母から託された13枚の写真

母から託された13枚の写真
自宅のソファで家族に笑顔を見せる女性。
母親がいれてくれるコーヒーが大好きでした。

7年前、「障害者は不幸を作る」「生きる価値がない」などという理不尽な理由で突然、命を奪われました。

母親がことし初めて寄せてくれた13枚の写真。
そこには家族と過ごした40年がありました。

(科学文化部 記者 岡肇)

言葉が消えていく…

菊地原理枝さん。
1976年(昭和51年)の1月に生まれました。

母親によりますと、3320グラムの元気な女の子で、かわいらしい顔が印象的だったといいます。
「おいしい」「ぽっけ」「とけい」「ひこうき」…。
覚えたばかりの言葉が、少しずつ聞かれなくなっていったのは1歳半のころ。

母親はそのときは「また話してくれるだろう」と期待していたといいます。

しかし、2歳になるころには言葉を発しなくなり、人やいろいろなものに関心を示さなくなっていきました。

大学病院で検査を受けた結果、知的な遅れがあると指摘され、発達障害と診断されました。

障害のある子どもの親の会で母親が書いた当時の文集には、現実を受け止めきれない率直な気持ちがつづられています。
「将来のことを考えると不安です。どうしたら1人で生活することができるようになるのだろう」(理枝さんが3歳のころ)
「保育園との合同運動会がありました。その姿を見ているとなぜか、涙がこぼれそうになりました。今でも健常児の行動、言葉などを見聞きしていると、思わず、胸が熱くなることがあります。どうして理枝が障害児となったのか、悲しく、口惜しくてなりません」(理枝さんが4歳のころ)

国内に患者1000人の希少疾患

その後、相模原市にある養護学校(現・相模原支援学校)に入学。
あごの下で手を絡めるのが癖で、友達と過ごすよりも1人で遊んでいるのが好きな子でした。
言葉で自分の思いを表現できない中で、頭を壁などに打ちつけることもあったそうです。

毎日のようにてんかんの発作を起こすようになり、突然意識を失うことが頻繁にあったため片時も目を離せなかったといいます。

小学部の3年生のとき、専門病院に入院して詳しい検査を行った結果、「レット症候群」という神経の難病だとわかりました。

国内におよそ1000人しかいないとされる希少疾患で、今も根本的な治療法は見つかっていません。

そうした中でも母親は、理枝さんの成長につながればと、遠足や宿泊訓練などできるだけ多くの経験をさせました。
外で遊ぶのが大好きだった理枝さん。

中でも水遊びをしているときは、楽しそうに浮き輪に身を任せ、笑顔でぷかぷかと浮いていた姿が印象に残っているといいます。

学年を重ねるごとに少しずつ笑顔も増え、母親もわが子の成長に喜びを感じていました。
「目もだいぶ合うようになり、表情も明るく、笑顔が多くなりました。多動であった動きもだいぶ落ち着き、手を離していてもしばらくの間は見ていられます。感情表現も豊かになり、好きな事は、笑顔で目もじっと見て、少しですが取り組むようになりました」(理枝さんが小学部6年生のころ)
理枝さん親子を知る三井良子さん(83)です。

同じ障害のある子の母親として印象に残っているのは、当時の理枝さんの母親の懸命な姿だといいます。

理枝さんを自宅に預かったり、一緒に旅行に出かけたりと、助け合いながら子育てをした時間を今でも振り返るといいます。
三井良子さん
「理枝さんは重度の障害があったので、何かを働きかけても反応してくれないことも多くありました。それでも母親は、リハビリの訓練でいい効果が期待できると聞けば、すぐに連れて行くなど、理枝さんにとって良かれと思うことはすべて手を尽くしていたように見えました。必死さは感じさせずに明るくふるまっていたので、いつもすごいなと感じていました」

コーヒーと成人式

高等部に入り、養護学校の卒業や成人が近づくにつれ、理枝さんの進路や将来について考える機会が増えていきました。
「進行性の病気でもあり、今後どのように変化してゆくのか、理枝の出している信号を受け止めることのできるアンテナでありたい」(理枝さんが高等部3年生のころ)
「まだまだ元気ではありますが当たり前のことながら私も年をとり、体力、気力共に衰えていくでしょう。でも理枝の人生はこれからです。健常者だったら、恋をして、結婚して……といくところですが、理枝は生活訓練をして少しでも出来ることを増やして、健康で、人に好かれ、可愛がられるひとであって欲しいと願っています」(理枝さんが19歳のころ)
そうした中で迎えた成人式。
自宅の庭で晴れ着を着せてもらった理枝さん。

