WEB特集

スティーブ・ジョブズ マックを生んだ日本の版画との出会い

「スティーブ・ジョブズの日本での経験が彼の人生にとってどれだけ重要だったのか、よく理解しています」
アップル創業者のジョブズが製品に表現した日本との深い結びつきを解き明かす最高の“語り部”にインタビューする機会を得た。今回は、明治後半から戦後にかけて作られた木版画=「新版画」とジョブズとの関係について掘り下げる。(World News部 佐伯健太郎)

日本のアートがジョブズの寝室に

「スティーブの家を初めて訪れたときは、とても驚きました。部屋には家具がほとんどなかったのです。『こういうのが好きなのか。それとも、買い物をする時間がないだけなのか』と聞くと、彼は『こういうシンプルな生活が好きなんだ。必要なものさえあればいいんだ』と答えました」
こう話すのは、ジョン・スカリーさん(84)。アップルのCEOを10年間務め、創業者のジョブズと「ダイナミック・デュオ」と呼ばれる非常に親密な関係を築いた。

マーケティングの名手として知られ、ジョブズの熱烈な勧誘を受けて、大手飲料メーカーのCEOから1983年4月にアップルのCEOに転身した。
ジョブズの誘い文句「一生、砂糖水を売り続けたいのか、それとも一緒に世界を変えたいのか」は、あまりにも有名だ。

スカリーさんは、1985年にジョブズを会社から追放した人物でもある。

アップルのCEOに就くまでの5か月間、2人は互いを理解するため、親密に付き合った。スカリーさんがアップルに移ってからも、会社やジョブズの家で、毎日のように夜遅くまで過ごした。

当時のアップルは経営が良くなかったため、出張したホテルでは同じ部屋に泊まり、日本へも一緒に行った。

スカリーさんは、日本のアートとの接点が、ジョブズの寝室にあったことを明かした。
ジョン・スカリーさん
ジョン・スカリーさん
「スティーブの寝室にシンプルな一人用のベッドがあり、壁には、アインシュタイン、ガンディー、そして、女性を描いた日本の木版画がかかっていました。ほかにあったのは、ティファニーランプだけでした」
アインシュタインとガンディーなら、ジョブズがアップル復帰後に展開した”Think Different”キャンペーンのポスターにも載っていたので、好みとして理解できる。
しかし、その2つと並んで日本の木版画があったとは…

「変だと思いませんでしたか?」思わず尋ねると、表情一つ変えずに答えた。
スカリーさん
「スティーブのことをよく理解していたので、変だとは思いませんでした。彼は自分にとって大切なものは、とても注意深く選んでいました。そして、日本文化から大きな影響を受けていました。だから、アインシュタインやガンディーと同じぐらい、日本の木版画が大切だということは、彼にとってはまったく自然なことだったのです」

20世紀版の“浮世絵”

スカリーさんが話した木版画とは、日本の「新版画」のことだ。

ジョブズの寝室にあったのは「朝寝髪」(あさねがみ)とみられる。彼は1983年3月に初めて訪れた銀座の画廊でこの作品を購入している。
「朝寝髪」(1930年 鳥居言人)
「新版画」とは、明治後半から戦後にかけて作られた木版画のことで、江戸時代に生まれた浮世絵のいわば20世紀版だ。

伝統的な彫りや摺りに新しい技法を取り入れたモダンな絵画表現で高い芸術性を目指し、特に外国人に売れる作品を目指した。
現代日本版画展(1930年 オハイオ州トリード美術館)
そのねらいは、1930年代のアメリカで花開いた。1930年と1936年にオハイオ州のトリード美術館で大きな「新版画」の展覧会が開かれ、海外での人気が頂点を迎えた。

そして40年後、まだ少年だったジョブズが、その「新版画」に魅了されることになる。

日本のアートとの初めての出会い

ジョブズの親友ビル・フェルナンデスさんはサンフランシスコ近郊のシリコンバレーで生まれ育ち、その後、アップルの社員第1号になった。今は、アメリカ南西部のアルバカーキに住む。
ビル・フェルナンデスさん
ビルさんはジョブズを電子機器の世界に引き込み、2人は自宅のガレージでいろいろなものをつくった。

パーソナルコンピューターの歴史に残る場所として、ジョブズの家のガレージがとても有名だが、徒歩で10分ほど離れたビルさんの自宅の方が先輩格だ。ジョブズのコンピューターのキャリアはここから始まったのだ。

ビルさんの母親のバンビさんは、家に入り浸るジョブズを息子のようにかわいがった。
電子機器の工作をしたビルさんの家(カリフォルニア州)
バンビ・フェルナンデスさん
「スティーブは我が家によく出入りしていました。スティーブはまわりのものに興味があって、よくしゃべっていました。だから、スティーブとは友人として話すことが楽しく、私とはとても良い友達でした」
実は、この親友の家の居間にかけられていたのが、日本の「新版画」だった。それは、ビルさんの祖父が1930年代から買い集めたコレクションだった。
「日光街道」(1930年 川瀬巴水)
ジョブズがじっと見ていたのは、居間のソファの後ろの作品。日本のアートとの初めての出会いだった。
ビル・フェルナンデスさん
「スティーブの美意識は私の家で形作られました。彼は『新版画』に引き寄せられているようでした。中でも、森の道を人が歩いている作品は、カリフォルニアにある背の高いアメリカスギの森にとてもよく似ていました。彼が『あれ、カリフォルニア?』と聞くと、母が『いいえ、それは日本よ』と答えていました」
ビルさんの家系は、日本ととても縁が深い。バンビさんは、名門スタンフォード大学で日本の美術を学んだ。

