戦国武将 伊達政宗が前線の家臣を慰労 約430年前の書状発見

戦国武将の伊達政宗が、およそ430年前、領地の前線で警備を固める家臣を慰労し、警戒を指示していたとみられる書状が新たに見つかりました。調査を行った専門家は「緊張状態にある当時の状況がうかがえるとともに、家臣を気遣う政宗の人柄がわかる価値のある発見だ」としています。

この書状は、宮城県石巻市にある石巻市博物館が、過去に寄贈を受けた大量の文化財を整理する中で新たに見つけました。

博物館によりますと、書状は縦横ともに30センチほどの大きさで、織田信長が本能寺で討たれた7年後の天正17年=西暦1589年、伊達政宗が領地の拡大を図り、前線となる今の福島県北部を攻略していた際に、家臣に送られたとみられています。

書状には、
▽敵からの攻撃に備え警備を固めていた家臣に、感謝の気持ちを示したうえで、
▽「負担をかけるが警戒を続けてほしい」と家臣を慰労したり、指示したりする内容が記されているということです。

具体的に、誰に宛てた書状なのかはわからないということですが、署名にあたる花押には、政宗の特徴があり、家臣に対して使用するものと同じだったことなどから、博物館では、家臣宛の政宗の書状だと判断したということです。

調査を行った戦国時代の東北地方の歴史に詳しい、石巻市博物館の泉田邦彦学芸員は「敵がいつ攻め込んでくるかわからない緊張状態にあったことが書状から伝わってくる。家臣に直接指示を与え、気遣い、ねぎらうなど、政宗の人柄もうかがえる価値のある発見です」と話しています。

駒ヶ嶺城を奪ったあと送られた書状か

石巻市博物館の泉田邦彦学芸員によりますと、書状には、正確な年は記載されていないものの、内容や花押から、今の福島県北部、新地町の付近にあった駒ヶ嶺城を相馬氏から奪ったあとに、送られたとみられています。

書状では、織田信長が本能寺で討たれた7年後の戦国時代に政宗が領地の拡大を図る中で、いつ相馬氏が攻めてくるかわからない駒ヶ嶺城付近での警備にあたる家臣が守りを固めていることに「心から喜んでいる」と、感謝の気持ちを示しているということです。

そのうえで、「この地域の土地の支配権を与えるので、負担をかけるが、警戒を続けてほしい」と指示しているということです。

書状は、縦横ともに30センチほどの大きさで、掛け軸にする際に形を整えるため、宛名を記した部分が切り取られたとみられています。