トイレットペーパーはなぜ消えた?

トイレットペーパーはなぜ消えた?
第一次オイルショックが起きた1973年、全国のスーパーからトイレットペーパーが消えた。

その発端とされているのは大阪のあるスーパーだった。

なぜトイレットペーパーは消えたのか。

あれから50年。店が閉店するのを前に、当時を知る人たちを訪ねると意外な理由が見えてきた。

「これはえらいことや」

「当日出勤したら、午前10時の開店前に200人ぐらいの大行列ができていた。もうびっくり仰天。これはえらいことやと。」

1973年10月31日。

大阪・千里ニュータウンのスーパー「大丸ピーコック 千里中央店」の従業員、清水暉人さんは目を疑った。

突然、主婦たちが押しかけ、トイレットペーパーを次々に買い求めていく。

これまで、トイレットペーパーを買うための行列なんて見たことがなかった。
訳が分からない。

行列騒ぎは連日起き、新聞やテレビを通じて全国へ伝えられた。
1973年11月2日 毎日新聞朝刊
『買いだめ騒ぎ』広がる
「一日、大阪・千里ニュータウンの「大丸ピーコック」で、午前十時の開店を前に主婦ら二百人以上がナガーイ列。トイレットペーパーを手に入れるため」
当時の店員 清水暉人さん
「なんとか騒動が収まってほしいと思って、トイレットペーパーの製造メーカーを走り回り、店に商品を届けてくれるようにお願いしてまわりました。当時、毎日トイレットペーパーの夢を見るほど大変でした」
当時のことを住民たちは今でもはっきりと覚えているという。
住民 赤井直さん
「陸橋の反対側まで、大勢の人々が2・3列になって整然と並んでいた。みんな子ども連れですよ。小さい子どもを連れた人がたくさんいてたから、よけい人数が膨らんで見えた」
住民 山口靖利さん
「並んだけど店の中は入れへん。店の前で「もうこれで終わりです」言われてしまいやん。みんなで『えぇっもう売り切れたん』って。『隠してるんちゃうの?』っていう人もおった」
買いだめの対象はやがてトイレットペーパー以外にも砂糖や塩、洗剤などさまざまな日用品に及び、全国的な“モノ不足パニック”へと広がった。
第4次中東戦争をきっかけに始まったこの騒ぎ。

背景には、原油価格の引き上げや供給量の削減が決まり、あらゆる物の値段が上がるのではないか、という世の中の不安があった。

いわゆる「オイルショック」だ。

各地で物が買い占められている様子は「オイルショック」の象徴的なシーンとして、中学校の歴史の教科書にも載っている。

ニュータウンならではの事情が…

でもなぜ、真っ先にトイレットペーパーが無くなったのだろうか。
そこには、この街ならではの事情があった。

大阪万博が開かれた1970年にかけて建設された、千里ニュータウン。
5階建ての団地などに、若い世代が一挙に入居してできた新しい街だった。
上下水道完備で、当時はまだ30%程度の普及率だった水洗トイレが、この街では各家庭に当たり前のようにあった。

従来のくみ取り式のトイレでは、主に「ちり紙」と呼ばれる紙が使われていたが、水洗トイレでは水に溶けるトイレットペーパー以外は使えない。
住民 山口靖利さん
「トイレに“トイレットペーパー以外は使わないでください”って書いてあったのに、代わりに新聞紙を流して詰まった人がいっぱいいた。下の階で詰まったらアウト。上の階まで汚物が上がってしまう。トイレットペーパーが無くなるのを想像するのが怖い」
千里ニュータウンに暮らす12万人にとって、トイレットペーパーは“生活の命綱”だった。

そこへ、あるうわさが流れたという。
住民 赤井直さん
「八百屋さんのおばさんと話してたら、こられたお客さんが『大変や。オイルショックでトイレットペーパーがなくなるらしいよ』っていうんです」

「『え、何で?』って聞いたら『なんか知らんけど、オイルショックで機械を動かす油がなくなるから、トイレットペーパーが作れなくなるんだって』と」

「みんなが驚いて『え、本当?トイレットペーパーがもう作れなくなるの!?そりゃ大変や!』って」
うわさ自体は、情報の出どころすらもわからない、不確かなものだった。

当時、紙の需要が高まったため、通産省から紙の節約が呼びかけられていて、役所にも古紙回収箱などが設置されている状況だった。
“オイルショックでトイレットペーパーが作れなくなる”という真偽不明の情報はあっという間に広がっていく。

若い子育て世代が多く、住民どうしの助け合いが当たり前だった町では、うわさの“拡散”も早かった。

住民の多くが入居していた団地は階段を挟んで玄関どうしは向かい合わせ。

こうした団地ならではの構造も、拡散に拍車をかけたという。
住民 赤井直さん
「お互いにドアを開ける音が聞こえるから、こちらがドアを開けたら向こうも顔を出して、日常的にいろんな話をしている。同じ階段を共有する10軒で集まって、知っていることはなんでも共有していた」

「『5分あったらわぁーっとうわさが広がっちゃう』っていう意味で『千里5分』と言っていたくらい、この街では情報の広がりが速い」
このころ、町のあちこちのお店でトイレットペーパーが次々と売れ始めていた。