ビルさん自身もアップルを辞めたあと、1979年から1981年までの2年間、札幌で英語を教えながら合気道を学び、念願の黒帯をとった。
中央付近のひげをたくわえた男性がビルさん
さらに、ビルさんの伯父も、戦後、外交官として日本で過ごしたことがあり、バンビさんの「新版画」のコレクションには、彼からのプレゼントも含まれている。

「新版画」に加え、簡素な家具、花を生けた花瓶など、ビルさんの家ではバンビさんがシンプルで簡素な雰囲気にしつらえていた。

ビルさんは「新版画」との出会いこそ、ジョブズの「シンプルでエレガントな」日本の美を探求する出発点になったと話す。
ビル・フェルナンデスさん
「スティーブが、シンプルですっきりしたもの、自然の木、そういうスタイルのアートや美的感覚がいいと言い出したのは、『新版画』を見てからでした。彼のシンプルさとエレガントさへの愛は、生涯を通じてみることができます。それは、彼が創り出したアップルの製品に表現されていきました」
ジョブズは、「新版画」の精巧でしかもシンプルな美しさに魅了された。やがて、仕事で日本に行くようになると、コレクションもするようになった。

ただ、世界的にも有名な浮世絵と比べると、「新版画」は日本人のあいだでさえ知られていない。

「自己表現」という理想を貫く

大学で工業デザイナーを目指したスカリーさんは、ジョブズとアートについて多く話をした。

「マッキントッシュ」のデビューより10か月前の1983年3月下旬。日本から帰国したばかりのジョブズは、とても興奮しながら、「新版画」について夢中で話し始めた。
ジョブズ(左)とジョン・スカリーさん
スカリーさん
「スティーブは、伝統的な浮世絵とは全く異なる『新版画』の制作手法をとても気に入っていました。浮世絵は、絵師が描いた下絵を元に、彫り師が版木を彫り上げ、摺り師が色を摺って作品を仕上げます。それは分業制で、一人の人間がやるわけではありません。スティーブが『新版画』を気に入ったのは、そうした浮世絵の3つの役割を一人で”自己表現”していることでした。それこそまさに、彼がマッキントッシュで目指していたことだったからです。スケッチから始めたものをコンピューターのスクリーンに描き、プリンターで印刷するまでのすべてを、一人でできるのです」
浮世絵の制作は、それぞれの工程が別々の職人による完全な分業制で行われていた。

これに対し、「新版画」は、複雑な色合いを表現しようと何重にも色を重ねて浮世絵を超えることを目指した。絵師が自身の制作意図を、彫り師と摺り師に細かく伝えることによって高い芸術性を実現した。
彫り師に指示を出す川瀬巴水
このため、目指した摺りの回数が30回以上におよぶ作品もあった。浮世絵の2倍から3倍だ。

有名な北斎の「凱風快晴」(がいふうかいせい)は摺りの回数が7回。
「増上寺の雪」(1953年 川瀬巴水)
一方、1900年代に活躍し、精緻な作風で知られる川瀬巴水の「増上寺の雪」はその6倍の42回だ。

いい作品をつくるためには、手間と人手を惜しまなかった。見えない部分に相当のエネルギーをかけて制作に手間をかけたため、1点の作品が摺られるのはせいぜい数百部だった。

ジョブズは、高い芸術性を実現するため、「新版画」の絵師が全ての工程をコントロールし、「自己表現」という理想を貫いていたことに、強いインスピレーションを受けていたのだ。

スカリー氏にこう言った。
ジョブズ
新版画の絵師が、彫り師や摺り師をとおして実現した”自己表現”こそ、まさに、マッキントッシュの技術でやろうとしていることなんだ

大勝負を賭けたアイコンに映し出したのは

28歳のジョブズが1984年1月に発表した「マッキントッシュ」の宣伝用の写真だ。

大勝負を賭けたマッキントッシュのアイコンに、ジョブズは浴衣姿の女性の絵を使い、スクリーンに映し出した。


この絵は、新版画の「髪梳ける女」。流れるような髪の毛のつやや量感が細かく表現されている。
「髪梳ける女」(1920年 橋口五葉)
作者の橋口五葉(はしぐちごよう)は、日本人で最初に新版画を制作した芸術家として知られる。

