妹が12年かけてかなえた “夢” ~姉に背中を押されて…

妹が12年かけてかなえた “夢” ~姉に背中を押されて…
姉の「あゆ」妹の「くーちゃん」

お互いをこう呼び、親友のように仲がよかった姉妹。

あの日「あゆ」の命は突然、奪われました。

当時10歳だった「くーちゃん」は、その後「あゆ」のことを話さなくなりました。

あれから12年。この春、夢だった仕事に就いた「くーちゃん」。背中を押してくれたのは、ずっと心の中にいた“「あゆ」の存在”でした。
(報道局 政経・国際番組部ディレクター 津田恵香)

「あゆ」と「くーちゃん」親友のようだった仲よし姉妹

山形県酒田市で生まれ育った菊池来実(くるみ)さん。

16歳上の姉・歩(あゆみ)さんは、いつも優しく包み込んでくれるかけがえのない存在でした。
お互いを「あゆ」「くーちゃん」と呼び合い、けんかをしたことは一度もありません。

来実さんが話すたわいもないことを笑って聞いてくれ、友達とけんかしたときは親身に相談にのってくれました。
菊池来実さん
「いろんなことを話してもノリがよくて、話すことにいつも笑ってくれていて。学校のこととかで相談をすると『そっか、そっか』と聞いてくれるだけでも心落ち着くことが多くて、ありがたかったですね」

大好きだった姉との突然の別れ

2011年3月、来実さんが10歳、歩さんが26歳のとき、姉妹は突然の別れを余儀なくされます。

東日本大震災です。

実は震災の半年前、結婚して宮城県女川町に住んでいた歩さんは、酒田市の実家に戻り、長男・凛くんを出産し、来実さんと一緒に過ごしていました。
女川町に戻った歩さんと凛くん。

その2か月後に震災に遭いました。

歩さんと連絡が取れなくなり、家族は女川町に探しに行くことになりましたが、余震も多く危険なため、小学生だった来実さんは酒田市の叔母の家に預けられました。

家族は車で女川町に向かい、歩さんと凛くんの姿を探し続けました。

歩さんたちが暮らしていたアパートの4階の部屋には、天井近くまで津波が押し寄せたあとが残されていたといいます。
家族の帰りを叔母の家で待っていた来実さん。

来実さんの叔母はレンタルビデオ店で借りてきたお笑いのDVDを流して、来実さんが心配しないように、できるだけ震災のニュースに触れさせないようにしていたといいます。

しかし、来実さんは女川町から帰ってきた家族の様子を見て、重苦しい空気を感じたといいます。
菊池来実さん
「消息が分からないということを誰かに言われたことはなかったんですが、自然と分かった感じだった気がするんですよね。家族が女川町から帰ってきたときの雰囲気がどんと重くなった感じがして。小学生でよく分からなかったけど『あゆ(歩さん)』に何かあったのかもしれないと感じていました」
そして震災の2か月後、歩さんは女川町の海岸で見つかりました。
菊池来実さん
「なんかどんな状況か頭で理解していなくて、もうあぜんとした感じ…。信じたくなかったです。現実のことだと思いたくなくて、現実逃避していたような記憶があります。また会えるはずだって心のどこかで思っていました」
家族は、地震直後に避難する2人を目撃した人から、当時の様子を聞くことができました。

歩さんは高い場所を目指して、石垣を登ろうとしていました。

石垣に手をかけましたが、凛くんを抱いたままでは登りきれず、そのうちに津波が押し寄せてきました。

そのとき、歩さんは「赤ちゃんを絶対に離さない」「私はこの子を離さない」と叫んでいたといいます。

凛くんの消息は今も分かっていません。

あの日から 母にも友人にも姉のことを話さなくなった

震災のあと、来実さんは友人や周囲に、大好きだった姉のことをほとんど話さなくなりました。

小学校で兄弟姉妹のことを聞かれても「年の離れた姉がいる」とだけ話し、それ以上深く聞かれないようにしていたといいます。
家では、テレビCMで赤ちゃんの映像が流れるとチャンネルを変える母・真智子さんの姿を見て、震災や姉のことを家族や周囲に、あまり話さないほうがいいと思うようになっていました。
菊池来実さん
「震災のことを話すと、友達も暗くしてしまうかもしれない。だからあまり出さないようにしていました。(お母さんには)なんか触れず、そばで見ていたみたいな。触れると、もっと悲しみが深くなっちゃうから。そばで見守っていた感じ」
一方、母親の真智子さんも複雑な思いを抱いていました。