重なった偶然

実はこのとき、まだトイレットペーパーは十分にあった。
翌年の国民生活白書にも「生産実績は落ちているわけではない。生産の不足はなかった」と記されている。

むしろ前の年よりも多く生産されていたのだ。

しかしタイミングが悪かった。

10月31日、「大丸ピーコック」の新聞の折り込み広告に特売品として載っていたのが、トイレットペーパーだった。

1パック4ロール入りで138円。

予想を上回る客が殺到し、用意していた分があっという間に売り切れた。
当時の店員 清水暉人さん
「いつも水曜日にチラシを入れていて、たまたまこの日はトイレットペーパーが特売品だった。特売は1か月ほど前から計画していて、まさかあんな事態になるとは想像していなかった」
「どんな商品でもかまわないからほしい」

特売品がなくなった後も、客が後を絶たない。

そこで清水さんたちは、別の商品をふだん通りの価格で店頭に並べた。
それでもトイレットペーパーは飛ぶように売れていった。

この騒ぎを新聞記者が聞きつけていた。

当時の新聞には、店内で奪い合うようにトイレットペーパーを買い求める人々の写真と共にこんな記事が載った。
<1973年11月1日 毎日新聞 大阪版 夕刊>
紙の狂騒曲
「折込み広告では「一個(四巻き)百三十八円」となっていたのに、品切れを理由に実際の値段は『一個二百円』。アッという間に六十二円も“値上がり”したわけだが、主婦はこぼしながらも買いあさり、開店三十分で全部売り切れてしまった」
清水さんにとっては寝耳に水だった。
当時の店員 清水暉人さん
「特売品が無くなったから通常の値段の商品を出しただけなのに、値上げしたみたいにセンセーショナルな書き方をされた。本当に憤りを感じた。特売チラシがきっかけになって騒動が広まったとまで言われることもあった」

「嘘だと分かっていても買ってまう」

清水さんの店に行列ができているという話は「トイレットペーパーがなくなる」といううわさと一緒にすぐ広まった。

「そんなはずはない」と思いながらも、つい買いだめに参加してしまったという人もいた。

86歳の山口靖利さんもその一人だ。
住民 山口靖利さん
「『トイレットペーパーがなくなる』といううわさは聞いていたけど『そんなアホなことはない』と信じていなかった。どうせ単なる店の売り惜しみだろうと」

「だけど、嫁はんに呼ばれて実際に行列を見たら『やっぱり本当に無くなるのか』と思った。戦後、物がなくてお金を持っていても買えなかった経験が身に染みているから、『明日あらへん』というのは嫌、もうこりごり。買いだめするのは悪いと分かっていても、家族のためにも買っておかなきゃしょうがないと」
山口さんは、会社の慰安旅行先でもトイレットペーパーを買って帰ってきたという。そのころトイレの棚には、6パックが所狭しと詰め込まれていた。

当時のニュースでは「生産は順調」だと盛んに伝えられたが、騒ぎはすぐには収まらなかった。

関西各地で棚が空になったり、人が殺到している様子が伝えられていた。

ようやく落ち着いたのは、やがて店に大量の商品が入荷されるようになってからだった。

人々が躍起になって買いだめに走った、トイレットペーパー騒動。
その実態は、ニュータウンという特殊な環境に、不安な社会情勢やさまざまな偶然が積み重なり、うわさが広まったことによるものだった。

千里ニュータウンの歴史に詳しい専門家はこう指摘している。
関西大学総合情報学部 奥居武 特任教授
「住民も若くて行動力があり、同世代が多くて口コミの回りも早く、人口もほぼピーク。4人家族が多くトイレが使えないと困る…といった諸条件が重なったために、騒ぎにブーストがかかった。この出来事は『千里ニュータウンの黒歴史』として、長く住民が口を開くことははばかられてきたが、絶対的な悪人は、誰もいなかった」

再び消えたトイレットペーパー

それからおよそ半世紀。
トイレットペーパー騒動は再び繰り返された。

2020年、新型コロナウイルス感染拡大の不安のなか、SNSで広がった「トイレットペーパーが不足する」といううわさが発端だった。
全国各地のスーパーやドラッグストアに、買いだめをする客の行列ができた。

「ウソだとはわかっているけど買ってしまう」という声がまた聞かれた。

そのころ、NHKは全国のニュースで「在庫は十分」だと繰り返し報じている。大量のトイレットペーパーの映像と共に。
この騒動を、オイルショックに振り回されたスーパーの店員だった清水さんは冷静に見ていた。
当時の店員 清水暉人さん
「また『何でかな』と。人間って変わらへんのやろうね。トイレットペーパー騒ぎを若いときに経験した方が、コロナ禍でまた買い急ぎしている。そして次の世代も同じ行動を起こしている」

「50年前も、1パック買えばいい人が2つも3つも買ったから品薄になったんだと思う。普通の家庭で消費するだけなら、そんなに慌てて買う必要はない。もうこんなことがないように願っていますよ」

スーパーは姿を消しても

うわさ話が広がると、それが真実に見えてくる。
近所のおしゃべり、マスコミ、SNS、伝える手段は変わっても、デマの本質は変わらないのかもしれない。

そんな歴史を見てきたスーパーが入る商業施設が4月30日に閉館し、53年の歴史に幕を閉じた。
店はたとえ姿を消しても、当時の経験と教訓は忘れないようにしたい。二度とトイレットペーパー騒動を繰り返さないために。
大阪放送局 映像制作
蓑輪幸彦
2010年入局。ふだんはニュースの映像編集を担当。去年から千里ニュータウンの歴史や市民活動を取材。トイレットペーパーを使いすぎ家族によく怒られる。