高見のっぽさんは京都市出身で、俳優で芸人だった父親の元で修行を積み、1966年からNHK教育テレビで放送された子ども向け番組「なにしてあそぼう」と、1970年に始まった「できるかな」に「ノッポさん」という役であわせて20年以上にわたり出演しました。
ひと言もしゃべらず、ジェスチャーを交えて鮮やかに工作を作り出す姿が子どもたちの人気を集め、「できるかな」では、相棒のキャラクター「ゴン太くん」とのコンビも話題となりました。
また、2005年、71歳の時には、NHKの「みんなのうた」で放送された「グラスホッパー物語」でみずから作詞と歌を担当しました。
バッタのおじいさんにふんして歌いながら踊る姿が反響を呼び、10か月間にわたる異例のロングラン放送となったほかその後、本人が出演するミュージカルとして舞台化もされました。
高見さんはこのほかにも児童書などの執筆や民放の子ども番組の放送作家としても活躍するなど子どもたちに関連する仕事を数多く手がけてきました。
こうした功績が認められ2007年にはNHKの放送文化賞を受賞しています。
関係者によりますと周囲を騒がせたくないという本人の希望もあり、これまで公表されていませんでしたが、高見さんは去年9月、88歳で心不全のため亡くなったということです。
高見のっぽさん死去 88歳 子ども番組「できるかな」で活躍
NHK教育テレビの子ども向け番組「できるかな」で「ノッポさん」として長く親しまれた俳優の高見のっぽさんが心不全のため88歳で亡くなりました。

“小さい人を信じて見守ってほしい” 高見のっぽさんの思い

「できるかな」とノッポさん

「ノッポさん」こと高見のっぽさんは20年間にわたりNHK教育テレビで放送された子ども向け番組「できるかな」に出演しました。
番組では、ノッポさんはフェルトの帽子をかぶってひと言もしゃべらないという設定でした。
相棒のキャラクター「ゴン太くん」も不思議な声を出しますがことばは話しません。
番組では、ノッポさんはフェルトの帽子をかぶってひと言もしゃべらないという設定でした。
相棒のキャラクター「ゴン太くん」も不思議な声を出しますがことばは話しません。

ナレーションで「ねえねえ、ちょっと、ノッポさ~ん」と呼びかける声にノッポさんはジェスチャーで応えながら、音楽にのせて次々におもしろい工作を作り出していきました。
15分間のこの番組は、毎回ほぼノンストップで収録され、その臨場感も人気でした。
器用に工作を作っているように見えたノッポさんですが、実はもともと不器用で工作には苦労していたそうです。
番組では、子どもたちに、工作の手順ではなくものを作ることの楽しさを伝えようとしていました。
このため工作は簡単にできるものばかりではなく、難しいものもあったということで、ノッポさんはいつも真剣な表情で取り組んでいたということです。
そして、うまくできた時に見せる笑顔は演技では無く、本当に心から喜んでいる表情でした。
番組でノッポさんとゴン太くんは完成した工作を使って楽しそうに遊んでいましたが、このときもノッポさんはひと言も話しませんでした。
そんなノッポさんが初めてことばを発したのは、およそ20年に及んだ番組の最終回、1990年3月の放送でした。
15分間のこの番組は、毎回ほぼノンストップで収録され、その臨場感も人気でした。
器用に工作を作っているように見えたノッポさんですが、実はもともと不器用で工作には苦労していたそうです。
番組では、子どもたちに、工作の手順ではなくものを作ることの楽しさを伝えようとしていました。
このため工作は簡単にできるものばかりではなく、難しいものもあったということで、ノッポさんはいつも真剣な表情で取り組んでいたということです。
そして、うまくできた時に見せる笑顔は演技では無く、本当に心から喜んでいる表情でした。
番組でノッポさんとゴン太くんは完成した工作を使って楽しそうに遊んでいましたが、このときもノッポさんはひと言も話しませんでした。
そんなノッポさんが初めてことばを発したのは、およそ20年に及んだ番組の最終回、1990年3月の放送でした。

