あなたがぼくを忘れても

あなたがぼくを忘れても
ほほえみながら見つめあう夫婦。
2人の間はガラス窓で隔てられています。

認知症と診断され、記憶が失われていく妻。
しかし、新型コロナの感染対策のため、直接触れ合うことはできません。

「あなたが忘れても、あなたのことを忘れないからね」

コロナで日常を奪われた夫婦の記録です。

コロナで会えない間に…

大阪府吹田市に住む、吉田晋悟さん(80)。
特別養護老人ホームで暮らす妻の多美子さん(80)と、思うように会えない日々を送っています。

認知症の症状が徐々に進行する妻との時間を大切にしたいと、毎日、高齢者施設に通っていましたが、コロナで日常は一変。

感染のリスクを減らすため、会うことは厳しく制限され、窓越しの面会を余儀なくされました。
この3年で多美子さんの症状は進行。
食事がうまくとれなくなり、体重が10キロほど減りました。
歩くことができなくなり、寝ていることも多くなりました。

いまは、週に1度、30分の面会ができるようになりましたが、吉田さんが語りかけても、返事はほとんどありません。

公私ともに支えあって

2人が出会ったのは今から約60年前。
大学を中退して人生に迷い、生きる意味を見いだせずにいた吉田さんは、キリスト教の教会を訪れました。

そのとき、玄関で迎えてくれたのが多美子さん。
物事にまっすぐに向き合う姿に、次第にひかれていきました。
2度のプロポーズを経て結婚。
3人の子どもにも恵まれ、牧師と伝道師として、公私ともに互いに支えあってきました。

「きょうは何曜日?」

2006年5月、転機が訪れます。

多美子さんが63歳のとき、アルツハイマー型の認知症と診断されたのです。

多美子さんには、診断の前から自覚症状がありました。

料理をするために台所に立っていたはずなのに、何をするのか分からなくなる。
買い物をしたことを忘れ、同じ食材を何度も買ってしまう。
症状は緩やかに進行していきました。

多美子さんは朝起きると、何度も何度も冷蔵庫を確かめるようになります。
吉田さんはそのたびに「まだいろいろあるから大丈夫だよ」と伝えました。

「きょうは何曜日?」

同じことを何度も尋ねられるようになりました。
吉田さんや子どもたちのことを認識できなくなることも増えました。

入浴やトイレもサポートが必要に。
自宅からいなくなり、居場所が分からなくなってしまったこともありました。

多美子さんが認知症と診断されてから9年。

「在宅での介護は限界かもしれない」

吉田さん自身も持病が悪化し、家族で話し合った末、特別養護老人ホームへの入所を決めました。

「お母さん、大好きやで」

これまでほとんどの時間を一緒に過ごしてきた2人。

施設での面会は、吉田さんにとって多美子さんとじっくり向き合える大切な時間でした。

「お母さん、大好きやで」

難しい言葉を避け、おでこをくっつけながら語りかけ、吉田さんは精いっぱい、愛情を表現しました。
時には、手を取り合って歩きながら、多美子さんが好きな賛美歌を歌うこともありました。

自宅で介護していたときより、多美子さんの笑顔が増えたようにも感じていました。

認知症の影響で、交わすことばは少なくなっても、心が強く結ばれているように感じていました。
吉田さん
「施設で会えるのは2時間か3時間。私の歌はうまくないけど妻だけは私の歌のファンだったので、賛美歌を歌うこともありました」

「近くにいても『あんた誰?』というような顔をしているときもあったけど、手を差し出して一緒に歩いていると『ああ、お父さん』って言って。一緒に空を見上げたりしながら、笑い合ったり。顔と顔を合わせて心を通わせ合う、夫婦であるということを実感できる時間やったんです」

お父さん私から逃げだす お気の毒

しかし、かけがえのない日々は、突然、コロナに奪われました。

全く会えない期間は約5か月。もっと多美子さんのことを理解したい。
吉田さんは、以前書かれた多美子さんの日記を読み返していました。
“お父さん私から逃げだす お気の毒”
認知症と診断されて2年がたったころに書かれた一文です。

当時、多美子さんから同じことを繰り返し聞かれ、自宅から飛び出したことがありました。

そんな中でも、多美子さんは吉田さんを思いやることばを書き記していたのです。
吉田さん
「自分の病気のせいで迷惑をかけてつらい思いをさせている。こんな私といなければならない、お父さん気の毒やなって。私は、気の毒という思いを妻に思わせてしまうような夫やったんやと思います。心が痛みますよね」
さらに、読み進めると、“吉田晋悟”と何度も書かれていることに気付きました。
漢字が間違っているところもありましたが、何度も何度も吉田さんの名前が記されていたのです。
吉田さん
「もう必死だったんじゃないかな。お父さんを忘れたらあかんっていう。自分にとっては大事な名前だと思っていたのだと思いますね」
かつて一緒に訪れた公園や散歩道。

