西日本豪雨から5年 岡山 広島で犠牲者追悼 行方不明者の捜索も

西日本豪雨から5年となる6日、甚大な被害を受けた岡山県倉敷市真備町で、犠牲者の追悼式が行われました。

平成30年の西日本豪雨で倉敷市では、地区の3分の1近くが浸水した真備町を中心に、災害関連死も含めて75人が亡くなりました。

6日は真備町にある文化施設で市が主催する追悼式が行われ、遺族や住民の代表など2022年のおよそ3倍のおよそ210人が参加しました。

式では、はじめに犠牲者一人ひとりの名前が読み上げられたあと、参加者全員で黙とうを行いました。

倉敷市の伊東香織市長は「人と地域のつながりの復興は新型コロナの影響で遅れていましたが、去年の夏からは地区の行事も再開しにぎわいを取り戻しつつあります。豪雨災害の教訓をいかし災害に強いまちづくりを進め、真備の復興と今後の発展に向けて取り組んで参ります」と述べました。

続いて遺族を代表して、1人暮らしをしていた85歳の母親を亡くした三丸幸三さん(63)が、「7月6日の夜に母に電話をしたときは『雨は降っていないから大丈夫』と聞き安心しましたが、翌朝ニュースを見てことばを失いました。高齢者への早めの避難情報の伝達や、逃げ遅れをなくす体制整備の重要性を訴えていくことが弔いになると考えています」と追悼のことばを述べました。

倉敷市の追悼式 代表「地域をみんなで盛り上げる」

倉敷市の追悼式で住民を代表してあいさつをした「真備地区まちづくり推進協議会連絡会」の高槻素文会長(75)は、「住居の再建が進み、まちの様子はもとに戻ってきたと感じるが、心の問題は残っていると思う。地区の祭りや行事を通じて地域をみんなで盛り上げていきたい」と話していました。

伊東香織市長「一人ひとりに寄り添い、支援続けることが必要」

倉敷市の伊東香織市長は「新型コロナの影響も少なくなり、多くの方にご列席いただけた。みんなでこの5年の節目に追悼と復興の思いを新たにできたのではと思う」と述べました。その上で、「真備地区の復興は確実に進んでいる。今年度までにハード事業のほとんどが完成する予定だが、これからは被災された皆さまの心の復興のため、一人ひとりの状況に寄り添いながら支援を続けることが必要だ」と述べました。

姉を亡くした遺族「もう少し私に防災意識があれば」

倉敷市の追悼式に4年ぶりに参列した真備町の浅原育子さん(74)は、山の上にあった自宅は無事だったものの、町内の有井地区で暮らしていた姉の齋藤庚惠さん(当時76)を亡くしました。

浅原さんは「もう少し私に防災意識があれば、姉の命を救えたのではと思い、怖い目をさせたなと思うと本当に悔しくて、残念です」と話しました。

その上で「5年がたった今、真備町も8割から9割復興ができて、携わってくださった方に感謝しています。私は生まれ育った真備が大好きです。防災意識を高めて前に進んでいきたいです」と話していました。

齋藤さんの長女で、岡山県津山市に住む池町美保子さん(54)は、「母は料理が得意で、周りの方からもとても慕われていました。あの時もっと早く避難をするよう強く言っておけばと何年たっても後悔が消えることはなく、本当に心残りです。親孝行もできないままでしたが、みんなで頑張っているよ、向こうで応援していてねと伝えたいです」と話していました。

「つらい気持ちは変わらない」

当時、真備町内の別の場所に住んでいた27歳の娘と5歳の孫を豪雨で亡くした三宅常男さん(64)は、2022年に亡くなった妻(当時68)を含め、3人の遺影を手に倉敷市の追悼式に参列しました。

今は真備町を離れて暮らす三宅さんは、「5年間、いろいろありすぎて、何が変わったとかほかのことを考える余裕がなかった。5年と言ってもつらい気持ちは変わらない。一人では逃げられない人もいる。そういう人については行政に動いてもらえるようしてほしいです」と話していました。

また、真備町有井で暮らしていた母親を亡くした男性は「この5年、自分の家の復旧・復興をやってきました。かなり大変でしたが、何とか頑張れました。これからは地域のために何かしていきたいと思います」と話していました。

真備町内でひとりで暮らしていた母親を亡くした女性は、「当時はあんな大惨事になるとは思っていなくて、昼間のうちに母に『避難してね』のひと言が言えなかったことが残念で、後悔ばっかりで、守ってあげられなくてごめんなさいと思っています」と話しました。

そして、追悼式に参列するにあたり「災害にあった時に皆さんが命を亡くさずに生きて前に進んでいけるようにと祈りながら、いつもこの日を迎えています」と述べました。

真備町の献花台でも被災者らが手を合わせる

また、倉敷市が真備町に設けた献花台には、当時被災した人などが次々と訪れ花を手向けて手を合わせ犠牲者を悼みました。

6日正午に献花台が設けられたのは、倉敷市が追悼式を開いた真備町の施設「マービーふれあいセンター」のホールです。

献花に訪れた、5年前に真備町有井の団地で近所どうしだったという70代と80代の女性2人は、屋根に避難して助けを待ったということです。

70代の女性は「ヘリコプターが通った時に手をふりながら、見てくれていないと涙を流していました。2日後の朝に自衛隊の人にすがるようにしてボートで助けてもらいました」と話していました。

そして2人は、「いただいた命だからと必死に生きてきました。『皆様のおかげでここまで来られました。ありがとうございました』とお祈りをしました」と口々に話していました。

