「応募ゼロ」伝統芸能 文楽の未来は…

“原則23歳以下、未経験可。人間国宝からの指導もあり”
江戸時代に大阪で生まれた伝統芸能、「人形浄瑠璃文楽」の研修生の募集の条件です。

文楽は舞台に立つ「技芸員」の多くを研修制度で養成していますが、今年度の応募がなんとゼロに。制度が始まって以来初めての事態に、関係者は頭を抱えました。

(大阪放送局 記者 井上幸子)

大阪が誇る伝統芸能「文楽」

「此の世のなごり 夜もなごり 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足づゝに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ」

大阪 日本橋にある国立文楽劇場。

この日の演目は、近松門左衛門の「曽根崎心中」でした。
無実の罪を着せられた商家の使用人 徳兵衛と、新地の遊女 お初の悲恋を描いた作品です。

登場人物の繊細な感情を表現する人形、物語の世界へいざなう太夫の語り、そして音で情景を伝える三味線が三位一体となって、人の心の深淵を描き出します。

研修生の応募ゼロ?前代未聞の事態

文楽は世襲制ではなく、技芸員の多くを独自の研修制度によって養成してきました。

しかしこの春、その研修への応募が1人もありませんでした。

制度が始まって以来初めてのことです。

大阪が誇る伝統芸能に何が起きているのか。

研修生の養成を行う、国立文楽劇場に聞きました。
「研修制度を50年以上やっていますが、これまで少ないなりに応募があったので、とてもショックを受けています」

研修員の養成を担当している国立文楽劇場の柳川文雄さんは、初めての事態に戸惑いを隠しきれない様子でした。

研修生の応募条件は、中学卒業以上の男性で、原則として23歳以下。経験は問われません。

2年間の研修で、人形・太夫・三味線の基礎をひととおり学び、この3つから専門を選びます。

研修ではこれ以外にも、箏曲や狂言、謡、日本舞踊、茶道などを学び、受講料は無料です。

研修が終われば、技芸員として舞台に出演できるようになります。

応募者の数は年によってばらつきがあり、昭和の時代には20人近い年もあったものの、ここ10年ほどは減少傾向にありました。
応募数の減少には、新型コロナの感染拡大が影響したのではないかという見方もあります。

劇場を訪れる観客の数は、コロナ禍前の令和元年は年間10万人を超えていましたが、令和4年度は6万人弱と客足はまだ戻りきっていません。

柳川さん
「研修生の応募がなぜ減ったのか、分析はなかなか難しいです。少子化や、景気の動き、学生たちの就職活動の流れもあるかと思います」

私も過去に数回、劇場に足を運んだことがありますが、文楽の公演は、特に若い人にとって敷居の高いものになっているかもしれないと感じます。

物語の舞台は鎌倉時代や江戸時代などで、セリフも現代のことばではありません。

また、1つの演目を通しで観ると10時間を超える長さのものもあり、一般的な舞台や映画のような気軽さはありません。

研修生の募集の期限は毎年2月です。

今年度は応募がなかったため、国立文楽劇場では、4月28日まで期限を延長する異例の対応をとることにしました。

果たして応募はあるのか…。

去年入った ただ1人の研修生は

今年度の応募がなかったため、今残っている研修生は去年入った1人だけです。

ただ1人の研修生は、今回の事態をどう受け止めているのでしょうか。
研修2年目の古谷諒さん(23)が、文楽に興味を持ったのは高校生の時。

三味線を習っていた古谷さんは、母親に連れられ、初めて見た文楽のかっこよさに魅せられたそうです。

大学卒業後、IT関係の企業の内定を断り、文楽の道に入ることを決めました。

古谷さんが専門に選んだのは人形でした。

文楽の修行は、一人前になるのに30年かかるとも言われる厳しいものです。

1体の人形を、主遣い、左遣い、足遣いの3人で操る人形遣いも例外ではなく、「足遣い10年、左遣い10年」などと言われています。

「頭がパンクしそうになるほど覚えることが多く大変です」と話す古谷さん。

ただ、その表情は、ことばとは裏腹に生き生きとしていました。

応募がないことをどう思うか問うと、こんな答えが返ってきました。
古谷さん
「厳しいし、覚悟もいりますし、つらいこともありますけど、それ以上に楽しさが上回っているのかなって。三味線・太夫・人形のそれぞれの息が合ったときの良さは、ほかにはありません。修行は大変だし、気軽においでよとはいえないけれど、ちょっとでもやりたいなと思ったら来て、体験してほしいです」

人間国宝にも聞いてみた

古谷さんを指導する講師役にも話を聞きました。

人形遣いの人間国宝、桐竹勘十郎さんです。

文楽の火を絶やしてはならないと、みずから若手の指導にあたっています。

人形遣いの父をもつ勘十郎さんは、14歳でこの世界に入り、ことしで57年目。

女性の繊細なしぐさから豪快な立役まで、さまざまな役柄を感情豊かに演じる人形遣いとして高く評価されています。

思い切って聞いてみました。

若い人が来ないのは、文楽の敷居が高く、修行が大変なイメージがあるからでは?
桐竹勘十郎さん
「どの仕事も人材不足だと聞いていますが、私たちがやっているのは、その中でも特殊な部類の仕事だと思います。世の中はどんどん便利になって、動かなくても何でもできる時代になってきているのに、私たちの芸能は、1つの人形を3人でつかったり、非常に手間がかかります。しかし、めんどくさいことをしないと生まれないことがたくさんあるんですよ。これが非常におもしろいなと、僕は思う。今の時代には合わないかもしれませんけれど、それでこそ生まれるおもしろさを、お客様に表現したいので、その手間はどこも抜けない。そういう手間のかかるものの魅力を知ってもらいたいです」

修行は手を抜けない。

けれど若い人には来てほしい。

勘十郎さんは苦しい胸の内を1つ1つことばを選びながら丁寧に語ってくれました。

では、その「手間がかかるからこそのおもしろさ」を若い人たちに理解してもらうには、どうしたらいいでしょうか。

桐竹勘十郎さん
「妙案はなかなかないんですが、文楽は世襲ではありませんので、太夫でも三味線でも人形でも、やろうと思えばどなたでもできます。もっとお気楽にと言ったらおかしいが、あまり難しく考えないで、おもしろそうやなと思ったら、一度体験してもらえたらと思います」

どうする文楽?

応募期限の4月28日、劇場に2通の願書が届きました。

しかし、条件に合わないなどでいずれも選考に至らず、今年度の研修が開講できない、異例の事態となっています。

文楽劇場では特例的に、今年度は締め切りを設けずに募集を続けることにしています。

応募があった時点で選考試験を行い、合格者が出れば開講して、2年間の研修を行う予定です。

国立文楽劇場 養成係 柳川文雄さん
「文楽という芸能を長く続けていくためには、若い世代の研修生が必要です。これまでと同じ応募の方法では若い人は集まらないだろうという危惧は関係者はみんな持っています。何かしないといけない」
文楽劇場では今年度から、養成事業の一環として、学校に出向いて文楽体験教室を開くなど、若い人に興味のすそ野を広げてもらう取り組みを始める予定です。

「文楽は、年齢を重ねるほどに味わいがわかるようになる芸能」と関係者は話します。一方、研修生の年齢は原則23歳以下です。

条件を変えずに研修生を募るなら、若者にその魅力をどうアピールするのか知恵を絞らねばなりません。

戦争や災害をくぐり抜け、江戸時代から300年の長きにわたり続いてきた文楽。

令和の時代の波を、どう乗り越えていくのでしょうか。