地を攻撃した。爆撃の炎は百数十メートルもの高さまで噴き上がったという。

船上で見ていたシャーロッドは、「このような砲撃を受けて生きていられる人間は1人もいないだろう」と記している。しかしその油断が、のちに「恐怖のタラワ」と言われる惨劇を引き起こす。

11月22日の原稿
「水陸両用車から水中に飛び込んだ。それは首まである深さだった。その時、我々は機関銃の集中砲火を浴びせられることになる。何百発もの銃弾が飛んできた。ジャップは死んでいなかったのだ」

水陸両用車はサンゴ礁のために足止めされ、アメリカの兵士たちは浅瀬を歩いて海岸に渡るしかなかった。水中の兵士たちは格好の標的となった。日本兵は地下に堅牢な陣地を築き、爆撃を生き延びていたのだった。

多くの死傷者を出しながら、アメリカ軍は上陸を果たしたが、日本軍は頑強に抵抗した。

上陸1日目
「5分ごとに数十人の海兵隊員は殺されるか負傷していた。ジャップの狙撃兵はヤシの木の上に隠れるか、土で覆われたヤシの丸太の下に用心深く隠れていたため、ほとんど姿を見ることはなかった。要塞の隙間や、浜辺の後方から機関銃が米兵に掃射された。中尉は『やつらの姿が見えないのに、いったいどうやって撃ったらいいんだ』と歯ぎしりした」

上陸2日目
「朝、干潮になると悲惨な光景があらわになった。サンゴ礁の干潟にアメリカ海兵隊員たちが横たわっていたのだ。ある者はグロテスクに身を丸めていたが、みんな前に突撃している姿で倒れていた。ある者は赤道直下の輝く太陽に向かって腕を広げて倒れていた。この島の海兵隊を指揮している、巨漢で恐れ知らずの、首の太いデビッド・シャウプ大佐は、冷静にこういった。『我々は大変な窮地に立たされている』」
2日目の午後から徐々に形勢が逆転した。日本の陣地をアメリカの援軍が空から爆撃し、上陸した戦車が至近距離から1つ1つ破壊、火炎放射器で焼き払っていった。

やがて日本軍の敗北は明らかになった。しかし、日本兵は爆雷を抱えて戦車の下に飛び込み、ひとりでも多くのアメリカ兵を道連れにしようとした。そして、シャーロッドはアッツ島と同じ光景を再び目にすることになる。

11月24日に書かれた原稿
「ジャップの反撃は3日目の晩に島の後尾で始まった。この戦闘終了後、300名ほどのジャップの遺体が列をなし、積み重なって残された。2人の将官は、多数のジャップが手りゅう弾や小銃で自殺した様子を目にしたという。自殺の総数は数百にのぼるとみられる」

この戦いで、4601人の日本軍はほぼ全滅、一方のアメリカ側も1000人以上の死者を出し、2000人以上が負傷した。凄惨な戦いを目にしたシャーロッドは、ある結論を書いている。

「日本人はここで殲滅(せんめつ)しなければならない。やつらが我々の子供たちに二度と立ち向かえないように。その過程で何十万人ものアメリカ人が死ぬかもしれない。しかし、それが唯一の方法だ」

アメリカ国民が抱いた憎しみ

タラワの戦いは、戦場のアメリカ兵の姿を積極的に伝えるとの政府の方針のもと、撮影スタッフが同行し悲惨な戦闘の一部始終を映像で記録した最初の戦場だった。しかし、想定外の犠牲が出たため、どこまで公開するのかアメリカ政府は対応に苦慮する。

シャーロッドは、ルーズベルト大統領に直接意見を求められている。

12月28日 上司への手紙
「大統領は『このタラワの映像をどう思うか』と言った。彼はこう付け加えた。『かなりむごたらしいんだ。遺体がたくさん写っている』。私は当たり前のこととしてこう答えた。『戦争はむごたらしいものですよ、大統領』。そして、『公表するべきでしょう』と言った」

