頑張ったじゃ、すまされない 悔いた7年 医師は遺族の元へ行く

頑張ったじゃ、すまされない 悔いた7年 医師は遺族の元へ行く
その子と接したのは3時間余りのことでした。

けれど、その3時間が人生を変えました。

7年間、悔やみ続けてきた医師。

真実を知りたい両親。

「僕らは絶対あの経験を無駄にしません」

初めて対面した医師はそう語りました。

(ネットワーク報道部記者 杉本宙矢 千葉放送局 櫻井慎太郎 おはよう日本 長尾宗一郎)

その子には夢があった

熊本県合志市に住んでいた宮崎花梨(かりん)ちゃんは活発な女の子でした。

ブランコに乗るのが好きで、公園を走り回りたくて仕方がない4歳でした。

特技はお絵かき。よくお気に入りのお姫様のキャラクターをクレヨンで描いていました。
花梨ちゃんには夢がありました。

制服を着て幼稚園に行って、2歳上のお姉ちゃんと、みんなといっぱい遊ぶこと。

ピッカピカのランドセルを背負って小学校に登校すること。

お姉ちゃんが買ったばかりのランドセルをジーッと見つめていました。
けれど、その夢はかないませんでした。

花梨ちゃんは4歳で亡くなりました。

回復の兆しが見えそうで…

花梨ちゃんには先天性の心臓の病気がありました。

「完全型房室中隔欠損症」

根本的な治療は難しく、ふだんは24時間酸素を吸入し、投薬もしながらの生活でした。

一生病気とつきあっていくことを決めると、2016年の1月末に大きな手術を受けました。

手術はうまくいったかのように見えました。
ただ、術後の容体が安定せず、経過観察のため4月まで、集中治療室(ICU)と一般病棟を行き来していました。

人工呼吸器をつけ、大量の薬剤投与を行っていて、安静が絶対条件だと言われていました。

一時は回復の兆しが見られたこともあったといいます。

そこに直撃したのが、2度の大きな地震、2016年の熊本地震でした。

花梨ちゃんにけがはありませんでしたが、未明に起きた2度目の地震の後、両親は医師からこう言われました。

病院に倒壊の恐れがあるので、転院を承諾して下さい

ICUの中でも余震が続いていました。揺れるたび、眠っている花梨ちゃんに母親のさくらさんは何度も覆いかぶさりました。

やむなく転院の方針を受け入れましたが、絶対安静が求められていた花梨ちゃんの行先はおよそ100キロ離れた福岡県の病院。救急搬送用の車両でも2時間半かかる道のりでした。

さくらさんたち家族は車で追いかけました。地震後で路面が壊れ、渋滞もありました。

ICUで別れ、ようやく転院先の病室で花梨ちゃんと再会できたのは、4時間以上経ってからのことでした。
母親のさくらさん
「一番安全のはずの病院がなんで…って。あれだけ治療を頑張っていたのに、転院先で再会したときには酸素飽和度の値が70とか見たこともないぐらい低くて…透析を止めた影響なのか、顔もむくんでしまって、もう元の面影もありませんでした」
5日後、花梨ちゃんは息を引き取りました。その後、病院の機能停止と転院時の負担があったとして「災害関連死」に認定されました。

転院搬送を指揮したのは私です

「精いっぱいやりましたけど、やっぱり現場では結果がすべてです…」

鹿児島市立病院の高間辰雄医師は、花梨ちゃんの転院搬送を指揮した1人でした。
ふだんは救急医として働き、災害医療派遣チーム「DMAT」としての経験も積んできた高間医師。

2016年4月14日21時26分、熊本地方で「震度7」を観測する最初の地震が発生すると厚生労働省から出動要請を受け、当時勤めていた北九州市の病院から熊本に向かいました。

一部の病院では、ライフラインが途絶。建物倒壊の危険もある中、治療を途切れさせないため患者を一斉に転退院させる「病院避難」にあたりました。200人近くを避難させる大規模なオペレーションもありました。
しかし、そこでは終わりませんでした。

4月16日午前1時25分。

のちに「本震」と呼ばれ、阪神・淡路大震災と同規模のマグニチュード7.3を観測する揺れが襲います。高間医師たちが病院から患者を搬送させようとしていた矢先でした。

なんとかその病院での避難が完了すると、16日早朝、次に向かった先が、花梨ちゃんがいる熊本市民病院でした。

最後に残された女の子

行ってみると病院は大変なことになっていました。

建物には無数の亀裂。多くの窓ガラスが割れ、水道管から水が漏れ、1階の天井から水が落ちている状況でした。

あとで分かったことですが、かつての熊本市民病院は一部の病棟が耐震基準を満たしていませんでした。
300人を超える患者全員の避難の準備。

高間医師たちDMATは、中でも難しいNICUの新生児や切迫早産の妊婦、最も重症な子どもなど13人の県外への広域搬送を指揮することになりました。

応援の消防や九州各地の病院と連携を図り、一部ヘリコプターでの搬送も行いながら、おおむね避難は順調に進んだようにも見えました。
けれど、最後に一人取り残された子がいました。

