“玉砕”の島から家族へ 兵士たちの“最期”の手紙

“玉砕”の島から家族へ 兵士たちの“最期”の手紙
アッツ島とタラワ島―太平洋の北部と中部に浮かぶ、2つの小さな島は、太平洋戦争当時、日本軍が占領下に置いた最前線だった。80年前の1943年、上陸したアメリカ軍を前に、日本軍の部隊が全滅。新聞やラジオは「玉砕」と大々的に報じ、多くの国民が戦局の悪化を知る、転換点となった。

死者はアッツ島でおよそ2600人、タラワ島で4500人にのぼる。その一人ひとりに、愛する家族たちがいた。

遺族のもとには、島から送られてきた手紙が大切に保管されていた。「潔く玉砕した」とされた将兵たちは、どんな思いを届けようとしたのか。そして、遺族たちはどんな戦後を生きることになったのか。

(NHKスペシャル「新・ドキュメント太平洋戦争」取材班 村山世奈)

「呑気(のんき)にやって居ります」言葉の裏に何が

アッツ島は、太平洋の北にあるアリューシャン列島を構成する島の1つだ。面積は佐渡島ほどで、ツンドラに覆われた地面は起伏が激しく、1年を通して暴風や深い霧などの悪天候が続く。

太平洋戦争開戦から半年ほどが過ぎた1942年6月、日本軍はアメリカ領のこの島を占領した。
「本艦は全速を上げて熱田島に向かって居ります。幸い晴雲よくたれこめて敵飛行機にも発見されず無事上陸出来そうです」
※以下、手紙の旧漢字、旧かなづかいについては読みやすいよう改めています
アッツ島へ向かう船上で書かれた手紙がある。日本がアッツ島を占領してから半年余り、守備隊の一員として送られた将校が、両親に宛ててつづったものだ。

当時、アッツ島は日本風に「熱田島」と呼ばれていた。通常、地名は軍事機密にあたるため記すことはできないが、みずからが検閲係だったため「熱田島」と書くことができたとみられる。

日付は1943年1月31日。周辺海域では、アメリカ軍が潜水艦による攻撃を強化していた。
「そろそろ夜のトバリがやってくる時刻です。夜になると敵の潜水艦の襲撃が考慮されますが汽船と違い防備が備わっておりますので、その方の心配は無用です。上陸さえ出来たらわれわれのものです。身体の調子も至極良好ですからその点どうぞ御安心下さい。今夜上陸です」
書いたのは、29歳の陸軍中尉 岡崎裕雄さん。北海道の寺の五男として生まれた。スポーツが得意で、なかでもスキーは大学生のとき国体に出場したほどの腕前だった。

岡崎さんには一人娘がいた。アッツ島へ上陸する2か月前に生まれたばかりの裕子さんだ。誕生のときすでに岡崎さんは出発の準備で千島列島の北端に近い幌筵島にいたため、娘と対面できなかった。

そして、アッツ島の戦いによって、父と娘が会うことは永遠にかなわなかった。
娘の裕子さんは80歳になった。遺された手紙が唯一、父の心のうちに触れる手がかりだという。
浅野裕子さん
「父の手紙は、10年前に祖父母の遺品を整理していたとき偶然見つかったんです。驚きました。父からのメッセージのような、不思議なものを感じました。父は私の母にも手紙を送っていたのではないかと思いますが、63歳で亡くなった母からは聞いたことがなかったので、これだけなんです」
1943年1月末にアッツ島に上陸した岡崎さん。アッツ島から当時東京にいた両親に書かれたはがきは4枚ある。そこには、何気ない日常がつづられ、「安心してください」ということばが並ぶ。
2月10日の日付のはがき
「拝啓、無事に任地に到着致しました。御安心下さい。当地は毎日みぞれが降り、盛岡などと比較致しますと非常に暖かです。雪も降っては消え、スキーなどもあまり利用価値がないくらいです。魚の多いのには驚いております。エサは「たくわん」「人参」などで二尺五寸以上の鱈、その他いろいろの魚が全く面白い程とれます」
日付不明のはがき
「雪も段々と解け、日一日と春近しを想わせる気候となって来ました。お願い致しました七色粉(カラシ)(味噌ツユなどにかける品)をお送り下さい。又、ウニがもし手に入る様でしたらウニも」
日付不明のはがき
「2月10日附お便り拝見致しました。東京は桜の盛りで街も一段と賑わっている事と思われます。当地はますます天候不良で、雨、雪、風と毎日の様に変わります。しかし至極元気で生活しておりますれば他事ながら御安心下さい」
そして、アメリカ軍が上陸する1か月前に書かれたとみられるはがき。はがきの半分は不自然に空いているが、内容は変わらず平穏であることを伝えている。
4月14日の日付のはがき
「拝啓、四月も早や半ばを過ぎました。しかし天候は相変わらず真冬となんら変わらない状態であります。東京も桜は散り初夏の候と思われます。御両親様をはじめ皆様相変わらずの事と思います。御老齢の事とて尚一層、御自愛の程をお願い申し上げます。呑気にやって居りますから、どうぞ御安心の程を。皆様によろしく。では又」
実際にはこのころ、アッツ島はアメリカ軍機から徐々に攻撃を受け始めていた。娘の裕子さんは「呑気(のんき)にやって居りますから、どうぞ御安心の程を」という言葉の裏にあった父の本心に思いをめぐらせている。
浅野裕子さん
「父の両親も高齢でしたから、心配させまいと、安心してもらいたくてこう書いているのかもしれませんね。アメリカ軍が上陸してからはもうそんな手紙も書く余裕も無かったでしょうし、父の最後っていうのはよく分からないんです」
これが、父からの最後の便りとなった。

