スティーブ・ジョブズと盛田昭夫

スティーブ・ジョブズと盛田昭夫
アメリカの会社でありながら「魂の半分は日本」と言われたアップル。創業者のスティーブ・ジョブズが憧れていた、日本の起業家がいる。ソニー創業者の1人、盛田昭夫だ。ビジネスで日本を訪れるようになると、たびたび面会を求め、盛田を質問攻めにした。ジョブズと共にアップルを率いた盟友で2人の交流をよく知る人物らにアメリカで取材した。両者に共通しているのが、シンプルで美しいデザインとモノづくりへのこだわりだ。(World News部 佐伯健太郎)※一部敬称略

憧れの起業家

初期のアップルでマーケティングを担当したダニエル・ルインさんがジョブズと出会ったのは、1977年。当時、ルインさんはソニーで働いていた。
ダニエル・ルインさん
「1977年4月に働き始めた頃、同じ週にアップルが隣に引っ越してきました。スティーブが私の営業所にやってきて、製品についていろいろと質問してきました。製品を紹介するパンフレットの紙の質までさわってたしかめたりしていました」
斬新な製品を相次いで世に送り出し、日本のみならず、欧米を中心に支持を広げていたソニー。その陣頭指揮をとっていたのが、創業者の1人、盛田昭夫だ。
特に世界を席巻した携帯型ヘッドフォンステレオは、可能なかぎり小さくし、スイッチの数も少なくした。シンプルなそのデザインはジョブズの憧れの的だった。

マーケティングの手腕を買われ、アップルのCEOに就いたジョン・スカリーさんによると、ジョブズは、日本に行くたびに、盛田の自宅に招かれて夕食を共にしていた。

ある時、2人は盛田からCD(コンパクト・ディスク)を再生できる発売前の最新の製品をプレゼントされた。

アメリカに帰る機内でジョブズは、スカリーさんに製品を渡すよう求めた。
ジョン・スカリーさん
「私が『どういうこと?これは2人にくれたものだよ』と言うと、彼は『違う。2つともバラバラにして、アップルの技術者に細部まで見てもらうんだ』と言いました。彼は、細部へのこだわりをとても尊敬していました」
ジョブズにとって、日本の物づくりのすべてが凝縮された“教科書”だったのだ。

知りたいのは製品の背景にある“ストーリー”

スカリーさんによると、ジョブズは盛田に会うと、モノづくりの秘訣を聞き出そうと、質問攻めにしていた。特に、「ウォークマン」の開発に盛田がどれだけ関わったのか、プロセスの細部を聞きたがった。
ジョブズ
「盛田さん、私は製品の背景にあるストーリーを知りたい。どのような経緯で製品のアイデアを思いついたのか?開発を手がけたチームとはどのように連携したか?デザイナーとどれぐらいやり取りしたか?製造の過程や素材にどれぐらい注意を払ったか?」
その結果、盛田が多くの工程に関わっていたことが分かった。2人のやり取りをそばで見ていたスカリーさんが言う。
スカリーさん
「東西の異なる文化圏にいる2人の創業者が、製品のデザインについてあれこれ話すというのは、珍しいことでした」
アップルの初期のパンフレットには、「洗練を突きつめるとシンプルになる」のことばがある。「シンプルさ」へのこだわりも、盛田から学んだものだった。
スカリーさん
「私たちが常に立ち返る基本的な考えは、『洗練を突きつめるとシンプルになる』ということです。スティーブは、日本の文化とモノをつくる人たちが持つその考えを称賛していました。盛田さんも、『私たちはシンプルということに多くの注意を払っています。シンプルさというのは、製品を開発して作り上げるときの最優先の原則です』と語っていました」
盛田はとてもオープンに接し、どんな質問にも答えた。
スカリーさん
「スティーブがやっていることにとても関心を持っていました。関係は非常にオープンでした。盛田さんもスティーブも、人々の生活を変えることができる製品をつくるという観点で世界を見ていました」
盛田は、ジョブズたちにこんな機会も与えていた。
スカリーさん
「製品を開発するエンジニアやデザイナーと会うことも許可してくれました。工場の生産現場を見ることもできました。アメリカの会社からは決して得られないチャンスを、盛田さんは与えてくれました」
30以上年齢の離れたジョブズについて、盛田は親しい幹部社員に「ソニーは時々、ああいう大ファンをつくるんだよなあ」と感慨深げに話していた。

日本へのリスペクト

ジョブズは、この交流で得た知見を、自社の製品開発に生かした。すなわち、デザインを真っ先に考え、それに基づいて機能や構造、部品の大きさなど全体をコントロールしていくというものだ。

ジョブズは、ソニーからデザイナーまで引き抜いていた。ハルトムット・エスリンガーさんだ。

ソニーでは、デザインスタジオと経営管理の部署が同じ地位にあり、デザインが工場での生産と密接に結びついていたことを高く評価し、ジョブズにもそれを求めた。
エスリンガーさん
「スティーブは、アップルのコンピューターを世界一のデザインでつくりたいと思っており、とても野心的でした。しかし、会社組織をどのように動かせばいいものをつくることができるのかは、分かっていませんでした。私が最初に提案したのは、デザインの担当者にもっと発言権を持たせることでした。過激な提案でしたが、そうしないとうまくいかないんです。ただ、私たちは社内で戦わなければなりませんでした。スティーブが組織を改革すると、社員たちに嫌われることもありました」
さまざまな壁にぶつかりながらも「世界でコンピューターを変える」と話していたジョブズは、「マッキントッシュ」に、日本から学んだすべてを注ぎ込んだ。
エスリンガーさん
「スティーブと日本、そして日本文化とのつながりは、アップルの初期の製品開発のときにできました。日本企業のシステムを使い、信頼関係を築いたことが、成功につながりました。アップルは日本企業をモデルの基礎にしていたんです」

モノづくりを愛することで共鳴し合った2人

1990年代になると、インターネットの普及もあり、パーソナルコンピューターはより身近なものになった。ジョブズが考えたように、多くの人がコンピューターを使って、「自己表現」をする時代がやってきた。

スカリーさんが、「スティーブと私が一緒に仕事をしたすばらしい思い出を物語るものを見せましょう」と言って、書斎を見せてくれた。
それは、スカリーさんがアップルに移ってから1年後に、ジョブズからサプライズでプレゼントされたもので、マジックで書かれた図があった。この図は、コンピューター業界の未来を描いたものだという。
生き残るのは、アメリカでもアップルなど限られた企業だけ。一方、その上に描かれた日本の国旗。ジョブズは、ソニーのような日本企業がライバルになると予測していたのだ。

スカリーさんは日米2人の異色の起業家をこう評している。
スカリーさん
「2人は、企業の収益をいかに獲得するかというビジネスモデルのことを話すことは全くありませんでした。盛田さんも、スティーブも、モノづくりを愛することで共鳴し合っていたのです」
World News部
佐伯 健太郎
昭和62年入局
スティーブ・ジョブズが日本文化から受けた影響を継続的に取材。ことし、ジョブズの同僚らの証言をアメリカで取材、8年間の集大成を番組化