1944年3月、タラワの戦いを記録したフィルムが、ドキュメンタリー映画「With the Marines at Tarawa」として公開された。そこには、砂浜に横たわる無数のアメリカ兵、焼けただれた遺体が映し出されていた。

あるアメリカ市民はこう語っている。

アメリカ市民の声
「アメリカ兵の遺体が波間に浮かんでいる。私たちはただただ打ちのめされた。日本人への嫌悪感は激しいものとなり、ジャップを殺さなければならないと思うようになった。私たちは戦争を終わらせなければならない」(Geoffrey C.Ward,Ken Burns「The War:An Intimate History,1941-1945」)
その後シャーロッドはサイパン島の戦いにも従軍し、日本兵ばかりでなく一般市民までもが投降せず死を選ぶことに、改めてショックを受けている。

「戦いの果てにアメリカ人が見たものは、気が遠くなるような、とても信じ難いものだった。理解するためには、人間の思考プロセスに関する西洋人の概念をすべて捨て去らねばならなかった。サイパンの最北端で、日本の民間人の大部分が平然と、意図的に自殺していた。数百人、あるいは数千人の人間が、日本人が愛情を込めて言う「天皇の盾」として死ぬことを選んだのだ」

そしてシャーロッドは、特攻隊による自爆攻撃を目撃、硫黄島の戦い、沖縄戦にも従軍し、日本人の姿を伝え続けた。

この間、アメリカ国民にとっての日本人は、「ちっぽけで弱い」存在から「滅ぼすべき存在」へと変わっていった。

シャーロッドの思いは?

日本人を、理解できない殲滅すべき存在として描きだしたシャーロッド。それが戦時報道の一翼を担った彼の役割だったのかもしれない。一方で、日本兵を尋問した将校に話を聞き、日本兵の日記を読み込む姿からは、取材者としての姿勢も感じ取れる。

シャーロッドは太平洋戦争の終結後も、日本との関わりをもちつづけた。アメリカなどの占領を経て、日本が独立を回復した1952年、特派員として東京で暮らし始め、焼け野原から復興する姿や、物価の高騰などを取材した。1994年に85歳で亡くなっている。

シャーロッドの思いに迫りたいと、アメリカ ペンシルベニア州に暮らす次男を訪ねた。
父の名前を継ぐ次男は、父親と目元がよく似ていて、「コンニチハ」と日本語で出迎えてくれた。10代のとき、父とともに家族で東京に暮らしていたのだ。

父から太平洋戦争について聞いた記憶はほとんどないという。一方で、記者という仕事に対する強いこだわりを感じ取っていた。

次男 ロバート・シャーロッド・ジュニア
「父は、本物の記者になりたかったのだと思います。『多くの記者は、実際に起こっていることを体験しない。でも、アメリカ兵のことを書くのであれば、彼らと同じ経験をしなければならない』と言っていました。『ありのままを伝えること』―これが、父にとってとても重要なことでした。家庭でもそうで、私が何か大げさに言ったりすると、叱られたものです」

シャーロッドは、日本人をどうとらえていたのか。そう尋ねると、少し意外な答えが返ってきた。

次男 ロバート・シャーロッド・ジュニア
「父は、日本のある言葉についてよく話していました。『義務はとても強いが、死は羽よりも軽い』と(軍人勅諭にあった『義は山嶽よりも重く 死は鴻毛よりも軽し』を指すと思われる)。彼がよくそう言っていたのを覚えています。アメリカ人にとっては生きることがとても大切ですが…。
ただ、私が言えるのは、任務に対して強い思いを持つ日本人と、父自身も少し似ていたのではないかと思います。私はそれがあまり好きではなかったけどね。父が日本人を嫌っていたとは思いません。ただ、真実を伝えたかったんです」
真実を伝えたいと願い、戦場の現実を記録しつづけた記者、ロバート・シャーロッド。彼の書き残したものをたどると、理解しがたい存在が、憎しみの対象へと変わっていく人間の心理が見えてきた。それは、80年たった今も世界中で起きていることと変わらないのかもしれない。
社会番組部 ディレクター
村山世奈
2015年入局
沖縄局 首都圏局をへて2021年から現所属