「母親を救えなかった」家族3人を亡くした男性の“後悔”

200人を超える死者・行方不明者を出した西日本豪雨から5年。土砂災害に巻き込まれながら奇跡的に一命を取り留めた男性が、初めてメディアの取材に応じました。
家族3人を亡くした男性は、この5年、誰にも話したことがない“後悔の念”を背負って生きてきたといいます。
それは「母親を救えなかった」という思い。
あの日何があったのか。初めて語る言葉には、生かされた命を大切に、という決意が込められていました。
(松山放送局ディレクター 中元健介)
家族3人を亡くした男性は、この5年、誰にも話したことがない“後悔の念”を背負って生きてきたといいます。
それは「母親を救えなかった」という思い。
あの日何があったのか。初めて語る言葉には、生かされた命を大切に、という決意が込められていました。
(松山放送局ディレクター 中元健介)
“まさか、みかん山が襲ってくるとは”
愛媛県宇和島市吉田町。
広大なみかん畑の前に海が広がる山あいの地域です。
広大なみかん畑の前に海が広がる山あいの地域です。

泉光英さん(30)は、西日本豪雨で裏山のみかん畑が崩れ、土砂災害に襲われました。
泉光英さん
「いつも見慣れていた大好きなみかん山の風景がまさか襲ってくるとは。崩れるとは」
「いつも見慣れていた大好きなみかん山の風景がまさか襲ってくるとは。崩れるとは」
2018年7月7日、豪雨によって大量の土砂が農道ごと崩落、家は30m以上先の海沿いまで押し流されました。
1階にいた祖父・直年さん(当時81)、祖母・喜子さん(当時76)、母・美代子さん(当時53)が家ごと押しつぶされて亡くなる中、2階にいた泉さんだけが奇跡的に生還しました。
土砂が家の壁を突き破り、傾いた拍子に外に放り出され助かったのです。
1階にいた祖父・直年さん(当時81)、祖母・喜子さん(当時76)、母・美代子さん(当時53)が家ごと押しつぶされて亡くなる中、2階にいた泉さんだけが奇跡的に生還しました。
土砂が家の壁を突き破り、傾いた拍子に外に放り出され助かったのです。
「2階で横になっていたらドーンと音がして土砂がなだれ込んできた。すぐに家が傾き身体が転がった。家が押し流されている時も何が起きているかわけがわからない。気付くと外に放り出されて地面の上にいた」
「上を見ると空、目の前に海、振り返ると山が崩れているのが見えて、ああ土砂崩れが起きたと理解した」
「上を見ると空、目の前に海、振り返ると山が崩れているのが見えて、ああ土砂崩れが起きたと理解した」
実は2日前から大雨警報が、前日からは土砂災害警戒情報も出ていました。
しかし、裏山が崩れることはないと思っていた泉さんたちは、避難することはありませんでした。
家族3人を亡くし、一人生き残った泉さんは「一緒に死ねばよかった」と吐露し、夜はうなされながら泣いていました。
今も当時の様子を振り返ると、恐怖がよみがえるといいます。
しかし、裏山が崩れることはないと思っていた泉さんたちは、避難することはありませんでした。
家族3人を亡くし、一人生き残った泉さんは「一緒に死ねばよかった」と吐露し、夜はうなされながら泣いていました。
今も当時の様子を振り返ると、恐怖がよみがえるといいます。
泉光英さん
「災害をなめていた。裏山が崩れて、家ごともっていかれるとは想像もしていなかった」
「災害をなめていた。裏山が崩れて、家ごともっていかれるとは想像もしていなかった」
“この惨状を伝えたい”と撮影した1枚
家の外に放り出された泉さんは、5分後に我に返ります。
そして目の前の光景に。
そして目の前の光景に。
「地獄だ、これは僕が知っているふるさとではない。何もかもがちゃがちゃ。大好きな風景が一変した」
あまりの衝撃に思わずスマホを手に、撮影した写真です。