花梨ちゃんでした。

ICUでは大きな余震が来るたびに、お母さんらしき女性が花梨ちゃんに覆いかぶさるような体勢をとっていました。

一刻も早く何とかしなければ…

しかし、搬送車両が見つかりません。問題は、花梨ちゃんの状態と付随する医療機器でした。

重い肺炎を起こしていた花梨ちゃんには、人工呼吸器のほか、シリンジポンプと呼ばれる電動の投薬装置が10台もつながっていました。

とても通常の救急車ではスペースが足りない。装置10台分の電源バッテリーなんて確保できない。

ヘリでは高度が上がると気圧が下がって体に負担がかかり、大量の機材を載せるスペースも確保できないと判断されました。

車両も混乱の中での手配は難しく、片っ端から電話かけた末に、なんとか見つけたのは応援のドクターカー。

座席も荷物も降ろせるものはとにかく降ろして、やっと花梨ちゃんと機器を乗せて出発したときには、大きな揺れから9時間が経っていました。

あれは“最善”だったのか?

花梨ちゃんが亡くなったと知ってから、高間医師は自問自答を繰り返していました。

「あの子は本当にヘリで運べなかったのか?」

次第に思いは無視できなくなり、高間医師は、勤めていた北九州市の病院を辞めることにしました。

日頃からドクターヘリを運用している鹿児島の病院に移るためでした。
新たな職場では、県内各地の離島や山間部などから、1日4、5件のヘリ搬送がありました。

航空医療が日常と隣り合わせの奄美大島の県立病院でも、2年間の経験を積みました。

教科書には答えが書かれていない実践の世界。

花梨ちゃんの搬送で取り得た選択肢を求め、数々の機体に乗り込みました。

「当時、ドクターヘリなら狭くて彼女は乗らなかった。じゃあ多くの医療機器をつないだままでも運べる陸上自衛隊のヘリなら?」
「これならあのシリンジポンプ10台でも収まるか…」

ヘリコプターはパイロットとの交渉しだいでは、高度を下げたり上げたりすることができるということも分かってきました。

機材を減らして運ぶ方法も考えられるようになりました。
個別のヘリコプターの性能、要請の仕方や運用システムを熟知しなければ、適切な判断ができないことも見えてきました。

ふだんはしない対話の理由

この7年間で、高間医師は航空機医療のプロフェッショナルとなり、今や後進を育てる立場にもなりました。

ただ、ある行き詰まりを感じてきました。

「災害医療はだんだんリアリティがなくなる」

時間が経つごとに、当時の思いが薄らいでしまうのです。

そんなとき、高間医師が目にしたのは、新聞に載った花梨ちゃんの両親の姿でした。「安全で災害に強い病院をつくってほしい」と訴えていました。

高間医師は、ある決心をしました。
「通常、亡くなった患者のご家族に後になって会うことはないんです」

高間医師は熊本駅から車に乗っていました。向かった先は花梨ちゃんの自宅でした。

この7年間の取り組みの原点に向き合いたいと、両親と連絡先を聞き、初めての訪問でした。
高間医師
「自分がうまくいかなかったことに向き合うのは、勇気はいりますね…正直、なに言われるんだろうとか、いろいろどきどきはします。だけど、“会ってもよいですよ”とおっしゃっていただいたので、まずはあのときのことを謝って、それからこれまでのことを話そうと思います」

7年越しの邂逅

熊本県合志市の花梨ちゃんの自宅。

高間医師は、母親のさくらさんと父親の貴士さんに出迎えられました。

「ちょっと緊張しておりますが、仏壇にご挨拶させていただいてよろしいでしょうか?」
花梨ちゃんの仏壇を前に手を合わせた後、高間医師はこう切り出しました。
高間医師
本当にうまくできたかって言われると、いろんな反省点とか、ああできたんじゃないか、こうできたんじゃないかというのが今でもあるんです。

ヘリ搬送はできなかったのかと思いまして、7年間近く航空医療をやってきましたが、まだまだだなと。今回お会いさせていただいて、仏壇に手を合わせて、もう1回原点に返りたいと思いまして…
高間医師は少し言葉を詰まらせると、母親のさくらさんから声を掛けられました。
さくらさん
こんな風に時間が経ってしまいましたけど、あの時は搬送していただいて本当にありがとうございました。私たちは先生がいたからこそ福岡に運んでいただいたと思っています。まずはとにかくお礼を今日は伝えないといけないと思いまして。
そう言われた後、高間医師はせきを切ったように、これまでのことを話しました。
高間医師
実は昨日も札幌まで重症の患者さんをジェット機で運びました。花梨ちゃんと同じように人工呼吸器もついていました。熊本地震のことがなければ、僕らは今のように運ぶことはできていませんでした。

僕らは日々救急医療やっていますけども、災害医療って患者さんは今その目の前にいるわけじゃないんです。常に訓練、訓練。でもいざ災害となれば、ことをはるかに凌駕する状況になります。僕らもいつも備えないといけないのですが、7年とか経つと、あのリアルな現場を感じにくくなってきてしまって…自分の中でもだんだん風化してしまうというのが、すごく怖い部分があって。

