大切な物を守り 大切な人を失った 福島の「船方」の物語

大切な物を守り 大切な人を失った 福島の「船方」の物語
去年の冬、夜明け前の港で知り合った漁師の男性。

会うたびに見せる素敵な笑顔の裏に癒えることのない悲しみを抱えていると知ったのは、ちょうど今頃、桜が散ったばかりの季節だった。

「オレには、船しかない」

その言葉の本当の意味がわかったのは、さらに半年ほど経ってから。

娘にも語ってこなかった思いを打ち明けてくれた時だった。

(福島放送局記者 高野茜)

相馬の海に育てられた

福島県相馬市の漁師、菅野秀夫さん(72)。風光明美な松川浦の漁港を拠点に、半世紀あまりにわたり、黒潮と親潮が交わる福島県沖で漁を続けてきた。

狙うのは「常磐もの」の代表格、ヒラメやカレイ。遊泳する魚の行く手を遮るように海底に網を張る「刺し網漁」を専門にしている。

中学を卒業後すぐ漁師になりこの海で生きようと決めたのは、働き者の父・三郎さんの背中を見て育ったからだ。
まだ魚群探知機などが普及していなかった1960年代、三郎さんは家族を養うため、無線も暖房器具もない小さな木造船に乗り込み、コンパスを頼りに沖へ出て網を張った。
菅野秀夫さん
「当時はエンジンとコンパス1個だけだったから、大変そうだった。夏は暑いし、冬は寒いし。でも、親父は頑張り屋だから『俺が頑張らないと、この子どもたちを育てられない。俺が病気したり、漁に行けなくなったりしたらご飯を食べさせられないから、俺は頑張る』って言って、休みもなく頑張っていた」
漁のいろはを教えてくれたのは、もちろん父。その後の人生の大半を、親子2人船の上で過ごし、多くを学んだ。

自分の船の先が見えないほどの濃霧に遭遇し不安を感じた時、魚がまったく取れず落ち込んでいた時、三郎さんがいつも口にしていた言葉があった。

“船方の明日”
(ふながたのあした)

「きょうがダメでも、明日がある。次は大漁かもしれない」。自分たちのことを「船方」と呼ぶ、この地域の漁師がよく使う言葉だ。

オレと親父をつなぐ船

相馬の海とともに生き、相馬の海に育てられた秀夫さんは、30歳の時、父とともに新たな船を造った。
船の名は「善幸丸」。父・三郎さんが家族の幸せを願って名付けた。

レーダーや無線機など、当時の最新機材を積んで沖に出るようになった秀夫さんは、ある日、不意に三郎さんから「舵取りやってみろ」と言われた。初めて一人前の漁師として認められ、船頭を任された瞬間だった。

秀夫さんが前方で網を巻き上げ、三郎さんが網から魚を外して生けすに入れていく。親子二人三脚で海と向き合い、命をいただく日々。漁場の特徴や魚の探し方、それに網の扱い方を三郎さんから学んだ。
菅野秀夫さん
「ここの海底は砂地だとか、ここは網が破けるからダメだとか、ここはイシガレイがいるとか、親父は何も見なくてもわかるんだ。俺も若い頃は反発心が強かったから、魚がかからない時は『どこかに移動しないとだめだ』なんて言ったけど、親父は自分なりの信念を持っていたから、聞かなかったよ」

悔やまれる 12年前の決断

秀夫さんが長年抱えていた後悔の念を打ち明けてくれたのは、秋が深まった頃だった。

相馬の海を愛する親子の運命を変えた2011年3月11日、波は穏やかだった。

いつものように漁を終え、77歳で引退した父・三郎さんと自宅でくつろいでいる時だったという。
午後2時46分。突然、立っていられないほどの揺れに襲われた。

「外に出ると屋根瓦が落ちてきて危ないから、中にいろ」

三郎さんが叫んだ。長い揺れが収まると、秀夫さんは、妻と父、それに孫娘を残し、1人港に走った。

大津波警報が出たので、津波が来る前に影響を受けづらい沖に船を出す「沖出し」をして、漁師にとって「命の次に大事」と言われる船を守ろうとしたのだ。
菅野秀夫さん
「一心同体っていうのもおかしいけど、船方はとにかく船だけは大事にする。ほとんどの漁師が、津波が来ると聞いたら沖出しすることを考える。船を陸に上げられてしまったら壊れちゃうから。最初は2~3メートルの津波だと言っていたので、それなら船を助けなくちゃならないと思って、家族に『俺は船を沖出ししてくる』と言って家を出たんだ」
しかし、この直後、気象庁の津波予想は「6メートル」、そして「10メートル以上」へと引き上げられた。

