りそなショックから20年 “変わる意味”を問い直す

りそなショックから20年 “変わる意味”を問い直す
日本の一連の金融危機の最後の大波と言われた「りそなショック」からことし5月で20年。

当時、りそな銀行には2兆円近くの公的資金が投入され、実質的に国有化されました。

「銀行の常識は世間の非常識」と宣言し、どん底からはい上がったりそな。

この20年で銀行はどう変わり、当時の危機感のもとで培われた銀行のDNAはその後どう継承されようとしているのか取材しました。

(経済部記者 篠田彩)

どん底から始まる社史

節目となることし、りそなが取り組んでいるのは、この会社としては初めてとなる社史の編さんです。
20年前のりそなショックを知る社員が3割以下となった今、当時の記憶を風化させることなく教訓として伝えたい。

こうした思いを込めた社史の第1章の見出しは「りそな誕生と経営危機」。
発足直後に危機に陥った特異な歴史を象徴するタイトルです。

20年前にいったい何があったのか。

2003年3月に旧大和銀行と旧あさひ銀行が統合して誕生したりそな銀行。

スタート直後から多額の不良債権処理のほか、株式や不動産の含み損の処理への対応に追われました。

そして5月になって監査法人から、将来の収益見通しに基づいて計上するいわゆる「繰延税金資産」の減額を求められ、自己資本比率の大幅な低下が避けられない状況に陥りました。

5月17日、政府は、金融システムに混乱が生じる事態を避けるため、1兆9600億円にのぼる巨額の公的資金の投入を決定。
公的資金の投入額はそれ以前の旧銀行のときに投じられた公的資金とあわせると総額3兆1280億円にのぼりました。

りそなの再生に向けた改革は、翌6月にスタートします。

経営再建を託されたのは、JR東日本出身で新たに会長に就任した細谷英二氏。
銀行での経営経験はありませんでした。

細谷氏はこう訴えました。
「りそなの常識は世間の非常識」
「普通の会社として経営努力を始めよう」
「目指す方向は単なる銀行業務ではなく、金融サービス業への転身だ」
細谷氏は、銀行の窓口の営業時間を午後5時まで延長するなど、個人向けのサービスの強化や、行内の改革に取り組みましたが2012年に病気のため亡くなりました。

その3年後の2015年、りそなは公的資金を全額返済しました。

りそなショックの教訓を残したい

りそな初となる社史の編さんを担当するのは経営管理や営業などの部署から集まった4人の社員です。

このうち20年前の苦境を実体験しているのはリーダーの篠崎貴士さんただ1人。

当時さいたま市の支店で法人向けの営業を担当していました。

実質国有化が決まった日のことを今でも鮮明に覚えています。
篠崎貴士さん
「何とか乗り越えていけるかと思っていたが、『やはりダメだったか』という思いでした。自分たちの会社が、繰延税金資産という会計上の問題で自己資本不足に陥り、人にアドバイスができるような財務内容ではなかったことが、すごく恥ずかしかった。週明け以降、いったいどんな顔をしてお客様に会いにいけばよいのかと不安でした」
チーム発足から1年半。

篠崎さんたちはかつての会議資料やリリースなど、膨大な資料に目を通し、当時を知る社員や取引先などあわせて50人以上に話を聞きました。
篠崎さんが社史編さんに込める思い。

それは自分たちの仕事の原点を見つめ直し、変化に立ち向かうことの大切さを再確認することです。
篠崎貴士さん
「2003年の出来事を取材する中で知った事実は、強い意志を持って、社会の変化に合わせて変えていくということに、すごくこだわって取り組んでいたということだ。いま、大きく地殻変動が起きるようなタイミングにある中で、この変化の時代にどうやって立ち向かうべきか、この中でわれわれが大切にしてきたものは何かといったところを改めて知ってもらうような機会にできればと思う。このタイミングを逃したら、振り返るチャンスがないのではないかと思う。当時を知る人が少なくなる中で、最後のチャンスだ」