体の左脇には家を支えていた巨大な赤い鉄骨。
足元には自分の車が埋もれていました。
さらにその先には、さっきまで暮らしていた家が無残に押し潰されていました。
「誰かに助けてほしい。誰かにこの惨状を伝えたい」という思いで友人に送りましたが、だれも信じてくれません。
それから土砂をかき分け家族を懸命に探します。
その30分後。
足元には自分の車が埋もれていました。
さらにその先には、さっきまで暮らしていた家が無残に押し潰されていました。
「誰かに助けてほしい。誰かにこの惨状を伝えたい」という思いで友人に送りましたが、だれも信じてくれません。
それから土砂をかき分け家族を懸命に探します。
その30分後。
「屋根の下をのぞき込んだら、母親の手が土の中から出ていました。もう無理だ、助かっていない」
救助隊がかけつける前に、自分自身で母・美代子さんの遺体を発見していたのです。
その後、地元の消防団や近所の人などの協力をえて、その日の夕方に祖父・直年さんが見つかり、また翌日には祖母・喜子さんが発見されました。
警察がきて“本人確認”をお願いされるのですが、顔が泥だらけで損傷も進んでいるため、泉さんは自らの手で遺体となった家族の顔の泥を洗い流すことになりました。
その後、地元の消防団や近所の人などの協力をえて、その日の夕方に祖父・直年さんが見つかり、また翌日には祖母・喜子さんが発見されました。
警察がきて“本人確認”をお願いされるのですが、顔が泥だらけで損傷も進んでいるため、泉さんは自らの手で遺体となった家族の顔の泥を洗い流すことになりました。
泉光英さん
「家族3人の遺体と次々対面し“本人ですか”と警察に聞かれる。損傷している家族の身体を見るのは正直目を背けたくなるし、それ以上に“亡くなってもう会えないんだ”と自分自身で認めることがきつかった」
「家族3人の遺体と次々対面し“本人ですか”と警察に聞かれる。損傷している家族の身体を見るのは正直目を背けたくなるし、それ以上に“亡くなってもう会えないんだ”と自分自身で認めることがきつかった」
孤独な日々を支えてくれた仲間
西日本豪雨に被災した時、泉さんは25歳。
突然、同居していた家族3人全員と家も失い、路頭に迷います。被災からわずか一週間後、親戚を頼って高松に移り住みました。
一人取り残された寂しさから夜の町をさまよう日々…。
自暴自棄になる中、手を出し述べてくれたのが現在働いている解体業などを営む会社でした。
突然、同居していた家族3人全員と家も失い、路頭に迷います。被災からわずか一週間後、親戚を頼って高松に移り住みました。
一人取り残された寂しさから夜の町をさまよう日々…。
自暴自棄になる中、手を出し述べてくれたのが現在働いている解体業などを営む会社でした。

豪雨で家族を失ったことなど誰にも言えなかったつらい過去を受け止めてくれました。
代表取締役 三好弘敏さん
「言葉にできないほどのつらい経験をしている。極力みんなでごはんを食べたりするなど、彼自身の心の闇をちょっとでも明るくしたいと思っていた」
「言葉にできないほどのつらい経験をしている。極力みんなでごはんを食べたりするなど、彼自身の心の闇をちょっとでも明るくしたいと思っていた」
同僚
「他の家族が生かしてくれた命なんやけん…」
「他の家族が生かしてくれた命なんやけん…」
泉さんは温かい仲間に支えられ、自炊しながら地道な生活を送るようになります。
徐々に笑顔も増え、最近では自分の苦い経験をもとに、職場の同僚たちにこう繰り返しているといいます。
徐々に笑顔も増え、最近では自分の苦い経験をもとに、職場の同僚たちにこう繰り返しているといいます。
泉光英さん
「親孝行はできるうちにやったほうがいい。自分は気付いた時にはできなかったから」
「親孝行はできるうちにやったほうがいい。自分は気付いた時にはできなかったから」
“あと数秒2階にとどめていたら母は死なずにすんだ”

全てが豪雨で失われる中、近所の人が現場から拾い集めていたものがありました。
土砂に埋もれていた家族の写真です。
泉さんはその写真を小さな白い箱に入れた状態で受け取りました。
ところが5年間見ることができずにいます。
その理由を尋ねると、長い沈黙の後、誰にも話したことがない“後悔の念”を語り始めました。
土砂に埋もれていた家族の写真です。
泉さんはその写真を小さな白い箱に入れた状態で受け取りました。
ところが5年間見ることができずにいます。
その理由を尋ねると、長い沈黙の後、誰にも話したことがない“後悔の念”を語り始めました。
泉光英さん
「お母さんと交わした最後の言葉を、いまも後悔しているんです。5年間ずっと忘れたことはありません」
「お母さんと交わした最後の言葉を、いまも後悔しているんです。5年間ずっと忘れたことはありません」
土砂崩れが起きる直前、1階にいた母・美代子さんが大雨を心配して2階の泉さんの部屋にやってきました。
母・美代子さん
「雨が強くなっている、消防団を呼んでほしい。家の前の畑の水かさが増し、もうすぐ家に浸水してくる」
「雨が強くなっている、消防団を呼んでほしい。家の前の畑の水かさが増し、もうすぐ家に浸水してくる」
泉光英さん
「あちこち被害が出て消防も出払っている。来るわけないやろう」
「あちこち被害が出て消防も出払っている。来るわけないやろう」
母・美代子さん
「だったら自分で電話して消防団を呼ぶわよ」
「だったら自分で電話して消防団を呼ぶわよ」
泉さん自身も“けんか別れになった”と振り返るほど、最後のやりとりは強い口調での言い合いになりました。
母はすぐにきびすを返し、自分で消防団に電話をかけるために1階に降りていきますが、泉さんはその背中をただただ見送るしかできなかったといいます。
“このぐらいの雨だったら大丈夫”…。しかし雨はかつて経験したことがないほど激しくなっていきます。
さらに家の周辺の水かさが増していき、不安といらだちを募らせていきました。そんな中で母の言葉を受け止める余裕はありませんでした。
けんか別れとなった5秒後、母が1階へと階段を降りていく途中で土砂災害が発生、家を押し流していきました。
そして、階段の途中で圧迫死している母親を自らが発見したのです。
母はすぐにきびすを返し、自分で消防団に電話をかけるために1階に降りていきますが、泉さんはその背中をただただ見送るしかできなかったといいます。
“このぐらいの雨だったら大丈夫”…。しかし雨はかつて経験したことがないほど激しくなっていきます。
さらに家の周辺の水かさが増していき、不安といらだちを募らせていきました。そんな中で母の言葉を受け止める余裕はありませんでした。
けんか別れとなった5秒後、母が1階へと階段を降りていく途中で土砂災害が発生、家を押し流していきました。
そして、階段の途中で圧迫死している母親を自らが発見したのです。
泉光英さん
「人はあまりに悲しい出来事が起きると、感情もなくなり涙も出なくなる。心が無になった」
「事前に大雨警報が出ていた、しかも自分は消防団にも所属していたのに、なぜ何の対策も打てなかったのか。なぜあのとき、母を受け止めてやれなかったのか。“あと数秒2階にとどめていたら母は死なずにすんだ”」
「人はあまりに悲しい出来事が起きると、感情もなくなり涙も出なくなる。心が無になった」
「事前に大雨警報が出ていた、しかも自分は消防団にも所属していたのに、なぜ何の対策も打てなかったのか。なぜあのとき、母を受け止めてやれなかったのか。“あと数秒2階にとどめていたら母は死なずにすんだ”」
泉さんは、母を救えなかった後悔の念から、5年間写真を見ることができずにいたのです。
取材を始めてひと月あまり。
「母への後悔ときちんと向き合って前に進みたい」と泉さんから連絡があり、再び訪ねました。
取材を始めてひと月あまり。
「母への後悔ときちんと向き合って前に進みたい」と泉さんから連絡があり、再び訪ねました。