ノッポさんは「あーあ、しゃべっちゃった」と語り出し、番組が終わること、そして4月からは新しい番組が始まることをみずからのことばで子どもたちに伝えました。
ノッポさんがしゃべったことは当時、大きな話題になりました。
高見さんの事務所の代表で舞台やイベントなどで共演してきた古家貴代美さんは「ノッポさんは『自分で試してみる、工夫してみる、失敗する、でもまたへこたれずに頑張ってみることが非常に大事なんだ。一生懸命やることが大切で、それを笑う人間は相手にしなくていいんだ』とよく話していました。番組ではしゃべっていませんでしたが、実際にはおしゃべりでユーモアがあって、優しい人でした」と話していました。
ノッポさんがしゃべったことは当時、大きな話題になりました。
高見さんの事務所の代表で舞台やイベントなどで共演してきた古家貴代美さんは「ノッポさんは『自分で試してみる、工夫してみる、失敗する、でもまたへこたれずに頑張ってみることが非常に大事なんだ。一生懸命やることが大切で、それを笑う人間は相手にしなくていいんだ』とよく話していました。番組ではしゃべっていませんでしたが、実際にはおしゃべりでユーモアがあって、優しい人でした」と話していました。
「できるかな」のっぽさんが起用された訳
高見のっぽさんは、自身のことを不器用だと話していましたが、そんなのっぽさんが工作を作る番組に起用されたのには訳がありました。
番組では、ひと言もしゃべらずに軽快な音楽にのせて工作を作っていました。
所属する事務所によりますと、のっぽさんは出演が決まる前に、さまざまな番組に出ていて、その際、飛び抜けて体の動きがよく、表現力がすばらしかったことから、制作陣が新しい番組に抜てきしたということです。
また、のっぽさん自身も、番組でのイメージを大事にしていました。
プライベートではおしゃべりな一面もあったということですが、「できるかな」に出演している間は、イメージを崩してはいけないと、ほかの番組への出演はほとんど断っていたということです。
事務所によりますと、のっぽさんは、もともと「高見映」という名前で活動していましたが、番組が終了してからもノッポさんのイメージで見られることが多く、2005年ごろに芸名を「高見のっぽ」にみずから変えたということです。
事務所の関係者は、生涯を「ノッポさん」として生きているように見えたと振り返っていました。
番組では、ひと言もしゃべらずに軽快な音楽にのせて工作を作っていました。
所属する事務所によりますと、のっぽさんは出演が決まる前に、さまざまな番組に出ていて、その際、飛び抜けて体の動きがよく、表現力がすばらしかったことから、制作陣が新しい番組に抜てきしたということです。
また、のっぽさん自身も、番組でのイメージを大事にしていました。
プライベートではおしゃべりな一面もあったということですが、「できるかな」に出演している間は、イメージを崩してはいけないと、ほかの番組への出演はほとんど断っていたということです。
事務所によりますと、のっぽさんは、もともと「高見映」という名前で活動していましたが、番組が終了してからもノッポさんのイメージで見られることが多く、2005年ごろに芸名を「高見のっぽ」にみずから変えたということです。
事務所の関係者は、生涯を「ノッポさん」として生きているように見えたと振り返っていました。
「ぽっかり穴が空いた感じ」30年訪れていたそば屋
のっぽさんがよく訪れていたという東京 豊島区のそば屋「安曇野」で、社長の横山浩太郎さん(71)と長男の浩史さん(38)に話を聞きました。
のっぽさんとの出会いは、30年以上前。
のっぽさんは、この店にひとりで訪れたり、仕事の関係者と打ち合わせに使ったりしていたといいます。
お気に入りの席は、店の壁側の階段下のスペースでうどんを注文し、かきあげとエビ天ぷら、生卵と一緒に食べるのが好きだったそうです。
のっぽさんの訃報のニュースを受けて浩太郎さんは「すごく喪失感というか、ぽっかり穴が空いた感じです」と残念な気持ちを口にしていました。
のっぽさんとの思い出たずねると、浩史さんは、4年前、生まれたばかりの自分の子どもと、のっぽさんが対面したときの写真を懐かしそうに見せてくれました。
のっぽさんが「本当にかわいいね」と自分のことのように喜んでくれた姿をよく覚えているといいます。
さらに、「店に来た子どもたちを自然とさりげなくあやしている感じで。子どもがいつの間にか笑いだす感じでした」と話し、のっぽさんの、子どもに対するまなざしがいつも温かったと振り返っていました。
のっぽさんとの出会いは、30年以上前。
のっぽさんは、この店にひとりで訪れたり、仕事の関係者と打ち合わせに使ったりしていたといいます。
お気に入りの席は、店の壁側の階段下のスペースでうどんを注文し、かきあげとエビ天ぷら、生卵と一緒に食べるのが好きだったそうです。
のっぽさんの訃報のニュースを受けて浩太郎さんは「すごく喪失感というか、ぽっかり穴が空いた感じです」と残念な気持ちを口にしていました。
のっぽさんとの思い出たずねると、浩史さんは、4年前、生まれたばかりの自分の子どもと、のっぽさんが対面したときの写真を懐かしそうに見せてくれました。
のっぽさんが「本当にかわいいね」と自分のことのように喜んでくれた姿をよく覚えているといいます。
さらに、「店に来た子どもたちを自然とさりげなくあやしている感じで。子どもがいつの間にか笑いだす感じでした」と話し、のっぽさんの、子どもに対するまなざしがいつも温かったと振り返っていました。