“1.2%”の証言者~38年前の夏の教訓をつなぎ続ける

“1.2%”の証言者~38年前の夏の教訓をつなぎ続ける
「お盆で家族が待っているからうれしいよ」

私が夕方の便に空席が出たことを伝えると、笑顔で便を変更した男性。

しかし、その人たちを乗せた123便は御巣鷹の尾根に墜落し、520人が亡くなりました。

あの夏から38年、日本航空で当時を知る社員が1.2%になった今、退職を前に伝えておきたいことがあります。

(社会部記者 山下哲平)

「あんなお声がけしなければ良かった」悔やんだ38年

伊藤由美子さん。短大を卒業後、羽田空港で日本航空の地上係員として働き始めました。
38年前の8月12日も、出発ロビーのカウンターでチケットの発売や予約変更を担当。午後6時に大阪に向かう予定の123便は、締め切り間際になっても空港を訪れない予約客が多かったといいます。

案内表示が「満席」から「空席あり」に変えられ、「どなたでも123便へのご変更が可能です」というアナウンスがされると、遅い便を予約していた乗客が次々とカウンターを訪れました。

『早い便が空いているのでいかがですか』

そう案内した伊藤さん。

『お盆で家族が待っている家に少しでも早く帰れてうれしいよ、ありがとう』
『最終便しか予約が取れなかったので、早い便に乗れて良かった』

乗客たちはそう言いながら便を変更していったといいます。
伊藤由美子さん
「『助かったよ』『ありがとう』と言って、走るように搭乗口に向かうお客様が多かったです。まさかあんなことが起きるとは思っていませんでしたので私も『よかった』と思っていました。その時のお客さまの顔と声は今も忘れられない」
午後6時12分に羽田空港を離陸した123便。少したって、カウンターにいた伊藤さんに1人の乗客が聞いてきました。

『ロビーで待っていたら、テレビのニュース速報でJALの飛行機の機影がレーダーから消えたって出たんだけど本当?』

驚いてバックオフィスの様子を見に行くとすでに混乱した状況で、とても話しかけることができない光景が広がっていたといいます。ほかの便の案内があるためカウンターに戻ったものの、仕事ができる心境ではなかったと振り返ります。
伊藤由美子さん
「『信じたくない』『あったら絶対困る』と思いながらも胸騒ぎがどんどんどんどん大きくなりました。自分では普通に仕事をしているつもりでしたが、体の震えが止まらなくて、話しているはずのあごがガクガクして、早くここから逃げ出したいような気持ちになったことを覚えています」
123便は離陸から44分後の午後6時56分、群馬県の「御巣鷹の尾根」に墜落。奇跡的に助かった4人を除く、乗客乗員520人が犠牲となりました。伊藤さんは、あの時、空席を案内しなければと悔やんだといいます。
伊藤由美子さん
「日常的に行っている当たり前の仕事ではあったんですけども、事故が起きたと知った時は『あんなお声がけしなければよかった。そうしたら123便に乗り換えなくてもすんだかもしれないのに…』という思いでいっぱいでした」

「ぼく、すごいね」送り出した少年も…

伊藤さんには今も鮮明に記憶に残っているやりとりがあります。

123便の搭乗手続きのさなか、子どもが1人で飛行機に乗るための手続きをしていた母親に、ぴったりと寄り添うように立っていた男の子。伊藤さんは、どことなく不安げな表情に見え、「出発間際になって急に心細くなったのかな」と感じて思わず声をかけました。
伊藤さん「ぼく、もしかしてきょう1人で飛行機乗るの」
びっくりしたような表情をした男の子に代わって、母親が答えてくれました。
母親「そうなんです。初めての1人旅で大阪に行きます」

伊藤さん「ぼく、すごいね。1人で飛行機乗って大阪に行くんだ。夏休み楽しんで来てね。いってらっしゃい」
のちにその子も亡くなったことを知ります。

美谷島健くん、9歳。

野球が大好きな少年でした。
伊藤由美子さん
「私自身も事故の翌年に初めて出産して親になり、大切な息子を見送った母親の気持ちを考えたら本当にいたたまれなくて。

母としての気持ちをあのときのお母さんに重ねて、毎年毎年夏になるとそればかり思い出されます。会社としての責任は非常に重かったですし、あんなことは世界中で二度と起きて欲しくないと思いました。

あのときあそこで人生を終えることになってしまったお客様の気持ちを考えると、またその周りのご家族や関係者のことを考えると、あの事故を経験した1人としては、絶対事故は起こさない、そして起こさないために伝え続けなければいけないと思ってきました」

「1.2%」154人にまで減った当時を知る社員

日本航空では、伊藤さんのような当時を知る人の経験や思いを、事故を防ぐことにつなげようと模索を続けています。それは安全への取り組みの中の「三現主義」という考え方に込められています。