米軍資料から浮かび上がる 兵士たちの叫び

アメリカ軍がアッツ島に上陸したのは1943年5月12日。日本軍守備隊のおよそ4倍にあたる、1万を超える大兵力だった。

岡崎さんたちはどんな思いで戦っていたのだろうか。実は、アメリカ側にその手がかりが残されている。

アメリカ国立公文書館に所蔵されている「Enemy Diary Captured Attu」と題された文書。アッツ島で亡くなった日本兵の遺体から集めた日記を翻訳したものだ。アメリカ軍は、日記から日本人の士気や心理状態を探ろうとしていたのだ。
今回見つかった日記は13人分。そこから見えてきたのは、補給もなくアメリカ軍の上陸前から苦しむ日本兵の姿だ。
4月(日付不明) サトウ ユウキチの日記
「石炭はひとかけらもない。3月の終わりから4月2日にかけて、石炭はまったくなくなった。米を炊くのにネコヤナギを使っているが、熱が弱いから4時間たっても生煮えだ。4月なのにまだ寒い。テントでもコートを着て震えている」
5月7日 ヨシオカ ヨシオの日記
「この3日間、敵が絶え間なく攻撃してくる。たくさんの敵機が来た。1日で40機。本当に激戦が続いている。敵機の数は優勢で、戦うのは大変だ。しかし、我々の士気はとても高い。きのうは2機、きょうは1機撃墜した」
アメリカ軍が上陸すると、記述は切迫感を増していく。
5月13日 ヨシオカ ヨシオの日記
「敵が空と海から凄まじい攻撃を仕掛けてくる。その間に敵は上陸した」
5月14日 氏名不詳の日記
「食料が不足してきている。一日中なにも食べていない。分隊長は右手首を撃たれた」
上陸6日目となる5月17日、作戦を指導する東京の大本営では「アッツにはお気の毒なるもこれに悪あがきをして(略)戦力を消耗しては大変である」という意見が出て、補給や増援部隊を送らない「放棄」に傾いていく(『戦史叢書 大本営陸軍部<6>』)。見捨てられたことを知らないまま、兵士たちは追い詰められていった。
5月17日 氏名不詳の日記
「足が濡れていて、全身が震える。戦争は苦しいものだ。増援部隊は来るのだろうか。午前中、霧が晴れたときに、前方の坂から30人か40人の敵兵が上がってくるのを見た。危機一髪だった。オイカワとヒグチが突撃して追い払い、軽機関銃を確保した。天の神々が助けてくれたのかもしれない。コジマ曹長、シロキ、オイカワと私は、敵の小隊の兵士を全員殺した」
5月18日 氏名不詳の日記
「今日で戦闘開始からちょうど1週間となるが、味方の人数が足りないので攻撃ができない。ヤマダが戦死してから少しさびしく、怖い」
5月20日 氏名不詳の日記
「晴れ。海は穏やかだ。寝ずに抵抗戦線を築いた。1日2個のおにぎりさえあれば、どんな重労働でもこなせるのに。この8日間寝ていない。激しい艦砲射撃を受けた」
5月20日 キクチの日記
「迫撃砲は常に我々の近くに落ち、敵の機関銃は容赦ない。我が軍の機関銃は使えないそうだ。現時点で補給は来ていないため、どうすることもできない。オクデラとコグチが負傷。軽傷だが戦えない。塹壕の周辺に砲弾の破片が降り注ぎ続ける中、自分はこのメモを書いている。恐らく歴史上これほど惨めな戦闘はないであろう。私は衛生兵なのに、負傷兵たちが苦痛にうめく中、祈ることしかできない」
5月22日 ヨシオカ ヨシオの日記
「かすかな望みにすがっている。私はまだ無事だ」
こうした状況下でも、兵士たちに降伏という選択肢は無かった。兵士の心得を記した「戦陣訓」にはこう書かれている。「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」。投降して捕虜になることは禁じられていたのだ。

