「邪馬台国時代」の墓 中には何が…

「邪馬台国時代」の墓 中には何が…
土の上に姿を現した、4枚の石ぶた。

約1800年前、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の墓です。

ふたを開けて、中から出てくるものは?

女王・卑弥呼が生きた時代の手がかりは見つかるのでしょうか。

(佐賀放送局 記者 真野紘一 / ディレクター 保井龍太郎)

約1800年前の石のふた 持ち上げると…

6月5日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡には全国からおよそ70人の報道陣がつめかけました。

午前10時。

重さ100キロ以上の石のふたを、重機を使ってゆっくりと持ち上げていきます。
ふたは、弥生時代後期の石でできた墓、石棺墓の一部です。

約1800年近くもの間、棺(ひつぎ)をかたく閉ざしてきました。

ふたの下はどうなっているのか、わずかなスペースに一斉にカメラが向けられました。
ただ、現れたのは大量の土砂でした。

出土したふた、4枚のうち3枚が持ち上げられましたが、いずれも土砂で埋まっていました。精巧につくられた石棺墓であっても、長い年月の間にわずかな隙間から土砂が入り込んでしまうことがあるということです。

しかし、新しい発見もありました。
墓の内側から、赤い顔料を使用した痕跡が見つかったのです。

赤い顔料は、弥生時代の位の高い人物の墓で、貴重な副葬品とともに見つかっています。
佐賀県文化課 文化財保護・活用室 白木原宜室長
「弥生時代で赤色顔料を用いるとなると、わりと高貴というか有力者の墓が多い。だれでもかれでも真っ赤ということはないので、どういうランクの人が入っていたかのヒントにはなると思う」
“有力者の墓”に一歩、近づく発見となりました。

国内屈指の弥生集落跡 吉野ヶ里遺跡

稲作が盛んな佐賀平野の東に位置する、吉野ヶ里遺跡。

広さは40ヘクタールを超え、弥生時代の集落跡としては国内最大規模です。一帯からは倉庫や住居の跡や人々の墓が見つかり、復元された構造物が当時の人々の暮らしぶりを今に伝えています。

弥生時代は稲作文化が全国に広まり、人々が定住して共同生活を営み始めた時代です。紀元前4世紀から3世紀にかけての約700年続き、この間、各地では集落「ムラ」が出現。やがて、王が統治する「クニ」へと発展していきました。

弥生時代の長い期間にわたって栄えた吉野ヶ里は、その発展の過程を追うことができる貴重な遺跡です。
弥生中期に集落を治めていたとされる“王の墓”からは、副葬品として青銅の剣も出土しています。

10年ぶり「謎のエリア」での発掘調査

ただ、吉野ヶ里が「クニ」に発展して最盛期を迎えていた、弥生後期の王の墓だけは見つかっておらず、大きな謎とされてきました。

弥生後期は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に記され、女王・卑弥呼が治めたとされる邪馬台国があった時代でもあります。

去年から10年ぶりに始まった発掘調査は、こうした謎に答えを出してくれるのではないかと期待されてきました。
発掘調査の対象となったのは、神社が建っていたため手つかずで「謎のエリア」と呼ばれてきた場所です。遺跡のほぼ中央部にあり、一帯は丘になっています。

すぐ東側には、弥生中期の王の墓「北墳丘墓」があります。

「好立地」にあることで、重要な発見があるのではないかと関心を集めてきました。
石棺墓は4月下旬、このエリアの中でも特に土地が盛り上がった場所で、単独で見つかりました。

さらに、ふたの大きさは、全長2.3メートル、幅は60センチほどと過去に吉野ヶ里遺跡で見つかっている18の石棺墓と比べても大きいものでした。

発掘調査を行っている佐賀県や専門家が「有力者の墓ではないか」と分析する根拠となっています。

石ぶたに刻まれた「×」や「十」

有力者かどうかに加えて関心を集めているのが、墓のふたに無数に刻まれている不思議な記号です。

4枚の石のふたのうち、2枚についてはその外側に「×」や「十」といった交差した線が見つかったのです。
こうした線が刻まれた弥生時代の墓は、全国でも吉野ヶ里遺跡周辺の2つの遺跡でしか見つかっていません。

専門家は、人を葬る際にこの地域特有の儀礼があったのではないかと指摘しています。
弥生時代の絵画に詳しい 奈良県立橿原考古学研究所 橋本裕行特別研究員
「規則性がないことから、ひとりの人間が刻んだと考えるよりは、入れかわり立ちかわり1人ずつ刻んでいったということも考えられる。例えば“死者の霊を鎮める”とか“改めてこの世に戻ってこないように”といった封印するような意味合いでこういうバッテン印の線刻をしていることはあり得るかも知れません」
5日の調査では、表面に線が見つかったのとは別のふた1枚から、今度は内側に同様の線が刻まれているのが分かりました。

石棺墓は、南北の軸からやや傾いたようにして埋められています。
このうち、南側のふた2枚は外側に、北側のふた1枚は内側に記号があったということになります。

この時代の墓では、「北枕」が多く確認されており橋本特別研究員は「記号は、埋葬された人物の頭の向きと関係しているのではないか」と話していました。

“鏡や剣の副葬品が欠かせない”

佐賀県は今後、1~2週間かけてひつぎに埋まった土砂を掘り起こし、内部を調査することにしています。

長年にわたって吉野ヶ里遺跡を調査してきた考古学者の高島忠平さんは、有力者の墓と確認するには、鏡や剣といった副葬品の発見が欠かせないとしています。
考古学者 高島忠平さん
「想像していたよりかなりの土砂が流入している。骨は無くなっていると思うが青銅の鏡、鉄の刀か剣、玉は残りやすいので副葬されている場合がある。(鏡が出土した場合は)どういう種類の鏡か、鏡が中国でも優品なのか、あるいは一般的なのかをみる必要がある」
弥生後期に存在したとされる邪馬台国は、いまも「畿内説」や「九州説」が唱えられ、その所在地が分かっていません。

吉野ヶ里は、「九州説」の中で可能性がある場所の一つと目されてきましたが、弥生後期の王の墓が見つかっていないことから、邪馬台国の時代においてどのような位置づけだったのかは、分かっていません。

高島さんは、墓の調査について次のように話し、期待を寄せていました。
「吉野ヶ里の巨大な環ごう集落が形成された弥生後期とリンクする。今回の有力者の墓の調査は、邪馬台国論争にインパクトを与える発掘につながると期待している」
佐賀県は雨が降らないかぎり連日調査を続け、結果を公表していくことにしています。

約1800年の時を超えて開かれた棺の全容が近々、明らかにされそうです。
佐賀放送局 記者
真野紘一
2018年入局 佐賀での生活は6年目。現在は歴史や文化を中心に取材。趣味は建築・史跡巡り。
佐賀放送局 ディレクター
保井龍太郎
2020年入局 「世界はほしいモノにあふれてる」を経て現所属。趣味は佐賀の美味しい日本酒のお店を探すこと。