熊本地震から7年 犠牲者の遺族が参列して追悼式

災害関連死も含めて276人が犠牲になった一連の熊本地震から、14日で7年となり、熊本県庁では犠牲者の遺族が参列して、追悼式が行われました。

2度の震度7の揺れを観測した7年前の一連の熊本地震では、災害関連死も含めて熊本と大分で合わせて276人が犠牲となり、県内では19万8000棟余りの住宅に被害が出ました。

熊本市中央区の県庁で行われた追悼式には、遺族など23人が参列し、はじめに全員が1分間の黙とうをしました。

そして、蒲島知事が「県民が将来に夢と誇りを抱き、安心して暮らすことのできる熊本を築いていくことを、み霊の前で誓います」と述べました。

続いて、熊本市の自宅で被災し、同居していた89歳の母親、津崎操さんを災害関連死で亡くした、冨永真由美さん(64)が、遺族を代表してことばを述べました。

冨永さんは「突然の地震で、母親を失ったことに、がく然としました。いきなり奪われて初めて、何気ない日常がとてもありがたいことだと実感しました。この経験を風化させず、ふだんから防災の視点を持ちながら日頃の備えをすることは、みんなが助け合って生きる社会の大きな力になると信じています」と述べました。

最後に、参列者が祭壇に花を手向け、犠牲になった人たちに祈りをささげました。

土砂崩れに巻き込まれた大学生の父親“いつも息子のこと考える”

熊本県の南阿蘇村で発生した大規模な土砂崩れで、車ごと巻き込まれ、およそ4か月後に発見された、熊本県阿蘇市の大学生、大和晃さんの父親の卓也さんと、母親の忍さん、それに兄の翔吾さんは、遺影を抱いて追悼式に参列しました。

追悼式のあと、父親の卓也さんは「若者の姿を見ると、いまだに息子と重ね合わせてしまいます。『生きていたらどんな仕事についていたかな』と考えることがあります。7年がたちますが、年月の経過は私たちには関係がなく、5年、10年たとうが、いつも息子のことを考えています」と話していました。

心臓病の娘を亡くした母親“生きていくことを誓いながら”

重い心臓病のため熊本市の熊本市民病院で治療を受けていた宮崎花梨ちゃん(4)は、一連の熊本地震のあと、建物の耐震が不十分で倒壊のおそれがあるとして転院を余儀なくされ、その後、亡くなりました。

母親のさくらさんは、病室で撮影した笑顔でポーズをとる花梨ちゃんの写真と、大好きだった犬のぬいぐるみを手に、追悼式に参列しました。

式のあと、さくらさんは「どれだけ時間がたっても、娘を亡くしたつらさは変わりません。この場に来ると『もう娘はいないんだ』と感じますが、できるだけ頑張って顔を上げて、生きていくことを誓いながらここに来ました」と話していました。

災害関連死で母親亡くした息子“『ごめんな』と伝えたい”

追悼式に参列した熊本県甲佐町の村田浩さん(60)は、7年前の一連の熊本地震で母親の睦子さんを災害関連死で亡くしました。

睦子さんは、地震のあと小学校の避難所で避難生活を余儀なくされ、突然の環境の変化で体調を崩し、地震後、10日余りで亡くなったということです。

式のあと、村田さんは「被災直後、忙しくて十分に看病できず、おふくろには『ごめんな』と伝えたい。この気持ちは時間がたつにつれて深まっています。いろいろ気遣ってくれる、面倒見のよい母親でした」と話していました。

益城町 娘が自宅の下敷きに 両親が跡地訪れ手を合わせる

一連の熊本地震で震度7を2度観測した益城町では、前震で倒壊した自宅の下敷きとなり亡くなった女性の両親が、命日の14日、地震後さら地にした跡地を訪れ、手を合わせて祈りをささげました。