5月29日、生き残っていた100人ほどが決死の総攻撃を行うことになる。その直前、日記の最後に、家族への遺言をつづっていた人もいた。
5月29日 タツグチ ノブオの日記(軍医)
「本日20時、地区隊本部前に集合。野戦病院も参加する。最後の突撃を行うこととなった。野戦病院の患者は自決させる。わずかに33年の命、私はここで死ぬ。さようなら、タエコ、愛する妻。そして最後まで私を愛してくれた妻。どうかまた会う日まで、幸せに暮らしてください。やっと4歳になったミサコ、すくすくと育ってくれ。ムツコにはすまなく思う。2月に生まれたばかりで父の顔を知らないのだから。いい子にしてください。さようなら」
日本軍の記録では、島から両親に手紙を送った岡崎さんもこの日に戦死したとされている。

「あなたのことを思い出し…」残された妻の思い

アッツ島守備隊の全滅から半年後、別の島で悲劇が繰り返されることになる。

さんご礁で形成された島々が連なる赤道近くのタラワ。島々をあわせても渋谷区の2倍ほどの面積だ。1943年、4601人の日本軍の守備隊が置かれていた。
「いつも相変わらず多忙な勤務に追われ、それに暑い。かつ、同じ風景で、近頃、酒やビールまで不足で一日ごとに楽しんで居るような状況だ。でも、健康にだけは人一倍恵まれて居るから喜んでくれ。忙しい中にも満月を眺めながら一人寂しく光子や洋子や武の事を思い出される。いつになったら一家そろって面白く、三度の食事が出来るやら、心細くさえなってくる。丈夫でさえあれば、楽しい時もいずれは来るだろう」
アメリカ軍上陸3週間前の10月29日にタラワ島から妻に宛てて書かれた手紙。心配をかけまいという思いと、家族から遠く離れた孤島に過ごす淋しさが同居している。

書いたのは、31歳の兵曹長 日出山(ひでやま)光男さん。「光子」と愛称で呼んでいた妻の光(みつ)さんが9月に第3子、昇さんを出産したばかりだった。光さんは昇さんの誕生を手紙で知らせたが、タラワの光男さんのもとには届いていなかったようだ。
「光子はその後、相変わらずやって居るだろうね。何しろ便船が少ないから、片思いのようだ。もう、お産は済んだんだろうね。無理せんよう知らせてくれ。どんな事でも変わった事があったら、知らせてもらいたい。洋子や武の健康には特に気をつけてやってくれ。今日は特に暑い日だ。もうしばらくすると、今日も友人の告別式だ。それに当直だから、これにて失礼。一筆、健康無事を知らせるのみ。十月二十九日 光男」
11月21日、アメリカ軍が1万8600人で上陸作戦を開始する。日本の守備隊の4倍以上の兵力だった。5日間にわたる戦闘の末、守備隊は全滅した。

その事実が国内の人々に知らされたのは1か月後。新聞には「全員玉砕」という見出しが躍った。

当時4歳だった長男の武さんは、泣き崩れる光さんの姿を覚えているという。しかし、手紙の存在は大人になるまで知らなかった。
長男 日出山 武さん
「タラワで書かれた手紙が母のもとに届いたのは、おそらく戦死が分かったあとだったと思います。でも、母は手紙のことは自分たちには見せず、ずっとひとりで持っていたんですね。子どもにいつまでも悲しい思いをさせないためだったかもしれません。戦後40年ほどたってから、初めて見せてくれました」
光男さんが戦死したあと、光さんと子どもたちは住んでいた横須賀を離れ、茨城の光男さんの兄の家に身を寄せた。