「三現主義」
“現地”=墜落した現場に出向くこと。
“現物”=事故機や遺品を見ること。
“現人”=当時を知る人の話を聞くこと。

「常に墜落事故の教訓に立ち返るべきだ」という考えが示されています。
伊藤さん自身、5年前から事故機の残骸や遺品などが展示されている「安全啓発センター」で案内役を務めています。

今月行われた研修にはパイロット訓練生が参加。伊藤さんは、およそ10メートルある事故機の巨大な垂直尾翼の前で、あの日、どのように事故が起きたのか、自分自身の経験とともに伝えています。
ただ、伊藤さんのように当時から働いている社員はことし3月末時点で154人と、全体のわずか1.2%にまで減少。その伊藤さんもこの秋に退職となります。

“教訓をつなぐ”新たに始まった研修で出会ったのは…

事故の教訓をどうつないでいけばいいのか、大きな課題となる中、去年、新たに始まったのは中堅社員を対象とした研修です。
それまでの入社時と管理職への昇格時に加えて、10年目を目安にグループの社員全員が「御巣鷹の尾根」に登ります。

「現場」で学ぶ機会を増やし、仕事や家庭で節目となり得るタイミングで、改めて安全について見つめ直してもらう狙いです。

先月26日の研修に参加したのは羽田空港や那覇空港など各地で働く整備士や地上係員など16人です。当時の墜落現場の状況について説明を受けながら50分ほどの山道を登っていきます。

そして、慰霊碑がある場所にたどりつくと偶然、墜落事故の遺族と出会いました。
美谷島邦子さん。あの日、伊藤さんが声をかけた美谷島健くんの母親でした。

美谷島さんは、その後、事故の遺族でつくる連絡会の事務局長を務め、日本航空などに再発防止を求めるとともに、教訓を語り継ぐ活動を続けてきました。

この日も、8月12日の慰霊登山を前に、登山道などの整備を行う夫と一緒に尾根を訪れていました。偶然出会った研修生たちを前に美谷島さんは、こう語りかけました。
美谷島邦子さん
「ここで一人ひとりが感じたものを大切にして、それを日々のお仕事に生かしていただきたいと思っています。私たち遺族も38年間、一緒に安全を守ってきました。これからも一緒に安全を守っていきたいと思っています。日々、一緒に頑張っていきましょう」
そして、当時9歳で犠牲になった健くんの銘標に、研修生たちとともに手を合わせました。
美谷島さん
「日本航空の若い人の顔を見ると、事故を伝えてくれていることが感じられてうれしい。日本航空は御巣鷹から、いまがあるわけだから」
“安全の礎”とも言える場所を訪れ、美谷島さんからも思いを受け取った研修生たちは。
成田空港で働く整備士
「新人のころは先輩に仕事を見せてOKをもらう形だったんですが、いまは自分が見てOKなら飛行機を出すという立場になっているので、新人で登った時と違いはありました。飛行機『1機』ではなく、その先にお客さん『1人ひとり』がいるということを意識しながら気を引き締めて仕事をしたい。迷ったら立ち止まって、絶対の自信を持ってから飛行機を出すというところを研修を踏まえて今後やっていきたいと思っています」

“事故を起こした会社だからこそ”退社を前に伝えたいこと

単独機としては世界最悪の航空機事故となった、日航ジャンボ機墜落事故。しかし、その後も空の安全を脅かすようなトラブルは、国内でも起きています。

事故を起こした日本航空でも、パイロットからアルコールが検出される問題が5年ほど前に相次ぎ、国土交通省から1年間に2度も事業改善命令を受けました。
この秋には退職する伊藤さん。社員として最後に迎える8月12日を前に、こう話していました。
伊藤由美子さん
「私にとって8月12日は、二度とあんな日は来てはいけない。あんな事故は起こしてはいけないそんな日です。

事故後に入社した社員、事故後に生まれた社員にとっては“昔に起きた事実”となってしまうと思うんですが、それをいかに“自分ごと”として考えて行動に移していけるか考えながら、研修教育を続けてきました。

今までは、事故を経験した社員が本当にじかに社員たちにつないで話してきておりましたが、だんだんそれが世代交代で難しい年代に入ってきています。

それでも、事故を起こしてしまった会社ですので、どれだけの方々にご心痛と苦しみを与えてしまったかを知っていますし、次にできることがあると思っています。

これからの社員は事故を経験していませんが、今まで事故を経験した社員から聞いたこと、それを次の世代に伝えていって欲しいと思います」
社会部記者
山下哲平
2013年入局
北九州局、成田支局を経て社会部で航空取材や鉄道取材を担当