できるだけ明るくして、笑わそうとする来実さんに感謝しながらも、歩さんと凛くんのことを語ることが少なくなった来実さんに「あまり思い出さないのだろうか?」と、本当の胸の内が分からなかったといいます。
母 真智子さん
「震災のとき10歳だったので、いろんなことを出さないで、震災のことや歩と凛のことを話さずに過ぎていました。『くーちゃん(来実さん)』には、私の気持ちを押しつけてはいけないと、悲しさだったり思い出を共有できないなあと思うこともありました」

亡くなった歩さんに支えられて“つかんだ夢”

高校生となり、進路を決める段階となった来実さん。

人間関係などで悩むことが多かったため、大学に進学しても同じような状況が続くのではないかと不安を募らせていました。

そんなとき、心の中で励ましてくれたのが、いつも自分の味方になって応援してくれていた歩さんでした。

「『あゆ(歩さん)』なら、きっと見守っていてくれる」
来実さんは、幼いころから好きだったイラストなどを仕事につなげたいと、芸術大学への進学を目指すことを決めました。

来実さんにとっては大きな挑戦でしたが、実技試験のために絵画の練習を続け、志望大学の合格をつかみました。

母・真智子さんとは、これまであまり話題にしてこなかった姉・歩さんと凛くんのことを話す機会も増えていきました。

「小学生になった凛くんは、どんな子どもになっているだろう?」

そんな何気ない時間が流れるようになっていきました。
菊池来実さん
「子どものころとは違って、2人がいたらといろいろ想像することも多くなって、自分の思いをことばにすることもできるようになったような気がします」
そして、ことし3月、来実さんは大学を卒業し、ゲーム会社で新社会人として歩み始めました。
来実さんの巣立ちは、母親の真智子さんにとっても、一つの区切りとなりました。

娘と初孫を亡くした深い悲しみのなか、まだ小学生だった来実さんを育てなければと張り詰めていた気持ちが少し軽くなったといいます。
母 真智子さん
「自分がしっかりしないと、という思いが必ずどこかにあって、だめになったらだめ、倒れたらだめ、病気になったらだめと過ごしてきた12年だったんです。だから娘が大学を卒業し、子育ても終わりで自分のなかの区切り、少し肩の力が抜けたような気がします。『くーちゃん(来実さん)』に『最近何をしていても悲しくなるときがあるんだよ』と言うと『分かる』と言ってくれるようになったので、大人になったんだなって。2人のことをあまり話さないけど、『くーちゃん』なりの悲しみがあったんだなって。同じ人を思うけど悲しみ方は違うんだと思いました」

姉に「ここまで頑張ってきたよ、と伝えたい」

2023年、ことしは13回忌。

家族は、歩さんが見つかった女川町の海岸近くで法要を営みました。
あの日から12年。

来実さんには、歩さんに伝えたい思いがありました。
菊池来実さん
「(姉に)『自分ここまで頑張ってきたよ』っていうのは伝えたい気持ちはあります。大学受験をしたときに一発で合格できたことと、就職でいきたい職種にいけたこととか、頑張ったよっていう感じがあって。それができたのも、やっぱり(姉が)心の支えなのかなっていう感じもありました。『おめでとう』って言ってくれる気がしますね」
心の中で歩さんに背中を押され、志望する職に就いた来実さん。

入社から2か月近くがたち、思うようにいかないこともあるといいますが、希望を持って進んでいます。
菊池来実さん
「自分で担当したゲーム作品を、誰かに楽しんでもらえることが目標です。これからも前向きに、せっかく今を生きているから楽しくありたいと思います」
報道局 政経・国際番組部ディレクター
津田 恵香
2005年 入局
震災後2016年に仙台局に赴任
巨大津波の被害や遺族の思いなどを継続取材