畳の上に座り、写真の入った箱の前で逡巡すること2時間、泉さんは箱の中から写真を取り出しました。
写っていたのは、女手一つで育ててくれた母・美代子さんに抱かれる、幼い頃の写真でした。
写っていたのは、女手一つで育ててくれた母・美代子さんに抱かれる、幼い頃の写真でした。
「どの写真も母は優しい笑顔で微笑みながら抱いてくれている。愛情たっぷり大事にしてもらっていたことを改めて感じます。初めて写真を見ることができました。過去に向き合えて、母への後悔の思いに決着できた」
“生かされた命を大切に”

ことし7月、泉さんは再びふるさとの宇和島にやってきました。
西日本豪雨から5年。
生かされた命を大切に精一杯生きていきたい…そう母の墓前に誓い、決意を新たにしていました。
西日本豪雨から5年。
生かされた命を大切に精一杯生きていきたい…そう母の墓前に誓い、決意を新たにしていました。
泉光英さん
「母の後悔に区切りをつけるのに5年かかりました。もう後ろばかり見ないで前を向いて頑張って、母に対して恥ずかしくないように生きていきたいです」
「当たり前の日常がみんなにあると思いますが、僕にもそれが毎日あってずっと続くと思っていました。だけど突然家族を失って住む場所も無くなって、日常が永遠じゃないことを知ったのです。だから明日したらいいやという考えは捨てました。後回しにせず毎日を精一杯大切に生きて行きたい。突然何が起こるかわからないので、今の当たり前を大切にしていきたいです」
「母の後悔に区切りをつけるのに5年かかりました。もう後ろばかり見ないで前を向いて頑張って、母に対して恥ずかしくないように生きていきたいです」
「当たり前の日常がみんなにあると思いますが、僕にもそれが毎日あってずっと続くと思っていました。だけど突然家族を失って住む場所も無くなって、日常が永遠じゃないことを知ったのです。だから明日したらいいやという考えは捨てました。後回しにせず毎日を精一杯大切に生きて行きたい。突然何が起こるかわからないので、今の当たり前を大切にしていきたいです」
今年も日本各地で線状降水帯が発生、大雨による避難指示が出るなか、土砂災害も頻発しています。
泉さんはそんな報道が出るたびに、「避難指示が出たら、空振りしてもいいからすぐに逃げてほしい。自分と同じような思いをして欲しくない」と願っています。
泉さんはそんな報道が出るたびに、「避難指示が出たら、空振りしてもいいからすぐに逃げてほしい。自分と同じような思いをして欲しくない」と願っています。

松山放送局ディレクター
中元健介
2000年入局。スポーツ番組、ドキュメンタリーのディレクターとしてスノーボード・平野歩夢選手、ソフトボール・上野由岐子選手、相撲・琴奨菊関、サッカー・長谷部誠選手などを取材。
オリンピック、サッカーワールドカップ、MLBなど海外の現地取材も担当。
現在は震災や豪雨など災害をテーマに取材。
中元健介
2000年入局。スポーツ番組、ドキュメンタリーのディレクターとしてスノーボード・平野歩夢選手、ソフトボール・上野由岐子選手、相撲・琴奨菊関、サッカー・長谷部誠選手などを取材。
オリンピック、サッカーワールドカップ、MLBなど海外の現地取材も担当。
現在は震災や豪雨など災害をテーマに取材。