1人で歩いていても、無邪気に空を見上げていた多美子さんの姿が思い浮かぶといいます。
吉田さん
「歩く距離が長いとき、妻は車いすに乗ったりしていたんですけど、そんな妻が私に対して『車いすを押すから乗って』って言うんです。認知症になってからも、いつも私や子どものことを気にかける、そういう部分が残っていたんですよね」

窓越しの面会で

全く面会ができなくなってから5か月後。
やっと、多美子さんと面会できるようになりました。

時間はわずか15分。施設の外側からの、窓越しの面会です。
直接触れ合うことはできません。
吉田さんが窓の外から見せたのは、スケッチブックに貼った孫の写真。
窓越しでも聞こえるよう、大きな声で、多美子さんの好きな賛美歌を歌います。

それに応えるように多美子さんは吉田さんに手をのばします。

「お母さん」「お母さん」

吉田さんは窓に顔を近づけ、何度も何度も呼びかけました。

そのとき、多美子さんが口を開きます。

「お父さん」

吉田さんのことを認識してくれたのが救いでした。
その後も吉田さんは、窓越しの面会を続けます。

しかし、日を追うごとに視線が合うことが少なくなり、「お母さん」と呼びかけても多美子さんの反応は減っていきました。

直接、対面できたけれど…

去年11月。
思わぬ形で、直接、多美子さんとの対面を果たします。

認知症の症状が進行したことで、歩けなくなった多美子さんが施設を移ることになったのです。

久しぶりに2人で歩いたのはわずか500メートル、たった5分の道のり。

症状が進行した現実を直視しなければならない出来事でした。

吉田さんは症状が進む妻への思いをフェイスブックにつづっていました。
「直接会った喜びは薄れていて、認知症の相当進んでいる妻のこれからの生活を想い、コロナ禍によってまだまだ続く二人の別離を思って押しつぶされるような苦しさを感じていました」(Facebookより)
このころの面会は、つらいことも多くなっていました。
「面会の終わりごろに、衝立越しに妻の手を握ろうとしましたが、妻は怒ったように振り払おうとしました」

「コロナ禍の面会の厳しい環境と認知症の後期の症状に向き合い悩みも大きくなるのを感じています。それでも希望を抱いて生きたいと思っています」(Facebookより)

“あなたが忘れても、ぼくが忘れない”

ことし4月6日。
吉田さんは多美子さんに、こう語りかけました。
吉田さん
「お母さん、忘れな草、いっぱい咲いていたよ」

「もう忘れな草の季節。お母さんのこと忘れないから、大丈夫。あなたが忘れてもお父さんはあなたのことを忘れないからね。多美子さんの人生、全部覚えて、多美子さんがどんな人やったかもちゃんと心に止めているしね」
かつて多美子さんと交わした約束をずっと心にとめていたのです。
多美子さん
「お父さん、私はお父さんのことを忘れてしまうと思うけど、忘れたらごめんね。忘れてしまったらもうお父さんと別れてしまうことになるんかな」

吉田さん
「お母さん大丈夫やで。あなたがぼくを忘れても、ぼくがあなたを覚えているから」
認知症が進行して夫を忘れてしまったら、夫婦として成り立たないのではないかと不安に思う多美子さんに、吉田さんが約束したことばでした。
吉田さん
「妻に自分のことを忘れてほしくないという思いはあるけど、病を持った妻にそれを求めるのは酷なことやと思いました。だから安心して忘れていいよって、ぼくが覚えているからねって。まだ妻が言葉をちゃんと理解できる、認知機能が働いているときにもっと早く言ってあげたら、安心して忘れていくことを受け入れられたかもしれないですね」

妻らしさを探して

新型コロナの感染症法上の位置づけが5類に移行し、私たちの生活は感染拡大前に戻りつつあります。

しかし高齢者施設などでは、入所者の命を守るため、面会の制限を続けざるをえないとするところも多くあります。

夫婦2人が離れ離れになった3年間。

吉田さんにとっては、多美子さんの認知症の症状が進む現実をどうすれば受け入れられるのか、葛藤を続けた3年間でもありました。

今は、多美子さんと施設の庭を散歩しながら、多美子さんが好きなモミジの葉など、同じ景色を眺めて過ごす、わずかな時間を大切にしています。
吉田さん
「車いすで私に押されている妻は、もはや自分の語った言葉も記憶していないと思いますが、妻の人格の尊厳は失われていないことを私は確認して来ました。妻の妻らしさは、衰えていく外面にではなく、内面に多く見られることも、妻を見つづけるうちに次第に分かってきました」(Facebookより)
失われたときをこえて、2人は、再び同じ時を刻み始めています。
大阪放送局
記者 北森ひかり
2015年入局。現在は遊軍の医療担当。コロナ禍で起きた人権問題を取材。
大阪放送局
ディレクター 加藤弘斗
2012年入局。「認知症の母と脳科学者の私」など認知症などをテーマに番組を手がける
大阪放送局
ディレクター 酒井啓輔
2018年入局。和歌山局を経ておととしから大阪局。現在は“生き直し”をテーマに番組を制作。