益城町馬水の住宅に暮らしていた宮守陽子さん(当時55)は、7年前に起きた前震で自宅が倒壊し、下敷きとなって亡くなりました。

命日の14日、宮森さんの両親、林田末吉さん(92)とヨシコさん(89)は、さら地にした自宅の跡地を訪れ、手作りの祭壇に手を合わせて、静かに祈りをささげました。

祭壇には、親族や近所の人たちから寄せられたというたくさんの花が供えられていました。

父親の末吉さんは、「夢のなかで『父ちゃん』と自分を呼ぶ娘が出てきて、朝起きてから枕元に置いている娘の写真を見て涙を流します。かわいがっていたひとり娘が亡くなり、悲しいです」と話していました。

母親のヨシコさんは「娘を忘れられません。『地震がなければ』といつも思うばかりですが、7年がたっても多くの人が娘を覚えていてくれることは、幸せです」と話していました。

益城町 消防署員が救助訓練“教訓や思いを継承したい”

益城町で、消防署員による救助訓練が行われました。

救助訓練は、益城町にある益城西原消防署の訓練用の施設で行われ、熊本市と益城町の消防署員12人が参加しました。

訓練は、地震によって倒壊した家屋から人を救助するという想定で行われ、署員たちは機械を使っておよそ20センチの厚さのコンクリートの壁に穴を開けて、助ける人がいないか確認したり、救助のための通路を確保しようと、レスキューバールと呼ばれる鉄の棒でがれきを持ち上げたりしていました。

熊本地震から7年が経ち、地震の後に消防署に入った署員も増えていて、熊本地震での救助の経験や技術の継承が課題となっています。

14日の訓練は熊本地震で活動にあたった2人が中心になって行われました。

地震の際に救助活動などにあたった熊本市消防局の木庭慶一郎消防指令は「訓練を通じて、防災の意識や技術の向上を図るとともに、熊本地震を経験した職員が持っている教訓や思いを部下に継承したいという思いで臨みました」と話していました。

地震の当時18歳で、ことし熊本市消防局に入った川道隆征さんは「市民の命や安心安全を守る仕事に就いて、自分たちがしっかり守らなければいけないという思いで日々取り組んでいます」と話していました。

益城町 全壊した木山神宮の拝殿 復旧工事 いまも続く

益城町の木山神宮では、熊本地震で境内のすべての建物が全壊し、これまでに鳥居と神殿、それに社務所などは再建されましたが、拝殿の復旧工事はいまも続いています。

14日は地元の工務店の大工が足場にのぼって外壁となる木材の取り付け工事をしていました。

新しい拝殿の工事は6割から7割程度進んでいて、6月中に完成する予定だということです。

幼いころから木山神宮に来ていたという大工の西嶋大輔さんは「工事に携われて誇りに思います。住民の皆さんにいち早くお披露目したい」と話していました。

祢宜の矢田幸貴さんは「地域や全国の方に励まされ、あっという間の7年でした。多くの方にお参りいただけるような拝殿になってほしい」と話していました。

益城町 夜には追悼の竹灯籠ともす催し

町の復興まちづくりセンターでは、14日夜に地元の住民たちが手作りした竹灯籠をともす催しが行われ「頑張ろう」とか「笑顔で未来へ」などとメッセージが書かれたおよそ550本の竹灯籠がひとつひとつ並べられました。

そして、日没にあわせて竹灯籠に火がともされると集まった人たちが黙とうをして地震の犠牲になった人たちを悼みました。

地震で自宅が全壊した10歳の女の子は「灯籠がきれいだなと思いました。安全で安心な益城町になってほしい」と話していました。

また、同じく自宅が全壊したという80歳の女性は「当時のことを思い出してもう二度とあんなことが起きて欲しくないです。きょうは犠牲になった人たちを思ってお祈りしました」と話していました。

松野官房長官「引き続き復旧復興に向け支援」

松野官房長官は、閣議のあとの記者会見で「改めて亡くなられた方々の冥福を祈るとともに、すべての被災者に心よりお見舞いを申し上げる。公共土木施設や農業用施設の復旧工事がおおむね竣工(しゅんこう)するなど、復旧・復興が着実に進んでいる。また、住まいの再建・確保も着々と進み、応急仮設住宅の供与も終了するところとなった。引き続き復旧復興に向けて支援していく」と述べました。