20・30代の若手に花梨ちゃんのことを伝えています。人、一人を搬送するというのは、本当に、自分たちが、今できるベストを尽くそうよ、災害は必ず来るから自分たちはプロだと思ってやろうよ、と。きちんと彼女の意思を継いで、何かちょっとでも前に進めてないかなと。すみません、こんな話しかできなくて…
この7年間、繰り返し花梨ちゃんの話を共有してきたことを、両親に伝えました。
高間医師
花梨ちゃんの搬送のことをできればみんなで追体験して、絶対に次に生かそうっていう思いで、これまで訓練もやらせていただきました。奄美の島では重症のコロナの患者さんも搬送したんですけど、常日頃が災害の訓練だと思ってやらせていただきました。さっき手を合わせた時に、“こういう訓練をしたよ”と花梨ちゃんに伝わればいいなと思いまして。

僕らにとっても熊本地震で、本当に、やっぱり一つ一つ検証しなければなりません。あれは何ができて、何ができなかったのか。次はきっと、南海トラフだとか、より大きな災害が起きると思うんです。もしもその時が来たとして、もっともっと多くの人を救うために自分に何ができるのかなって。

「最善を尽くしてくれて」

ときどき言いよどみながらも、高間医師は話し続けました。

その言葉を聞きながら、母親のさくらさんは涙を流していました。

そして当時の本音を口にしました。
さくらさん
DMATの方が『こんな状態の子を運んだことない』と言われたんですよね。それを聞いたときに、やっぱりちょっとの変化も搬送が難しいぐらいの状態なんだって思って。だからもしかしてできなくて見捨てられるんではないかと思って、そのときは。でも、ちゃんと運んでいただきましたから…
父親の貴士さんも声をかけてくれました。
貴士さん
あの時、あの状態ではもう本当に“最善を尽くしてもらった”と思っているので、あの時の経験が次に生きてくれるのであればと思っています。
高間医師はこう返しました。
高間医師
お父様に今、“最善を尽くしてもらった”とおっしゃっていただいたんですけど、ここから先は僕たちの問題で、“頑張った”っていうだけじゃ、絶対済まされない。

頑張ったけど、うまくいかなかった。頑張ったけど、駄目だった。っていうところから、もう一歩上に行くためには、絶対に向き合わなきゃいけないし、そこから必ず得るものがなきゃいけない。これは、全部の医療に通じると思うんです。

花梨ちゃんがそこにいて

面会の時間が1時間半も過ぎるころ、母親のさくらさんからあるものを渡されました。

「花梨と一緒に病院で、手術でお世話になった人へ渡そうといっぱい作りよったんですよ」
それは花梨ちゃんが病院の人へ感謝の気持ちを込めてつくった紙細工、“魔法のステッキ”でした。

「不思議な話なんですけど、先生にお会いすると決まってから、最近ずっと花梨が夢に出てきてですね。たぶん先生に、これを渡してくれってことなのかなと」

本当ならたくさん作られるはずだった“ステッキ”は、地震のために中断し、全部で4個しかありませんでした。

そのうちの一つを高間医師は受け取りました。

受け取った高間医師は「大事にさせていただきます」と言って、そっと鞄にしまいました。

お礼を言って花梨ちゃんの自宅を後にしました。

“訓練は本番のように 本番は訓練のように”

翌日、高間医師はいつものように救急の現場で救急患者の対応にあたっていました。

その合間を縫って、私たちにこんなことを語ってくれました。

「僕自身は、お医者さんって大したことないと思っているんです。少しだけども、患者さんが元気になって、“先生、ありがとね”って言って帰っていく。そこがこの仕事のモチベーションだと思うんですけど、昨日、あの子の仏壇も見て、ランドセルも見ると、純粋に悔しかったなって思いがよみがえってきたんです」

そして、“もしあのときにタイムスリップできたなら”としたうえで、

「あのときに戻っても、うまくいくかはわかりません。でも、悔しかったら、またそれをばねにもうちょっとだけ頑張ろう。で、もう1回できなかったらまた戻る、あの時できなかったことを、次は絶対うまくやろうと。災害医療と向き合って、その先にある未来って何ですかっていわれたら、次はやってやる、そういう気持ちなんじゃないかと思いますね」

高間医師の行く先に、花梨ちゃんは生き続けるのかもしれません。
ネットワーク報道部 記者
杉本宙矢
2015年入局
熊本局を経てネットワーク報道部
2年目のとき熊本地震を経験
地震の遺族・災害関連死などの取材を行ってきた
千葉放送局 記者
櫻井慎一郎
2015年入局
長崎局を経て現在、千葉局の成田支局
熊本地震は長崎から取材に入り、益城町役場で本震を経験した
おはよう日本 ディレクター
長尾宗一郎
2016年入局
広島局などを経て東京・おはよう日本へ
西日本豪雨で災害報道を経験、医療・災害等を取材