下を向いたり、目線が合わなかったり、なかなか笑顔で写ってくれない理枝さんに、家族が取った作戦は大好きなコーヒーをカメラの後ろから見せること。

満面の笑みを記録できました。

親亡き後の居場所を探して

食事や排せつなど生活にはすべて支援が必要だった理枝さん。

養護学校の高等部を卒業したあと、障害のある人が生活介護を受けられる「かえでの家」という施設に通います。
この施設で30代の理枝さんを、2年半ほど直接支援した高橋知世さん(42)です。

当時の理枝さんは、ニコニコしていることが多く、屈託のない笑顔に職員みんなが引きつけられていたと振り返ります。
高橋知世さん
「私にとって理枝さんは笑顔がかわいいアイドル的な存在でした。特に、休憩時間にコーヒーを用意すると、ニコニコして近寄ってきて、飲みたいという顔をしていたことをよく覚えています。逆に、何をするにも彼女のタイミングがあって、嫌なときは悲しい顔をしたり、ときには涙を流したりして、話すことができない分、自分の感情を行動で表現して伝えていたと思います」

最後の一時帰宅

理枝さんが36歳になったとき、高齢になってきた両親は自分たちが亡くなったあとのことを考え、知的障害者施設への入所を決めました。

当時を振り返った母親のことばです。
「お嫁に出すような気持ちで送り出しました。娘は毎月帰宅する時は、車が家の近くまで来るとニコニコして声を上げて笑い、喜んでいました。家に入るとまずコーヒーメーカーに向かいます。飲みたくて仕方ありません。まず飲んで、いつものお気に入りのソファーに座ります。家の中を確認するように動き、またソファーに戻ります。何気ないこんなことが娘にとっては喜びであり、私たち家族にとっても喜びでした」(裁判で代読された母親の言葉)
毎月一時帰宅していた理枝さん。

この写真が撮影された日も、よく行く地元のカフェで食事を楽しんだあと、自宅に戻り、家族でたわいもないことで笑い合うなど、いつもと変わらない穏やかな日常を過ごしたといいます。

しかし、この日が家族で一緒に過ごした最後の日になりました。

半月後、理枝さんは入所していた「津久井やまゆり園」で、元職員によって命を奪われました。

「障害者は不幸を作る」「生きる価値がない」などという理不尽で差別的な動機により、理枝さんを含む入所していた19人が殺害されたのです。

入所から4年目、理枝さんは40歳でした。

理枝さんの13枚の写真

あれから7年。
理枝さんを担当したことがある高橋さんは、今も事件で命を奪われたことを受け止めきれないと話します。
高橋知世さん
「理枝さんと共有した時間は本当に楽しかったですし、障害者が不幸を作る存在だという差別的な主張には強く違うと言いたいです。私が理枝さんの思いを汲み取ろうとするのと同じように、理枝さんも私がどんな人で、信頼して思いを伝えていい人なのだろうかと常に見ていたように思っています。意思を通わせるにはお互いの信頼が何よりも重要だということを、理枝さんは改めて自分に思い起こさせてくれる存在で、理枝さんのことを忘れてはいけないと思っています」

19のいのち

この事件では、発生当初、犠牲者全員が匿名となりました。
私はその人生を伝えたいと、4年前から母親や理枝さんを知る人に話を伺ってきました。

事件から7年となるこの夏、母親は「忘れて欲しくない」と初めて理枝さんの写真を13枚託してくれました。
母親
「重い障害がある理枝を育てることが本当に大変だったことは事実です。ただ、苦労はたくさんしましたが、不幸ではありませんでした。理枝がニコニコして喜んでくれることが、私たちの幸せにもなっていたのだと思います」
母親はいまも毎朝、理枝さんの写真の前に大好きなコーヒーを供えることを欠かしません。

そして、以前のようにたわいないことを話しかけながら過ごしているといいます。
母親
「理枝は、最後まで人生を全うはできませんでしたが、自分の人生をやりたいように生きたとは思っています。事件に対する思いはほとんどありません。ただ、理枝がいま、ここにいないことがショックなのです」
科学文化部 記者
岡肇
2012年入局 2021年から科学文化部で認知症や難病など精神や神経の医療分野を中心に取材。横浜局時代から遺族などの関係者取材を続けている。