光さんは慣れない農作業に汗を流し3人を養ったが、弱音を言うことはなかった。子どもたちがそれぞれ自立して初めて手紙を見せ、光男さんが眠るタラワへ行きたいと言ったという。母の思いを知った武さんたち姉弟は、光さんとともに初めてタラワを訪れた。

そこで行われた慰霊祭で、67歳の光さんが夫の光男さんに語り掛けた。
日出山 光さんのことば
「あなた、お迎えにまいりました。遠い遠い気の遠くなる様な所まで、一生懸命まいりました。一生に一度でよいから、この目で、体であなたの戦死なされた場をたしかめたかったのです。

見てください。喜んでください。あなたの残していかれた3人の子ども。こんなに大きく立派に成長し1人も他人様に迷惑をかけることもなく。誉めてください。喜んでください。これすべてあなたの残していかれた意志を守り通しました。

母子4人の世の荒波にほうり出された生活、言語には尽くしえないものでした。あなたのことを思い出し、来る日も来る日もただ涙、涙、神仏におすがりするしかなかったのです」
光さんは1988年、73歳でこの世を去った。

生還した人を苦しめつづけた“玉砕”

実は戦後に“玉砕”の島から生還した人もいた。タラワでは、146人が負傷するなどしてアメリカ軍に捕らえられたのだ。
そのうちのひとり、太田清さん。海軍の一等整備兵曹で28歳だった。身を潜めていた壕(ごう)を手榴弾や火炎放射器で攻撃され、けがを負って衰弱。意識を失い、目が覚めたときにはハワイの米軍病院にいた。

終戦の1年後、福岡県にある故郷に帰った太田さんを見て、母と妹はとても驚いたという。すでに葬式が営まれ、地元では大々的な市葬まで執り行われていた。当時の写真には「英霊」の文字が写っている。
その事を知った太田さんは、2か月かけて手記を書き上げた。タイトルは「血に染まったタラワ島」。
「(戦友が)戦死したそばには、血にそまった千人針がぼろ布の様に破れ、泥にまみれて痛ましい。我々には神様も仏様もないのだ」
飲まず食わずの戦闘のなか、のどが焼け付くように痛かったこと。爆雷を抱えた決死隊が敵の戦車に体当たりして戦車もろとも飛び散った様子。

潜んでいた壕(ごう)に火炎放射器を差し込まれて焼かれたが、戦友たちの遺体に埋もれて助かったことなど、太田さんはタラワの惨劇を生々しく描写した。

しかし、家族には多くを語ることはなかったという。タラワ島の戦いから30年余りが過ぎた1976年、太田さんは退職金を使って戦友の霊を慰める碑を建立、自分の部隊が突撃を行い多くの戦友を失った23日を月命日とし、供養を欠かさなかったという。

太田清さんは1991年、75歳で亡くなった。
手記の最後は、アメリカ軍の捕虜になった場面で終わっていた。そこには、こうつづられていた。
「どの位の時が過ぎたのか。どうして生きていたのか。私にはわからない。私は米軍に救助された。戦陣訓にいう、生きて虜囚の辱めを受けるなかれ。不名誉と不忠義の売国奴として、終生、汚名を背負うことになった」

“玉砕”から80年

戦死を“玉砕”と言いかえた大本営は、アッツ島やタラワ島の守備隊につづけと、一般市民にも死ぬまで抵抗するよう求めていった。そして、サイパン島や沖縄では多くの市民が凄惨な戦いに巻き込まれていくことになった。

アッツ島の“玉砕”から80年のことし、靖国神社にその遺族たち60人が集まり、静かに慰霊を行っていた。80年たってもアッツ島からは遺骨さえ帰ってきていない。

アッツ島で父を亡くし「呑気にやって居りますから、どうぞ御安心の程を」という言葉に込められた思いを考え続けている浅野裕子さんの姿もあった。
浅野裕子さん(80歳)
「戦死して遺骨も収集できないでそのまま。とにかく日本に戻してあげたいです。本当に無謀な戦争だったと思いますよ。アッツで尊い命が失われたのを良い教訓にしていけばいいのを、ますますもっとひどいことになっていったんですもんね。どんどん深みにはまって犠牲者を増やしちゃった。残念ですよ」
80年後のいま、私たちはどう受け止めるか。亡くなった人たちが遺した手紙が、問いかけている。
社会番組部 ディレクター
村山世奈
2015年入局
沖縄局 首都圏局をへて2021年から現所属