また、真備町尾崎の自宅が2階まで水につかった海津真由香さん(31)は、「5年という節目で初めて献花に来ました。引っ越して今は真備に住んでいませんが忘れられません。悲しかったことが多い5年でした。当時は自分自身のことで精いっぱいで、亡くなった人に意識を向けられていなかったので、少しでも気持ちが伝わればと思い、お祈りをしました」と話していました。

献花台は6日午後7時まで設けられ、7日は倉敷市真備支所1階のホールで、午前8時半から午後7時まで献花を受け付けます。

災害公営住宅で暮らす女性「ようやく前向きに」

真備町にあった自宅が全壊したため、いまは災害公営住宅で暮らす70代の女性は「ようやく前向きに頑張ろうと思える」と今の思いを語りました。

倉敷市内では、7月1日時点で市内3つの災害公営住宅に102世帯158人が入居しています。このうち、真備町の災害公営住宅で暮らす井上百合子さん(73)は、西日本豪雨で30年余り住んだ自宅が2階まで水につかり全壊しました。

経済的に自宅の再建は難しいとして、総社市のみなし仮設住宅に入りましたが、2021年3月に真備町の災害公営住宅に移りました。

井上さんは「5年はあっという間に感じられるが、真備町に戻るまでの3年間はつらくて長かった。真備町に戻ってきてからようやく前向きに頑張ろうという気持ちになれた」と語りました。

現在は近くのスーパーでパートで働き、住宅の集会所で行われているヨガ教室や趣味のパッチワークを通して、近所の住民と交流を少しずつ始めているということです。

井上さんは「水害は本当につらく、あってはいけない。命があってよかったけど、30年以上住んだ思い出の詰まった家を失って、今でも思い出すと涙が出る。でも『前を向こうね』と声をかけあって生活している。やっぱり真備町に帰ってきてよかった」と話していました。

豪雨の教訓伝える「語り部タクシー」の会社では

西日本豪雨で、保有する車両が被災した岡山県倉敷市真備町のタクシー会社は、あの日の様子を語る「語り部タクシー」の運行を続けていて、6日の朝も、会社の社長が乗務員に安全運転を呼びかけていました。

「日の丸タクシー」は、5年前の西日本豪雨で保有していた車両の7割以上にあたる44台が水没する大きな被害を受けました。

豪雨から5年となる6日、タクシー会社では、平井啓之社長が乗務員に対して、「きのうも雨が降ったので用水路の運転などに気をつけてください」と改めて安全運転を呼びかけていました。

豪雨のあと、タクシー会社には利用者から「被災地を知りたい」という依頼が相次ぎました。そこで、令和2年からは「語り部タクシー」として、乗務員が豪雨当日の様子を語りながら被災地をめぐっています。

会社によりますと、コロナ禍もあり2022年は予約がなかったということですが、真備町で甚大な被害が出たことや豪雨の教訓を伝えようと、これからもこの取り組みを続けることにしています。

平井社長は「日本各地で災害が起きている中、西日本豪雨で被害を受けた真備町のことを教訓にしてもらい、少しでも防災・減災につながってほしい」と話していました。

広島 警察と消防が行方不明者の捜索

西日本豪雨から5年の6日、広島県内の川などで、警察と消防がいまも行方が分かっていない5人の捜索を行いました。

西日本豪雨で、広島県では災害関連死を含めて152人が亡くなり、5年がたった今も5人の行方が分かっていません。

警察と消防が県内の4つの川と3つの島で行方不明者を捜索しました。

このうち、坂町を流れる天地川の上流から河口付近では、警察官と消防隊員あわせておよそ25人が、行方不明者を捜索しました。

警察官らは川に入り、横一列になって棒で川の底をつくなどして、行方不明者の手がかりを探しました。

また、川が深くなる河口付近では、5日の雨の影響で水が濁る中、陸から操作できる水中ドローンを使って水の中を捜索していました。

広島県警察本部危機管理課の住田健二課長は「今回の一斉捜索で何らかの手がかりを発見し、家族の方に報告したい」と話していました。

呉市役所に献花台 犠牲者を追悼

広島県内で最も多い30人が亡くなった呉市では、市役所に献花台が設けられ、訪れた人たちが犠牲者を追悼しました。

西日本豪雨で呉市では25人が土石流などに巻き込まれて亡くなり、災害関連死も5人にのぼっています。

献花台には午前中から次々と市民らが訪れ、犠牲になった人たちを悼んでいました。

土砂崩れに巻き込まれておよそ8時間後に救出され、近隣の知人も犠牲になった工幸恵(たくみ・さちえ)さんは、「先日のように雨が降るといたたまれない気持ちになります。同じことのないように声をあげていかなくてはいけない」と涙ながらに語りました。

また呉市の新原市長は、「犠牲になった方に心からの哀悼の意をささげるとともに、親しい人を亡くすなどさまざまな形で被害を受けた方へお見舞いを申し上げます。災害からの復旧はほぼめどが立っているが、今後は強じん化に力を入れていきたい」と話していました。

献花台は午後5時まで設置され、訪れた人は誰でも花を手向けることができます。

松野官房長官「被災地の復旧・復興に全力」

松野官房長官は午前の記者会見で「改めてお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りをするとともに、被災されたすべての皆さまに心よりお見舞いを申し上げる」と述べました。

その上で「政府としては必要な措置を講じてきており、引き続き1日も早い被災地の復旧・復興に向けて全力で取り組むとともに、防災・減災、国土強じん化にもしっかり取り組んでいく考えだ」と述べました。