スクリーンの絵は、ジョブズが所有していたものをスキャンして取り込み、最終的にイラストに仕上げた。当時は、本物の画像をコンピューターに取り込めるということ自体が驚きだった。
スカリー氏
「デザインをデジタル化して、プリンターで印刷する。スティーブは、机の上で印刷でき、人々に創造的な能力を与える『デスクトップ・パブリッシング』を目指していました。それこそがマッキントッシュの存在意義でした」
「コンピューター歴史博物館」(カリフォルニア州)
ジョブズは「髪梳ける女」を、マッキントッシュ発表前後の1983年6月と1984年2月に銀座で購入している。1点は会社用に、もう1点は自身のためにということだろうか。

このときジョブズは、「コンピューターで髪を動かしてみたい」と言っていた。「髪梳ける女」は、「自己表現」を象徴する作品だったのだ。

作品を選び取る審美眼の確かさ

ジョブズは、ビジネスで日本を訪れるようになると、銀座の老舗の画廊「兜屋画廊」に姿を見せるようになった。

ジョブズは接客した松岡春夫さんに、「新版画を集めたいので、いろいろ教えてください」と言った。

しかし、松岡さんはやがて、作品を選び取るジョブズの審美眼の確かさに驚く。重要な作品をきちんとおさえていた。若かったにもかかわらず、作品を見る眼には、プロの感覚を感じたという。
松岡春夫さん
松岡さん
「『教えてください』と言っているわりには、すでに画集が頭の中に入っていて、好みもきちんと整理されているんじゃないかと思うほど、重要な作品を選んでいたことが印象に残っています」
ジョブズが1983年3月に初めて訪れてから20年のあいだに、松岡さんから購入した「新版画」は、少なくとも48点にのぼる。

生涯愛した「新版画」

2004年に撮影され、ジョブズが自宅の書斎でくつろいでいる写真。

奥に注目すると、鳥居言人の「朝寝髪」が飾られているのが分かる。1983年3月に「兜屋画廊」を初めて訪れたときに購入した「新版画」だ。

かつて、「必要なものさえあればいいんだ」と言っていたジョブズ。お気に入りの作品だったに違いない。

2003年秋にすい臓がんを告知されたジョブズは、このころ、松岡さんに電話をかけている。あいにく松岡さんは不在で、留守録音には「Hi,Haru.I am Steven Jobs」というメッセージだけが残っていた。

病と闘いながらも、ジョブズはiPhoneをはじめとするヒット商品を作り続け、2011年10月5日に56歳の生涯を閉じた。

最期の寝室の壁にも、「新版画」がかかっていた。

娘のリサ・ブレナン・ジョブズさんが父親との関係をつづった著書の最初のページには、ジョブズが亡くなる3か月前の病床の様子が記されている。
「(父の部屋には)寺の黄昏と夕暮れの巴水の版画の額がかかっていた。ピンクの光のかけらが壁に伸びていた」
「新版画」を愛し続けた生涯だった。

ジョブズの「新版画」コレクション

▼川瀬巴水
1「塩原おかね路」(1918年)
2「塩原畑下り」(1918年)
3「塩原志ほがま」(1918年)
4「塩原あら湯路」(1919年)
5「伊香保の夏」(1919年)
6「雪の白ひげ」(1920年)
7「雪に暮るる寺島村」(1920年)
8「三十間堀の暮雪」(1920年)
9「奈良二月堂」(1921年)
10「阿伏兎の観音」(1922年)
11「唐津」(1922年)
12「大坂高津」(1924年)
13「新大橋」(1926年)
14「明石町の雨後」(1928年)
15「池上本門寺の塔」(1928年)
16「市川の晩秋」(1930年)
17「山中湖の暁」(1931年)
18「上州法師温泉」(1933年)
19「京都清水寺」(1933年)
20「越ヶ谷の雪」(1935年)
21「薩※た峠の富士」(1935年)※「土」へんに「垂」
22「船津の富士」(1936年)
23「山中湖不動坂」(1936年)
24「阿かい夕日」(1937年)
25「西伊豆木負」(1937年)
26「吉田の雪晴」(1944年)
27「富士の雪晴」(1952年)

▼鳥居言人
1「帯」(1929年)
2「雨」(1929年)
3「化粧」(1929年)
4「湯げ」(1929年)
5「髪梳き」(1929年)
6「雪」(1929年)
7「朝寝髪」(1930年)
8 作品名不明

▼橋口五葉
1「髪梳ける女」(1920年)
2「髪梳ける女」(1920年)
3「京都三条大橋」(1920年)
4「雪の伊吹山」(1920年)
5 作品名不明

▼伊東深水
1「対鏡」(1916年)
2「浴後」(1917年)
3「春」(1917年)
4「春」(1917年)
5「伊達巻の女」(1921年)
6「夜の池之端」(1921年)
7「涼み」(1922年)
8「おしろい」(1923年)
9「雪の夜」(1923年)
10「眉墨」(1928年)
11「吹雪」(1932年)
World News部
佐伯 健太郎
昭和62年入局
スティーブ・ジョブズが日本文化から受けた影響を継続的に取材。ことし、ジョブズの同僚らの証言をアメリカで取材、8年間の集大成を番組化

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