無痛分娩 休止します

お産の痛みを麻酔で和らげる無痛分娩。
大阪大学医学部附属病院は無痛分娩の希望に応じてきた、関西有数の医療機関でした。
ところが、いま、その対応を休止しています。
その背景には日本の医療が抱える課題がありました。
(大阪放送局 記者 北森ひかり)

こだわり続けた“安全”

痛みの程度に応じて麻酔を用いる無痛分娩。
主に、背中の脊椎の中の「硬膜外腔」と呼ばれるところに細い管を挿入して局所麻酔薬を注入する方法で行われています。
阪大病院では2016年から、希望する人に無痛分娩を行ってきました。

こだわってきたのは、“安全”。
無痛分娩をめぐってはまれに合併症などで妊婦が亡くなるケースも起きています。
阪大病院では、薬などで陣痛を起こすことはせず、自然な陣痛を待つ方法を維持してきました。
そのために必要なのは、24時間常駐する麻酔科医です。
陣痛が起きたら、痛みに応じて麻酔科医が麻酔を行い、万が一、異変が起きた場合も対応できる態勢をとってきたのです。

産科診療の責任者、木村正教授です。
ごくまれに起きる合併症に対応するため、無痛分娩は、産科の麻酔に詳しく、トレーニングを受けた麻酔科医の立ち会いのもと行うべきだと木村教授は考えています。

大阪大学大学院医学系研究科 産科学婦人科学教室 木村正教授
「麻酔をするとその周辺の運動神経も休めることになるので、上半身の痛みをとろうとすると、呼吸のための筋肉も休めてしまい、ごくまれに呼吸ができなくなることがあるのです。これが一番怖い状況で、人工呼吸器の挿管など高度な技術が必要になることもあります。そのため、産科の麻酔に慣れている麻酔科医がやることが重要だと考えています」

安全のために、麻酔科医の常駐にこだわってきた阪大病院。
ニーズは年々高まり、2022年度の無痛分娩の件数は386件に上りました。

苦渋の決断

しかし、ことし2月、持病があるなど一部の妊婦を除いて、無痛分娩の休止を決めました。
理由は、麻酔科医の人手不足です。
無痛分娩に対応していた麻酔科医が減った一方、麻酔が必要なほかの手術は増え続けていたのです。
現在のレベルの安全性を維持しながら、無痛分娩に対応していくことは難しいと判断しました。

欧米の大学病院のように、妊婦が望めば当たり前に無痛分娩を選べる環境を国内でも実現したいと考えていた木村教授。
休止は苦渋の決断だったと言います。

(木村正教授)
「阪大の無痛分娩に期待し、希望してくださっていた妊婦のみなさんには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ただ、大学病院が行うことは日本の標準になりますし、中途半端な形でやることはよくないだろう、きちっとした形で進めたいという思いもあり、休止を決断しました」

麻酔科の1日に密着すると…

国内でトップレベルの医療を提供する大学病院ですら、麻酔科医が足りない。
阪大病院の麻酔科の1日に密着すると、その実情が見えてきました。

▼AM7:00

麻酔科の医師たちが続々と出勤してきました。
それぞれ担当する手術室で麻酔に必要な器具を準備します。

▼AM7:45

全体の予定や麻酔の方針をチームのメンバーで確認しました。
この日予定されている手術は42件。
確認が終わると、麻酔科医たちは急ぎ足でそれぞれの手術室に向かいます。

この日、全体のとりまとめ役を務めた吉田健史医師。
日中は30人の麻酔科医が総出で対応していますが、それでも人手が足りなくなることがあると言います。

阪大病院 麻酔科医 吉田健史医師
「人員配置は常にギリギリで悩ましいです。予定しているものに加えて緊急の手術も入ってくるので、どこにだれを配置するのかやりくりが大変です」

▼AM8:30

同時に行われた2件の手術

高度な麻酔の技術が必要な心臓の手術が、大人と子どもの2件同時に行われました。

臓器移植からさまざまながんまで、阪大病院の手術件数は年々増加しています。
2022年度は1万2千件と、前の年度より1000件近く増えました。
全国の国立大学病院の中でもトップクラスです。
手術件数の増加に伴って麻酔科医の仕事も増え、人手不足につながっているのです。

阪大病院の麻酔科医の仕事は、手術の対応だけではありません。
慎重な管理が求められる集中治療室の患者への対応も行っています。

▼PM0:15

集中治療室の患者の体調に変化がないか確認を終えた吉田医師は、つかの間の休憩に入りました。

昼食を食べるのにかけた時間は10分。
食事をとりながら、このあとの手術の予定や人員の配置をチェックします。

(吉田医師)
「これできょうの一日の楽しい時間は終わり。あとは仕事をやるだけですね」

午後には緊急の手術が3件入ってきました。

▼AM1:00

吉田医師が仕事を終えたのは、日付が変わった午前1時すぎでした。

【早く再開したいけれど】

高度な医療を支える大学病院の麻酔科医たち。
増え続ける手術に対応する中で、無痛分娩に人手を割く余裕はなくなりつつあります。

(吉田医師)
「私たちの限られた人員をどこに配分するかを考えなければなりません。阪大病院でしかできない高度な技術を必要とする手術の麻酔や、集中治療室の患者への対応を優先すると、今年度は無痛分娩に割く人員が減ってしまったというのが現実です」

その上で、こう強調しました。

「無痛分娩が麻酔科医の仕事の一つだということは、医局全員の共通認識です。現場の医師として、できるだけ早く再開したいという思いは常に持っています」

阪大病院では、今後どのような形で再開できるのか、協議を続けています。

欧米では一般的だが…

麻酔科医の不足は全国の医療現場で共通した課題。
日本で無痛分娩の実施が一部にとどまっている理由の一つとされています。

国内でのお産に占める無痛分娩の割合は、2020年度の調査で8.6%となっています。
無痛分娩に対応している医療機関でも、阪大病院のように麻酔科医が常駐して24時間実施しているのはごく一部。
そのほかの医療機関では、実施を日中に限ったり、産婦人科医が麻酔を行う方法で対応しています。

一方、海外では無痛分べんを比較的自由に選べる国もあります。
日本産科麻酔学会によると、無痛分娩の割合は、アメリカでは7割、フランスでは8割を超えています。

“痛みとるのは当然の権利”

大阪公立大学の橘大介教授(産婦人科医)は「痛みをとることは当然の権利」だとして、国内でも体制整備を進める必要があると指摘します。

大阪公立大学大学院 医学研究科女性生涯医学 橘大介教授
「歯の治療や外科手術を受けるときに麻酔で痛みを取り除くように、お産に伴う強い痛みを和らげたいと考えるのは当然です。“陣痛は耐えて当たり前”という考えを周囲が持たないよう改めるべきでしょう。同時に、緊急時に対応できる体制を構築し、万が一の合併症に対応できる体制づくりも不可欠です」

とはいえ、麻酔科医の数を増やすのは簡単ではありません。

橘教授は、お産を扱う医療機関をある程度集約化して麻酔科医を集める方法も検討する必要があるかもしれないとしています。
一方で、出産に対応する医療機関が集約されることは、地元やふるさとで出産しにくくなることにもつながり、賛否さまざまな意見があります。

女性の“当然の権利”と教授が指摘する無痛分娩。
国内でお産に臨む多くの女性が選択できるようになる見通しは、立っていません。