“カープは私たち自身” 93歳 始球式で1球に込めた思いとは?

“カープは私たち自身” 93歳 始球式で1球に込めた思いとは?
4月に行われたプロ野球・カープのデーゲーム。球場には、始球式に臨む男性の姿がありました。

球団が発足して以来73年間、応援を続けてきた男性。

「生活も苦しかったのに、なんであんなに好きだったんだろう。やっぱりカープは私たち自身だったんよね」

広島市を本拠地とするカープは、被爆後の心の支えとも言える存在でした。

(広島放送局記者 福島由季)

始球式

4月8日、広島カープの本拠地、マツダスタジアム。始球式の場内アナウンスが響きました。
「戦争の悲惨さや平和の尊さを伝える活動をされている、中西巖様による始球式です」
お気に入りだというカープのはっぴを羽織った中西巖さん(93)。

一歩一歩踏みしめるようにマウンドに向かいました。

奪われた青春

1930年に、今の広島市中区土橋町で生まれた中西さん。幼いころは体が弱く、よくかぜをひいては病院に行っていたそうです。

本を読むことや国語の勉強が好きだった中西さんは、広島高等師範学校の付属中学校(現在の広島大学附属中学校)に進学。

1年生と2年生の時は、仲間と共に勉強に励んだりマラソン大会に出たりするなど、充実した生活を送ることができました。

しかし3年生になると、戦況は悪化。同級生約150人全員で、広島市南区の広島陸軍被服支廠で勤労奉仕をすることになりました。
旧陸軍被服支廠は1913年に完成した、軍服や軍靴を製造する施設です。

中西さんたちの仕事は、軍服やかばんを作るための布を運ぶことでした。長さ2メートル以上、重さ200キロはある、防火の、カーキ色の分厚い布が巻かれた筒を、4、5人が一組になって運びました。

毎日、ただただ働き続けました。けがをしそうになっても、軍人からは早く働くように命令ばかりされました。

ミシンで布を縫っていた女学生たちの中には、太い針が指に刺さって気絶し、運ばれていく人もよくいたといいます。

中西さんは日がたつにつれて、「どうせ死ぬんじゃけえ」と、心がすさんでいったといいます。

助かった自分、助けられなかった命

8月6日。

中西さんは広島市中心部、爆心地からおよそ400メートルほどの場所まで加工する布を取りにいくため、被服支廠の外でトラックの到着を待っていました。

午前8時にトラックが来る予定でしたが、到着が遅れていました。

午前8時15分。

一瞬体が宙に浮き、爆風が渦を巻いているように感じました。

気がつくと、うつ伏せで倒れていました。

近くに塀があったことで熱線にさらされるのを免れ、奇跡的にほとんどけがはありませんでした。

中西さんは、「もし、予定どおりトラックが来ていたら、間違いなく一瞬で命をなくしていたと思います」と話します。

爆心地から2.7キロに位置する被服支廠は臨時の救護所となり、多くの負傷者が運ばれてきました。

中西さんは、被爆者が次々と亡くなっていく様子を目の当たりにしました。
中西巖さん
「やられたー、とかね、熱いとか、うめき声が聞こえてきました。何人も私にすがりついてきて、助けて、助けてと言われましたが、誰1人助けることができなかったというのが今でも、申し訳無く思っています。この時のことは、絶対に忘れることができません」

戦後ヒロシマに誕生したカープ

カープが誕生したのは、終戦から5年後の1950年。当時20歳だった中西さんは、広島市立工業専門学校、現在の広島大学工学部に通っていました。
生活が苦しい中でしたが、よくカープの試合を見に行きました。

当時は、現在の西区観音町にある「広島総合球場」が、カープのホームグラウンドでした。

中西さんは、今でも当時の球場の光景を鮮明に覚えています。
中西巖さん
「球場に土ぼこりが舞ってね。座る所がないんです。とにかく人がたくさん詰めかけて、スタンドが満員で、グラウンドの中に縄を張って人を入れていました」
卒業後、中西さんはせっけんを作る工場で働きました。牛の骨から油を取ったり、せっけんを成形する作業を担当していました。

決して楽ではない日々の中、カープは中西さんの心の支えとなりました。

しかし、親会社を持たない球団はすぐに経営難に陥ります。
貧しい戦後の時代に、市民が入場料とは別に募金する「たる募金」で球団を支えました。
中西巖さん
「生活が苦しかったのに、たる募金もなんべんもしました。どうしてあんなにカープが好きだったんかな。考えてみると、やっぱり自分たちだと思ったんですよね。戦後どうにかして生きよう、復興しようとする私たち自身と、カープを重ね合わせていたんだと思います。復興の1つのシンボルでもあるような気がしました」

不撓不屈

中西さんは、不撓(ふとう)不屈の精神でプレーする選手たちの姿に励まされてきました。

特に印象的だったのが、カープの黄金時代を支えた鉄人・衣笠祥雄選手の活躍だったといいます。
「衣笠選手はケガをしても前へ前へと向かっていってね。ともかく、死に物狂いで頑張るという姿をね、われわれも手本にしなければなと思ったね」
体の4か所にがんを患い治療を受けながら、被爆証言や被服支廠の保存活動を長年続けてきた中西さん。70歳を過ぎたころから、自分を支えてくれているカープの始球式をしてみたいと夢を抱くようになりました。
そして、被爆から78年のことし。念願の始球式が実現することになりました。

きっかけは、同じ地域に住む中学校の同窓生が、球団に中西さんの思いを伝えてくれたことでした。

ところが、始球式の10日ほど前。近所の公園で練習をした帰りに転倒し、右手を骨折してしまいます。
手術も受け、一時は諦めかけました。しかし、中西さんは左手で投げることを決断しました。

被爆者である自分が始球式に臨むことで伝えたいメッセージがあったからです。
「被爆者としての思いを、ぶつけたいと思ったんです。左手では、まともな球は投げられないかもしれませんが、精いっぱい、核兵器廃絶の思いを込めて投げるつもりです。世界に届けばいいですけどね」

1球に思いを込めて

迎えた、当日。家族や、被服支廠の保存活動を一緒に行う仲間が応援に駆けつけました。
控え室では、家族や仲間にフォームを見てもらいました。

少し緊張した面持ちで、選手たちが待機するベンチの横を通りすぎグラウンドに出ていくと、真っ赤なユニフォームで染まったスタンドが目の前に広がりました。
そして応援歌が流れると、中西さんは体を揺らして歌いながら、笑顔を浮かべました。

「すばらしい。胸が高鳴る」。
いよいよ、始球式に臨む時が来ました。

平和への思いを託した1球を、球場全体が見守ります。
左手で握った球をキャッチャーめがけて投げると、球場は大きな拍手に包まれました。

大役を終えた中西さん。

目頭を押さえました。
中西巖さん
「感無量。こんな日がくるとは、夢にも思わなかった。長生きをさせていただいて、いろんなときに、生かされて生かされて、こんなことまでさせてもらいました。私が被爆者だということを皆さんに知ってもらえたと思いますから、それにつながる核兵器廃絶の思いが少しでも皆さんに伝わったらうれしいです。命あるかぎり、とにかくとにかく自分のできることを、頑張ります」
カープに励まされてきた中西さんの不撓不屈の姿を通して、私たち自身も励まされているように感じました。
広島放送局記者
福島由季
2021年入局
広島市出身
経済や原爆の取材を担当