善幸丸に乗り込んだ秀夫さんは、先に出港した仲間の船を追って沖を目指した。

目の前に、1つ、2つと大きな波が迫っていた。ここで飲まれてしまえば、命はない。震える足で踏ん張って、全速力でその水の壁に挑み、3つ目の波を乗り越えてようやく助かったと安堵した時、街の方を振り返って、信じられない光景を目にした。
菅野秀夫さん
「自宅がある方を見たら、もう真っ白になって何も見えなかった。家族3人何とかうまく逃げてくれていればと案じながら、一晩過ごして、夜明けとともに港に向かった。先に港に入った船に無線でどんな様子か尋ねたら、『皆無です』って答えが返ってきた」
9メートルを超える津波が押し寄せ、自宅があった場所は何もなくなっていた。妻は孫娘を抱えて2階に駆け上がって避難し無事だったが、三郎さんは逃げ遅れ、津波に飲まれてしまった。

「ここには88年津波が来たことなんてないから、大丈夫だ」

それが、秀夫さんが最後に聞いた三郎さんの言葉となった。
遺体と対面できたのは1週間後。秀夫さんは、あの時の行動を今でも悔やんでいる。
菅野秀夫さん
「もし家に残っていれば、おそらく家族全員を車に乗せて、高台に走ったと思う。沖出しに失敗して亡くなった船方もいたが、俺みたいに船を守るため家族を残して沖に出て、家族を流された船方も大勢いた。みんな俺と同じで、ずっと心残りだと思う。船を守るよりも、家族を助けるべきだった。船はまた造れるけど、失った家族は戻らないから」

漁に出られぬ日々

父の形見となってしまった善幸丸。秀夫さんは、大切なものを守った結果、大切な人を失ってしまった。

しかも、東京電力福島第一原子力発電所の事故のため、福島県沖の漁は一時全面自粛に追い込まれ、漁に出ることすらかなわぬ日々が続いた。
船はあるけど、やることはないし、家もない。避難所で休んでいても、漁師の習性で出漁の時間には目が覚めてしまう。

「このままでは、漁師を続けられなくなるかもしれない」
「でも、父の命と引き換えにしてまで守った船を、手放すわけにはいかない」

1人で思い悩むことが増えていった。
菅野秀夫さん
「午前0時頃にはもう目がぱっちり開くのよ。そして、ただ外に出て煙草吹かしてというのが、避難所いたときの状態。俺の船方人生は終わったと思った。中学卒業してすぐ漁師になって、漁師しか知らない奴が、陸に上がって何ができるんだって」
そんな日々が続く中で心の支えになったのは、三郎さんの口癖、「船方の明日」だった。

明日はもっと良い日になる。良い日にする。そのために、俺は何をすべきか。

秀夫さんは、仲間の漁師たちと、海底に沈んだがれきの撤去作業をするようになった。豊かな海に戻すための活動を続け、事故の1年後には「試験操業」の枠組みで、タコとツブガイをとることができるようになった。

そして、事故から4年後、ようやくカレイ漁ができるようになり、秀夫さんも以前のように漁に出るようになった。
菅野秀夫さん
「やっぱり、漁師なんだろうな。たいした量とれなくても、魚の顔見るとうれしくなるんだよ。瓦礫片づけでは、魚の顔見られないから」

新たな風評被害のリスク

しかし、その後も船方たちの悩みは尽きない。

消費者に安心して食べてもらうため、国の基準よりも厳しい自主基準を設けて放射性物質の検査を続けているが、原発事故の風評は事故発生から12年たっても根強く残っている。

さらに、ことし夏頃までには、原発にたまり続ける処理水を基準値以下の濃度に薄めて海へ放出する計画が実行に移されることになっていて、新たな風評被害のリスクにもさらされている。
菅野秀夫さん
「実際に放出が行われてみないとお客さんの反応はわからないが、魚が売れませんって言われれば、ここの漁師は終わりだ。だから、まだじいちゃんのお墓の前では『安らかに眠ってね』としか言っていない。『親父、魚取りさ戻ったぞ』とは報告していないし、なんか報告できないような感じがする」

それでも 海とともに

巨大津波と原発事故に翻弄されながら、ふるさとの海とともに暮らし、11月に73歳になる秀夫さん。

父が船を降りた年齢が近づいてきたが、この豊かな相馬の海を次の世代に残していくため、2人の絆「善幸丸」に乗って、これからも漁を続ける。

「船方の明日」を信じて。
福島放送局記者
高野茜
2019年入局
南相馬支局勤務
栃木県出身のため、漁業と常磐ものを勉強中。好きな常磐ものはホッキ貝。カレーに入れると美味!