引き継ぐべきDNAとは

社史編さんチームのメンバーは、ことし4月、大阪本社を訪れ、当時を知る幹部などから話を聞きました。

この日ヒアリングしたのは、グループのコンサルティング会社で社長を務める山田豊弘さん。

りそなショックの当時は「再生プロジェクトチーム」のメンバーでした。
次の世代に何を残すべきか?
みらいリーナルパートナーズ 山田豊弘社長
「ひと言、ふた言で言うと、感謝と責任だと思っている。国から公的資金をいただいたということ、お客様に助けていただいたという感謝。それに応えていかないといけない責任、これは絶対に忘れてはいけないことだろう。以前、人材育成や研修をする部署にいたが、若い新入社員たちに『りそなショック』の当時の話をするときに、自分の思いやDNAをしっかり伝えてきた。これはかなりこだわりをもってやってきたと自分では自負している」
同じ日に社史編さんチームは、グループの「関西みらい銀行」の菅哲哉会長にも話を聞きました。

20年前は奈良市の支店で支店長を務めていました。
当時の教訓や現役世代に伝えておきたいことは何か?
関西みらい銀行 菅哲哉会長
「ひと言で言うなら、壁は見るためにあるのではなくて、打ち破るためにあるということ。壁を破れない理由を言う人がいっぱいいるけど、自分で勝手に破れない理由をつけている人が多いのではないかと思う。壁を見たときに、大きな壁だなと思ってため息をついて止まってしまう、私も含めてね。だからそれを変えていく。何とかしてこの壁をよじ登るなり、打ち破るなり、一段ずつ抜いていくなり、やり方はいろいろあると思うんですけども、その壁を乗り越えるためにある。銀行の壁を打ち破るような雰囲気自体がわれわれのDNA。改革を忘れた途端に立ち止まってしまう。常に変革、変わっていくことが大事だと思う」
この2人にヒアリングをしたのは、風間美歩さん。

りそなショックから4年後の2007年に入社しました。

風間さんが社史編さんを通じて考えてみたかったのは、「変わる意味」。

リーダーの篠崎さんが強調していた「変わることの大切さ」に通じる言葉です。
風間美歩さん
「入社直後、窓口業務を担当していたときには、なぜこんなに目まぐるしく挑戦し続けなければならないのかという思いでしかなかったが、社史に携わることができて、なぜそこまで速いスピードで強く変わり続けていたのかということを改めて気付かされた。りそなショック当時は、危機を乗り越えるために一致団結して変革に挑戦し続けることができたのだと思う。今はそういう状況ではないが、変わり続けなければならないと感じている。この社史を通じて『変わる意味』を自分で考えたい」

変革のDNA どう引き継ぐか

最後に南昌宏社長にも話を聞きました。

りそなショック当時は企画部のグループリーダーとして当局との折衝にあたった南社長。

今回の社史編さんの目的は、変革のDNAを次世代に引き継ぎ、覚悟をもって新しい挑戦を続けることにあるといいます。
南昌宏社長
「今回の社史はあえて起点をりそなショックが起きた2003年5月17日にさせていただいた。なぜあの状況に至ったのか。そこからどうやって立ち直ってきたのかということを次世代に向け、われわれの意思として言語化し、残していきたい。もう1つは、本当に残していかなくてはならない変革のDNAを、もう1回ここでみんなで共有し、新しい挑戦、新しい歩みを始めようということ。社史にはこの2つの大きなメッセージを込めたいと思っている。私自身の今の仕事は、健全な危機感をもう一度このグループに呼び起こし、大きく変化していくであろうこれからに対して、もう一度あのときの覚悟を持ってチャレンジし、立ち上がれるかということに尽きると思う」
IT技術を活用した金融サービスの開発競争が激化し、従来形の銀行ビジネスは戦略の大転換を迫られています。

りそなショックから20年を経て、変革のDNAは次の世代に引き継がれるのか。

そして、ここから何に挑戦していくのか。

りそなグループは節目となることし、「変わる意味」を問い直す重要な局面を迎えています。
経済部記者
篠田 彩
2014年入局
福井局、名古屋局を経て現所属
金融担当